五稜郭と片上楽天
向井豊昭


 わたしの手元に、一九一六年(大正5)に出された『五稜郭小史』と、その五年後に出された『五稜郭史』とをコピーしたものがある。いずれも、片上楽天の手によるもの。その自序は、実に愉快だ。『五稜郭小史』の方から、部分的に引用してみよう。

五稜郭は恁麼(どんな)ところ乎(か)と吾も人と競ふて参観して「ナーンダ只濠(ほり)と土塁(どて)計(ばか)り乎(か)」と失望の色を呈する者の多きぞ笑止なる、ドンチャンブー/\の囃子賑かなるを歓(よろこ)ぶ俗物(ひと)は去つて東都(えど)の浅草に行け、尚ほ飽き足らずば遠く浪華(おほさか)の千日前に遊べ、近くて賑かなるを好まば函館恵比寿町狸小路の辺りこそ可かるべし、五稜郭(ここ)はそんな俗境(ぞくち)には非ずして
武士(もののふ)の露と消へにし跡訪へば
 破れし狭間にきり/゛\す啼く 楽天
と云ふ如き幽邃(ゆうすゐ)閑雅なる所に古戦場たる真価(あたひ)のある事を前提(まへおき)として先づ試みに第一の橋上(はし)に立ち城(しろ)門の辺りを看(み)らるべし、其雄大(おうき)なる構造(かまへ)に何となく崇高(けだかき)の念(おも)ひ浮ぶべく而(そ)して清らかなる壕水(ほり)に臨(のぞ)む時は自(おのづか)ら俗腸(はらわた)を洗ふに足りなん

 楽天は、本名を良と言った。松山藩波止浜(はしはま)村(今治市波止浜)の人。家は代々庄屋を務めたが、楽天の父の代に明治維新と遭遇。長じて楽天は村長の職につくが、間もなく一家で村を出る。
『五稜郭小史』が出されたのは、彼が五十歳を過ぎた年。五稜郭のほとりに住み、片上楽天堂なる土産店を営み、五稜郭もなか、武揚おこし、蝦夷にしきの三種の菓子を売っていた。榎本武揚が夢に現われ、その製法を伝えたのだと、『五稜郭小史』の付録では述べられている。
 附録には、「北海名産竜紋氷(りうもんこほり)の由来」という文章もある。全文引用しよう。

函館の名物竜紋氷は四国九州の津々浦々まで消夏(なつ)の好飲料(のみもの)として歓(よろこ)ばれて居る事は人の知る所なるが、其氷は明治二年の冬三河の住人(ひと)中川嘉兵衛なる人、五稜郭の濠(ほり)にて製造せしに始る、而して其氷質佳良なるを以て精良品約六百噸(とん)を得これを横浜に輸送したる処多大の高評を博したれば、漸次設備を改善し爾来毎年数千噸(とん)を採取するに至れり、其後幾星霜を経て廿三年以来池田某前者(なかづは)に代りて経営し再転して今は山田啓助なる人の業とはなれり
採取期は一月より二月上旬迄なる、が肌を劈(つんざ)く寒気を冒して勇ましく伐氷搬出の状況(さま)は、実に偉観壮烈を極むるを以て特に見物に出掛る好事家陸続たり
五稜郭の氷を何故(なにゆゑ)竜紋氷と称へる乎(か)と云はんに、初代の経営者より嘗(かつ)て内国勧業博覧会へ出品して得たる褒状に画(えが)かれありし竜の紋模様に因みしなりと云ふ

 竜紋氷のことで終わってしまっては、楽天さんに申し訳ないが、枚数が延びてしまっては、『はこだでぃ』の東福さんに申し訳ない。先を急いで行くことになるが、とにかく彼は、ただの土産店主ではなかった。懐旧館と名づけた建物には、榎本側の視点で人形を配した「函館戦争実況場面」なるものを作り、そのパンフレットには「精神修養史料」という文字を刷り込んだ。儲けは、五稜郭内の戦死者の荒れた墓の改修に注ぎ込んだのである。
 市立函館図書館と道立図書館の資料からコピーをとって送ってくれたのは、根室地方の歴史を研究している本田克代さんだが、片上楽天は根室にも関係する人物なのだ。
 一九〇五年(明治38)五月、妻、節に先立たれた楽天は、三ヶ月後の八月、根室牧場長として四国の海辺からやって来た。根室新聞主筆、そして国後の留夜別(るよべつ)外一ヶ村戸長などをやった後、函館に移ったのである。
 戸長時代には、訪ねていった根室出身の作家、寺島柾史を連れて、鮭が押し寄せる禁漁の川へ。薄暮の中、二人はヤスで鮭を突き始めたが、にわか密漁者のヤスは命中しない。ならばと手づかみでとったそうだ。
 長男の片上伸は、早稲田大学の文学部長をやり、文芸評論家として名を成した。『片上伸全集』(砂子屋書房)第二巻には、一九二七年(昭和2)六月二十三日に宮本顕治へ宛てて出した書簡文があり、「両親とも亡くなつた今となつては」という言葉がみられるが、全集の彼の年譜には、父、楽天の死亡のことが欠けているのは残念である。

(了)


【追記】
 この「五稜郭と片上楽天」は、向井豊昭氏の遺稿に含まれていた原稿用紙に手書きで記された原稿を文字起こししたもの。本文中にある「『はこだでぃ』の東福さん」というのは、函館のタウン誌「はこだでぃ」(幻洋社)と編集・発行人の東福洋のことだと思われれます。「はこだでぃ」は1号(1991年6月1日)から四十九号(1999年7月1日)までの発行が確認されており、最後の49号に向井豊昭は「うわさ話の中の虚実――同人雑誌『牧笛』のこと」を寄せています。ここでは、祖父・向井永太郎(夷希微)が、函館美以教会(日本キリスト教団函館教会)で祖母・田中イチと結婚式を挙げていたこと、二人の中を取り持ったのは永太郎の詩友・飯島房吉(白圃)の母親で、永太郎と房吉は、「北海道で最初の同人詩誌」である「牧笛」を出していたものの、向井豊昭の手元にあったものはすでに失われてしまっていたことが記されていました。
 「五稜郭と片上楽天」もまた、「はこだでぃ」掲載に向けて書かれたものの、発表には至らなかった作品と推察されます。内容としては、本アーカイブに採録された「明治三十七年のダマガシギツネ」「明治二十五年の作文」ともリンクするものです。向井豊昭が函館を扱った小説は「ト!」(「早稲田文学2004年5月号」)が代表格で、ここでは飯島白圃も言及されます。また、天草季紅氏らの発行する「さて、」第12号(2022年)より、本格的な再評価が始まった木本千代とも関係するでしょう。
 本文中で言及される本田克代氏については、「けたまえな」もご参照ください。
 最終段落に登場する片上伸は、「四海を家となすの人、片上伸」(『北海道文学を掘る』、2000年)や、「アートはハプニング」(「エロちゃんのアート・レポート」第四回、「早稲田文学」2002年7月号)ほかで論じられています。

(岡和田晃)    

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