鶴田知也とは (1902-1988)福岡県小倉市出身。その後豊津町(現みやこ町)で豊津小学校、中学校を卒業する。両校は堺利彦、葉山嘉樹も出た学校。実父は葉山嘉樹と交流があり、鶴田にとって葉山は憧れの人物だった。またこの頃キリスト教社会主義にめざめ、父の伝で植村正久の東京神学社神学校に通うも、知己を得て北海道八雲町に八ヵ月ほど滞在。そのあいだ農業に従事し、アイヌの狩猟技術を目の当たりにし、また自然の厳しさから宗教的感銘を得る。以後の人生に決定的な影響を与える体験だった。その後、葉山の誘いで「文芸戦線」に参加、プロレタリア作家として活動する。弾圧によってプロレタリア文学運動が挫折したあと、盟友伊藤永之介と同人誌をつくり、そこに発表した「コシャマイン記」が林房雄の紹介で菊池寛の知るところとなり、第三回芥川賞受賞に至る。 1940年代になると次第に翼賛的な作品が目立つようになっていく。戦時下最後の作品は、アッツ島玉砕を描こうとして玉砕部分が検閲削除された『アッツ島』だった。 戦後は、疎開していた秋田を舞台にしたものが多く書かれるようになり、また児童雑誌に多数の児童文学を書いている。その内のひとつ『ハッタラはわが故郷』は1955年、小学館児童出版文化賞を受賞。しかし、これ以外の作品はほとんど著書にまとめられることはなく、戦後の一般小説は1970年の『鶴田知也作品集』に収録された以外は未だに雑誌に載ったきりとなっている。 戦後の鶴田はそうした創作のほか、50年代には秋田で衆議院議員、市長選に立候補など政治運動にも参加。60年代には農業雑誌の編集長など、農業運動の指導者へとほぼ転身している。そして70年代以降、晩年は小説家としての活動は見られなくなり、雑誌のカット書きからはじまった草木画家として活動していた。
鶴田知也を読むには 作品のほとんどが戦前に出たきり絶版で、戦後に出た単著の小説集はわずか四冊。児童文学作品集『ハッタラはわが故郷』(小学館)、七百ページに及ぶ一巻本選集『鶴田知也作品集』(新時代社)、非売品で鶴田の郷里を書いた作品を集めた『鶴田知也作品選』、そして北海道八雲ものを中心に選んだ講談社文芸文庫の『コシャマイン記・ベロニカ物語』。このほか、プロレタリア作家時代の主要作品が『日本プロレタリア文学集11
文芸戦線作家集(二)』(新日本出版社)に百ページほど収録されている。 この中で入手しやすいのはまず文芸文庫のもの。古書や図書館ならば『鶴田知也作品集』や『プロレタリア文学集』があるだろう。他はやや入手が難しい。戦前の著書はものによっては安いけれども、五千円を超えるものも多く、おおむね国会図書館等で閲覧することになる。 なお、ネット上には日本ペンクラブのウェブサイトに「コシャマイン記」が、近代デジタルライブラリーで、戦前の翼賛的児童文学作品『土の英雄』が公開されている。 日本ペンクラブ:電子文藝館 鶴田知也 コシャマイン記 近代デジタルライブラリー -
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