花鳥風月の揃い踏みに心はさらわれていた。おくのほそ道への悲憤慷慨はどこへいったのか? あれは二十人目の仕業であり、ここに立つのは二十一人目の別人なのだ。 バラバラだ。骨のように自分を外し、骨踊りをやってきたのだ。 ♪バラバラバラバラ 母が歩き出す。距離を取って後をつけると、母の姿は花やしきの通りに入った。母の店も、この浅草のどこかだったのだろうか? 走り出し、通りを見ると、母はもう見えない。 華やかな叫び声が空に響いていた。ジェットコースターに乗った若い男女の声で花やしきはにぎわっている。 にぎわいの下を黙々と歩いた。映画館らしい建物が見えてくる。『東映』という文字があった。関東大震災で崩れた十二階は、ここに建っていたのだ。 映画館の道の先には、国際劇場を壊して建てたというホテルの高い姿がそびえていた。白いフレームで区切られた壁面のガラスはコーヒー色で染められ、サングラスのように気取っている。お洒落で浅草を変えようとしたのだろうが、ここ六区のさびれはひどいものだ。 六区の通りに見える姿は、ほとんど亡者の流れである。厚化粧と間違えられそうな顔の色がチンドン屋のようにゆれながら、過去の栄華を取り繕っているのだ。 東映の横からは通りが挟まり、商店街のアーケードが続いていた。『ひさご通り』という文字が入り口のアーチに掲げられているが、ここも亡者がほとんどである。 キョロキョロとあたりを見まわしながら歩いているのは、男の亡者たちである。色のあせた着物を着流し、足は下駄を引きずっていた。女を買う場所はもうここにはなく、通りの名称は過去の遺物だった。 足を戻し、東映の前を過ぎる。左手の小路の奥に『ソープ』という文字が見えた。心臓が鳴る。パチンコ屋の音が足を急き立てた。 看板の文字が大きくなってくる。頭の上の看板を見上げ、足を止めた。あたりを見まわすと、ソープの看板はここだけである。 入り口に置かれた小さな看板には数字が並んでいた。¥4500だ。それだけでは、女を買えぬという程度のことは知っている。 たった一度、女を買った。ソープランドがトルコ風呂と呼ばれていたころだ。連休だったその日、同じ学校のセンセイたちと泊まりがけで小樽へ遊びにいった時のことだ。たった一人の女教師は参加せず、男七人の集団だった。 夜、みんなでバーに入り、キャバレーに入った。キャバレーを出た時、「さあ、トルコにいくぞ」と言ったのは校長だった。 抜け出す言葉を言いかねて、体はタクシーに入ってしまう。歓声の渦巻く車の隅で狸寝入りを続けていると、車は止まった。 「着いたぞ! トルコだ! トルコだ!」と、校長が肩を叩く。 目覚めたふりを作りながら、緩慢に体を動かした。後を追ってきた二台目のタクシーからは、同僚がもう下りていた。 待合室のソファーには、何人かの先客が待っていた。組んだ足、煙草を持つ手、週刊誌に見入った顔――それら体の細部には場慣れた雰囲気がただよい、はじめての心をさわがせる。 蝶ネクタイの男が立つカウンターには、センセイの列ができていた。一番後ろに並んでみる。千円札を一枚出して、みんなはカウンターから離れていった。 「これは入浴料。女にはまたサービス料を払わなきゃならないんだ」と、すぐ前に並んでいた校長が千円札を振りながらささやいた。 入浴料なるものを手渡し、みんなから離れて座る。ポケットを探り、マッチとわかばを取り出した。たて続けに二本吸う。三本目も吸いたかったが、煙草は二本で切れてしまう。 「オイ、慥柄君」と、校長の呼ぶ声がした。目をやると、校長は指を突き出しながら言った。「おれは後でいい。君、先にいけ」 蝶ネクタイの後について、狭い廊下をいった。半ば開いたカーテンの前で立ち止まり、蝶ネクタイの目がうながす。おずおずと足を踏み入れると、女の声が襲いかかってきた。 「お客さん、酒臭いねえ。わたし、酒臭い人は苦手なんだァ」 酒臭いと言われる本人こそが酒は苦手だった。つきあいで飲んだものの、女になじられるほどの酩酊をしているわけではなかった。 「そこに脱いで」と、女は指図をする。 ベッドは診察室のそれのような固さを見せていた。その隅に、これもまた診察室と同じようなプラスチックの脱衣籠が置いてある。ピンクのショートパンツをはき、同じ色のブラジャーで乳房をおおった女の体は注射針のように光っていた。男の毒を吸い込んで女はむしばまれてはいないのだろうか? 女の腔は膿でただれてはいないのだろうか? 「大丈夫かなあ」と、つぶやきが出る。 「エッ、何?」と、女はつぶやきを聞きとがめた。 「いや、何でもない」 言葉を打ち消して脱ぎはじめる。女はカーテンの外へ出ていった。 脱ぎ終わったが女はこない。ベッドに腰かけたが、はだかの体はまだ空間になじんでくれなかった。立ってみても同じである。もう一度座ろうとした時、カーテンをくぐって女の声がした。 「何ボヤッと立ってんのさ。こっちへおいで」 女はサンダルを脱ぎ、一段低いタイル張りの奥へいった。 ドアがある。ドアの上部は女のブラジャーの高さで切れ、暗がりがのぞいていた。バスタオルで体をくるまれ、向こう向きに暗がりに入ると、熱い空気があごを突いた。 「こっち向き」と、女は何もかもはじめての客をあしらう。向きを変えると、「座って」と、女はまた指図をした。 おずおずと下げた尻に感じる平面に体重をあずけると、女はドアを閉めた。首から上はさらし首のようにのぞいている。女はまた見えなくなった。 小さな浴槽が見える。蛇口からは音をたてて湯が落ちていた。浴槽に張られていく湯の高さを砂時計のように見つめながら、のぼせる目をしばたたかせる。 浴槽は、やはり時計だった。溢れそうになった時、女が戻ってきた。噴き出た汗が目をかすませ、蒸し風呂も限界だった。 「まだ、そこにいたの? めまいして倒れないかい?」と、笑いながら女は言う。 「いや、大丈夫」と、答える声はまじめだった。 女は蒸し風呂のドアを開けた。ゆっくりと立ち上がり、ドアの外へ足を踏み出す。体をくるんだバスタオルを女が外してくれた。毛穴という毛穴から精液のように汗がたれ、出番を待つ陰茎は萎えていた。 「お風呂に入って」と女は浴槽を指すと、またもやカーテンの外へ出る。 長いセレモニーである。だがセンセイは、セレモニーに忠実だ。 体を浴槽に沈めると、ぬるめの湯だった。蒸し風呂にやられた体には、冷房のようなさわやかさである。涼を満喫していると、女が戻ってきた。 「まだ入ってんのォ。上がんな」 プラスチックの洗い椅子を置くと、女は指でそれを差した。座った体に女は石けんを滑らせる。噂に聞いた泡踊りが、いよいよはじまってしまうのだろうか? はじまらなかった。ショートパンツとブラジャーはいつまでも女の身を固め、泡はほとんど現われない。濡れたタオルだけが体をこすり、こすられないのは陰茎である。 女の手からタオルが離れた。いよいよ陰茎に手が伸びる。石けんのついた手が萎えた陰茎をつかみ、ピストン運動がはじまる。たった三度の往復で手は離れ、洗い桶の湯が肩からかけられた。 「立って」 立った体をバスタオルが手荒く拭いていく。拭いたタオルは腰に巻きつけられ、だらしのない陰茎は女の目から遠ざけられた。 「ここに座んな」と、女はベッドに腰をかけながら言った。 かたわらの棚から女は灰皿を取る。ロングピースとライターがのっていた。一本を取り、女は火をつける。うまそうに煙を吐く女の隣で、匂いだけをかいでいた。脱衣籠の背広のポケットにあるものは、わかばのつぶれた袋だけだ。 「いっぱい友だちがきたね」と、女が話しかける。 「うん」 「どこからきたのさ」 「青森」 咄嗟の嘘が出てきたのは上出来だったが、それに続いた女の言葉は嘘をまごつかせるものだった。 「青森って、トルコがないもんね」 「そうかなァ」と、十年前の青森県人はトルコの情報まで持っていない。 「そうだよ。青森って、トルコがないっしょ」 「うん、ない。ないよな」と、言葉はしどろもどろだった。 灰皿に女は煙草をもみ消した。棚の中に一式を戻す。目で追うと、壁に張られたプレートの文字が目に入った。 スペシャル ¥3000 Wスペシャル ¥5000
「あのさ、こういう所にきたらさ、サービスを要求するのがエチケットなんだよ」 「スペシャル、ダブルスペシャルのこと?」「そう」 「スペシャルとダブルスペシャルって、どう違うの?」 「スペシャルったらね、このまま」と、女はブラジャーとショートパンツに軽く手をふれた。 「ダブルは?」 「どこをさわってもいいの」 「じゃあ、ダブル」 「寝て」と、女の指図がまたはじまった。 ベッドの後ろにまわり、女ははだかになった。掌の上にチューブを押している。ゼリー状の光が掌を濡らした。 くるりと体の向きが変わり、乳房と陰毛が目に入った。鑑賞の余裕を与えず、女は急いで近づくと、背中を見せてベッドに腰かけた。 陰茎をおおったバスタオルが解かれる。女の手が陰茎をにぎって動きはじめた。ねっとりと塗られたまがいものの愛液は掌と陰茎を隔てる冷たい層となり、陰茎は萎えたままである。 ベッドの上から腕は伸び、背中を見せて腰かける女の体にふれていた。左の手は乳房を探り、右の手は陰部を探る。 乳房は尖り、石のように固かった。両股は固く閉じ、右手を陰核に届けてくれない。乾いた陰毛がザラザラと指をこすった。ここまできて、これで終わってしまうのだろうか? 萎えた陰茎が言葉を呼び、言葉は唇から洩れていた。 「本番できないの?」 女の手の動きが遅くなった。 「もう、時間がないもん」 それだけ言うと、動きはまた元に戻る。戻ったところで、陰茎の感性は変わりそうもなかった。 「もういいよ。やめてもいいよ。やめよう」 動きは止まる。 「あと七千円出してくれる? そしたら本番してあげるから」 5000+7000=12000 暗算がひらめき、財布の中味を考える。それだけ払うと、家族への土産代はまったくなくなってしまうのだ。 「いい、やっぱりやめる」 「お酒飲んでくるから悪いんだよ」 女はそう言うと、ベッドの後ろにまわった。水の流れる音がする。石けんを持った女のひじが動いた。水を止めると女は素早くパンティをはき、ブラジャーをつけた。ショートパンツのボタンをはめると、女はベッドのかたわらを通り抜け、カーテンの外へ出ていった。 どんよりと脱衣籠に手を伸ばす。元の姿に戻った時、女はまた入ってきた。コーラの瓶を右手に持ち、左手ではコップ二つをつかんでいる。 「わたしのおごりだよ」と、女は左手を突き出した。 「ああ、どうも」と、コップの一つを抜き取る。 女はベッドの横の丸椅子の上にもう一つを置いた。空いた手にコーラを持ち替え、棚の灰皿の隣から栓抜きを取る。勢いよく抜かれた栓はタイルの上を転がっていった。 瓶の口が目の前に突き出る。コップを出して瓶を受けた。噴き上がる泡がコップから溢れそうだ。 「もういいよ」 瓶の傾きが戻る。口をコップに近づけて泡をすすると、舌の上で泡がはじけた。 「ああ、旨い」 凝りをほぐすように肩をまわした。女は自分のコップから瓶の口を離しながら言った。 「肩、凝ってる?」 「ああ」 「失敗したからでないの?」 「ここで?」 「うん」 「いや、仕事のせいだよ。毎日毎日、仕事仕事だもん」 「仕事ねえ。ホントに、仕事って大変だもんね。わたしも、すぐ肩が凝るんだからァ」 女はコーラの瓶で肩を叩きながら尻を浮かした。瓶と入れ替わりに、煙草用具の一式を取る。一気にコーラを飲み干し、女は煙草をくわえた。火をつける。 「一本、飲ませて」 女にねだる言葉がすらりと出てくる。 女は唇から煙草を離した。袋ごと差し出しながら女は言った。 「これ、みんな持ってっていいから」 袋の口から白いフィルターを見せて、ロングピースはぎっしり並んでいる。 「一本だけでいいよ」 残ったコーラを飲み干しながら指を伸ばした。一本をつまもうとすると、女は袋を押しつけながら言う。 「いいから、全部持っていきな」 「じゃあ、もらう」 つまみかけた指を開き、袋ごと受け取る。抜いた一本を口にくわえた。ライターの火を女は近づける。女の心を取り込むように強く吸うと、煙草の先には赤い火が灯った。光を眺めながら、ゆっくりと煙草を吸い、ゆっくりと煙を吐く。 「青森の人って、やさしいんだね」 女の声に煙がゆらいでいた。 煙草をくわえ、内ポケットから財布を出す。そろそろ帰らなければならないだろう。…… ¥4500 看板の入浴料の額を眺めながら、財布の中味を考える。一万円に足りないはずだ。時と所を変えてしまった今、一万円ではお話にならない。 狭い階段が足元の看板の向こうから二階に伸びていた。階段を上がり、ドアを開ければ、マサには会えるのだろうか? 小樽のトルコで出会ったような女の心と出会えるのだろうか? 財布の中味も忘れてしまい、階段を見つめる。一歩近づいて足が止まり、二歩目の足は出ないのに前に引きずろうとする心があった。 微かな風が頬をかすめる。紫木蓮が目の前でゆらいだ。たもとがひらめき、肩を押す力が後ろに向かって体をはじいた。 「お母ちゃん!」 はじかれた体から、声がはじける。きつい表情でにらみつける母の前で体はすくみ、言葉はもう出なかった。 紫木蓮が動き、背中を見せた母の姿が離れていく。T字路の角から、紫木蓮はもう消えていた。 一歩前に足を引きずる。二歩引きずり、三歩目から、エンジンがかかったように足は飛び出していた。 すぐにT字路に突き当たり、急ブレーキが足にかかる。右を見たが紫木蓮はなく、左を見ても紫木蓮はない。 急発進で左を選んだ。Uターンをして急ブレーキをかけ、急発進でまた曲がる。 いつの間にか、車が並んで走っていた。嘲笑うように追い越していく車の後ろに車が続き、車道にはみ出た亡者にぶつかる。 引きずられる亡者、潰される亡者、千切れる亡者、飛び散る亡者――母ももう、飛び散ってしまったのではないだろうか? ゴキッ! 骨踊りがまたもやはじまる。外れて飛び出すのは、二十一人目の自分である。車の流れに突っ込むと、手を広げて立ちはだかった。 二十二人目の足が、ふり向こうともつれはじめる。心がねじれ、息がねじれた。 ねじれを戻そうと立ち止まる。肩で大きく息をした。ゆれる肩で、背後の出来事に別れを告げる。 ゆっくりと、足を前に踏み出した。自分のペースで歩くだけだ。ペースさえ守っていれば、鼓動はおさまってくれるだろう。 鼓動はおさまるが、心はなかなかおさまってくれない。押さえ込むように背を丸めた。雷門の朱の色が、押さえ込まれる心をあおる。門の前で売っているラムネの瓶の冷えた色が目をなだめた。 「ラムネ一つ」 冷えた声を装って財布を出す。瓶の口のラムネ玉をオヤジサンは器用に落とした。音もたてず、泡もこぼしてくれないのだ。物足りないが、それがオヤジサンの年季である。音もたてず、泡もこぼさず生きられるか? 取りあえず、今はオヤジサンにあやかりたかった。 「ハイ、ドーモー!」 オヤジサンの言葉が、ラムネよりも先に滲みてくる。銭を渡す声も、オヤジサンにつられていた。 「はい、どうも」 つられてはいたが、オヤジサンのような生彩はなかった。 口惜しまぎれにグイグイと飲む。舌の上で泡がはじけた。喉ではじけ、胃ではじけ、心も少しずつはじけてくる。 「ごちそうさん」 空き瓶を箱の中に戻すと、オヤジサンはまた言った。 「ハイ、ドーモー!」 泡のように浮き上がってくる微笑みと一緒に歩き出す。地下鉄の入り口を見つけ、階段を下りた。微笑みの泥は頭のテッペンから地上へ飛び、顔は次第に硬くなる。 「お母ちゃんたら、まったくもう、どこにいったんだよ」 独り言をつぶやくと、女が一人、ジロリと目をくれて追い越していった。襲いかかる気力はない。下りる速度をかたつむりのようにゆるめ、女の足を遠ざけた。 券売機の前で財布を開ける。もうダラ銭がなかった。千円札を抜き取り、券売機の口に入れる。吸い込まれていく札を見ながら、ボタンにつく明かりを待った。 札が隠れる。明かりはつかなかった。オヤッと思った時、札の動きは逆になり、こちらに向かって現われてくる。 ナンダ、コリャ。オレハ、ニセサツツカイジャネエゾ! 怒ってみても動きは止まらない。手を出して受け取ろうとしたが、受け損ねて札は落ちた。 床の上に手を伸ばす。札が逃げた。換気の風にのった札は、ジャンプをしながら改札口へ飛んでいく。 腰を折り、手を伸ばし、札を追いかけた。床の上に着地する札に向かって指を出す。指より速い札のジャンプは改札口を通り抜け、ホームへ届く階段へ向かった。 「アッアー、千円、千円」 言いわけの言葉を発して、改札口に飛び込んでいく。階段から落ちる寸前の札をようやく取り押さえると、言いわけのの証拠品を指の先で振りながら改札口を出た。 不様な格好を強いさせた券売機の前にもう一度立つ。文句を言いたいが、券売機に耳はない。札を飲み込む口はあるが、言葉をしゃべる口はない。 怒りを押さえて、千円札を入れ直した。入っていく札に手を添えて、まさかの時は、すぐにつかめる用意をする。 札が隠れた。さて、もう一度、そこから札は逆流するのか? 札を収めた合図の明かりがボタンについた。同じ札なのに、この差別は何なのだ。機械のくせに、差別をするとは何事だ。――そう言ってはいけないのだろう。人の作った機械である。人に似るのは当たり前なのかもしれなかった。 ボタンを押し、切符と釣り銭を取る。改札口を今度は堂々と入れるのだが、心は堂々としてくれない。千円札を追っていく不様な姿が思い出された。たかが千円のために、なぜ、ああ迄うろたえなければならなかったのだろう。車の流れに立ちはだかった自分を見捨てたはずなのに、なぜ、千円を見捨てることはできなかったのだろう。 ♪バラバラバラバラ 階段を昇ってくる見知らぬ人間たちが、バラバラと切符を置いて改札口を出ていった。終点のこの駅から、折り返しの電車は間もなく発つはずである。 あたふたと改札口から入っていく人間がいる。階段の下に気ぜわしく消えていく背中を無視して、ゆっくりと切符を渡した。急き立てるような鋏の音だ。 指の間に戻された切符をゆっくりとズボンのポケットに入れながら歩き出す。大きな股で追い越していく客の足は、階段の段を外して下りていった。 自分を潰すように、一段一段を踏みしめながら階段を下りる。電車のドアはまだ開いていた。 ホームを見渡す。電車に乗り込む動きも見せず、ベンチにうずくまるのは亡者たちだ。首を伸ばして母を探したが、紫木蓮は見えなかった。外へ探しに戻ろうか―― 迷いを断つようにベルが鳴る。今更追いかけてどうするのだ。母が死んで四十八年、ただの一度も法事をせず、ほっぱらかしてきた自分ではないか。 電車に乗り、座席に座ると、母を区切るようにドアが閉まった。ドアだけでは頼りなく、目を閉める。無念無想といきたかったが、閉まらなかった耳をめがけて車輪の音がなだれ込んだ。 ガタンゴーン、ガタンゴーン、ガタンゴーン…… 音に合わせて、頭の中で音を唱える。呪文のように音が渦巻き、はじき飛ばされていくものがある。 これはいい。このまま一生、できることならガタンゴーンを唱えていたい。 できない相談だった。ガタンゴーンの本家本元、電車が止まると、それにつられて頭の中の呪文も止まってしまう。ドアの開く音につられて、つぶっていた目も開き、ホームの駅名を確かめてしまうのだ。ただの人間に修行はできず、ガタンゴーンの念仏の上野駅できっぱり終わる。 階段を上がり、JRの構内に入る。券売機の前で財布を出した。浅草駅での釣り銭の八百八十円が財布を重くしていたが、千円札を飛ばす心配はもうなかった。 料金表を見上げる人々のわきをすり抜け、ためらわずに百二十円を穴に入れる。JRなら、どこからでも、帰りは最低料金の百二十円なのだ。下りる時は定期券を見せてごまかすキセル乗車である。 残念なことに、今日はキセルでもうけられない。定期券が有効になる日暮里駅は、上野駅から最低料金の区間なのだ。 やましさを持たなくていい今日の乗車なのに、ここ上野駅の中央広場では重いやましさが心をうずかせる。疎開の日の待合室の場所を求めて、うずきが目をあやつった。 みどりの窓口の向かって右のあたりだろうか。その右にある喫茶店がそうだったのか。大まかな見当はつくが、飯粒のついた古新聞などは、ただの一枚も散らばっていない。蛍光灯の光の羅列が、飢えた少年の影を消し去るように天井から輝いていた。 「ンーッ」 少年の声が耳に響く。目をしばたたくと、少年は消されてなどいなかった。喫茶店のウィンドウに、額と掌をすりつけて立っているのだ。 コカコーラ、クリームソーダー、メロンジ(*ジュ)ース、コーヒーフロート、オレンジジュース、レモンスカッシュ、モカフロスト、ストロベリージュース、ブルーハワイソーダ、ヨーグルトジュース…… ウィンドウに並んだレプリカの色は、イルミネーションのように光っていた。頭の上の換気孔からは人工の風がそよぎ、少年の体をくるんでいる。足元にたれるウンコの匂いを、人工の光と風は吹き飛ばそうとゆれているのだ。 背けた目に壁画が映った。中央改札口の上部一面に人や動物が描かれ、右下には文字の連なりがある。 文字に近づき、目をやった。壁画の題名と作者名が書いてある。題名は、何と『自由』と名づけられているではないか。 「自由」 思わず言葉が洩れてしまう。画面に目をやり、右から左へ、ゆっくりと視線を移していった。 銃を持ち、長々と寝そべっている男がいる。数羽の鳥が首を伸ばして、男のそばに転がっていた。猟師らしい男の隣で大きなあぐらをかいているのは、木こりのようである。足元には鋸が眠り、背後には伐り出された原木が積まれていた。 木こりに向かって足を投げ出し座っているのは、若い女である。女と並んであぐらをかくのは、白髪のまじった老人だった。 黒い森がある。森の下は湖だろうか。白い波紋が広がり、女が三人、くすんだ肌色で水浴びをしていた。 女の肌色に似た馬もいる。馬の下には大きな魚の尾を持って別な女が立ち、その隣では二匹の犬が鼻を向き合わせていた。犬の上部には、白馬にまたがる男が一人。人を乗せない白馬も走り、その隣では枯草色の馬が四肢を天にばたつかせてはしゃいでいた。 果樹園がある。黒と灰色の果実がなる樹木の下で、開いた傘の柄を両手でにぎりしめ子どもが立っていた。子どもの隣には女が三人、果実を採り入れた籠を抱えて立っている。その下では、足をくずし、ひじを籠に突いて女が一人座っていた。 牛に乗った人もいる。そして最後は四人のスキー客だ。スキーをまたいで足を伸ばす女。女に背を向けた男がいる。もう一人の男はスキーを抱え、あぐらをかく。もう一人の女はストックをそばに置いて寝そべっていた。―― この世の形に自由をはめ込めば、自由はこんなものになってしまうのかもしれない。鳥を射ち、寝そべり、木を倒し、あぐらをかき、足を投げ出し、水浴びをし、魚をぶら下げ、馬に乗り、傘をさし、果実を採り入れ、ひじを突き、牛がいて、犬がいて、スキーにいく。 それはいい。暮らしを離れた自由はごめんだ。だが、この壁画の色調は何だ。バックは一面、雪空の色である。人も動物も森も果実も、華やかな色は一筆もなく、服の色は枯草色が主調なのだ。朱も紺も茶もくすみ、そして灰色に黒と白―― そんな色調の夢を見たことがある。あれは定時制高校の三年の時だった。昭和は二十六年のことである。 壁画の下には、『昭和26年12月制作』という文字があった。『猪熊弦一郎』という文字も並んでいる。あの夢を見た同じ年に、猪熊はこの壁画を描いたのだ。 夢を見たのは屋根裏だった。土間にある細い階段を昇ると、体一つを通す穴を切って床がある。床の広さは畳二枚ほどだったが、畳などは敷いていない。敷いているのは、縁のほつれた一枚の茣蓙だった。もう一枚は敷けるのだが、窓際のその場所は暮らしに使うモノたちで占められていた。 傷のついた食卓の下は鍋の置き場所だった。食卓の上には、ゴチャゴチャとモノが置いてある。縁の欠けた小皿は、煙草の吸殻をのせていた。箸立てに詰まっている、まるで大家族のような数の箸は塗りのない丸箸であり、とっくに割られた染みだらけの割箸だった。祖母の仕事の道具である針箱ものっている。くけ台もあり、コードの布のほつれを見せたアイロンもあった。 水の入った薬缶ものっている。口飲みで世話になる薬缶の隣には、茶道具をのせた盆もあった。 煮炊きは土間で七輪を使うが、茶椀を洗うのは屋根裏で済ませていた。食卓の隣には水の入ったバケツがあり、ひしゃくが突っ込んである。バケツの隣のボールには、布巾でおおった食器が入っていた。ボールは三つ重ねになっている。先ずひしゃくで水を汲み、一回目の洗いものを一番下のボールでやるのだ。次に二つ目のボールに水を汲み、仕上げ洗いを済ませると、水を入れない三つ目のボールに食器を納めるという手順である。 汚れた水を土間の奥の井戸に並んだ流し場まで捨てにいくのも、新しい水をバケツに汲んで運び上げるのも祖母の仕事だったが、腰の曲がった祖母に代わってやらなかったわけではない。捨てる水は階段の下まで運び、新しい水は階段の下から運び上げる。それはやったが、土間の奥はごめんだった。土間に面した居間の談笑がこわかった。 赤の他人ではない。疎開してから世話になる三軒目の親戚なのだ。二軒に追われて三軒目は、n3のおびえをもたらしていた。談笑は、自分と祖母への嘲笑のように響いてしまうのだった。 バケツの水は顔を洗う水にもなり、口をすすぐ水にもなる。ボールの隣には洗面器があり、洗面器の中には祖母と共有の手拭が一本、投げ出されていた。手拭を浸す程度に水をやり、顔を拭いて済ますのが、水を捨てる手間をはぶくやり方だった。そのやり方は、四十年近くたった今も、頑固に守っている。 歯ブラシは、さすがに二本用意され、歯磨粉のこびりついたコップに立てられていた。袋入りの歯磨粉。緑青の噴き出た水こぼし。そして一番奥には、りんご箱を一つ置き、一まわり小さい仏壇がのっていた。 りんご箱の中には定時制の教科書が積まれ、風呂敷に包まれたままの何册かもあった。気が向くと風呂敷包みを持って出るが、ほとんど手ぶらでの登校だった。 仏壇は、曽祖父の手作りのものである。塗りのはげた仏壇の上部は、梁ぎりぎりの高さにあった。それは腰の曲がった祖母が背筋を伸ばして正座できる高さであり、十八歳の孫が背中を丸めて正座できる高さであった。ひさしに近いその場所から、高さは傾斜を挙げて茣蓙の上に届いているが、一番高い梁の下でも直立することはできない。膝を曲げ、腰を折り、頭をたれて動かなければ、屋根裏での体の移動できないのだ。 茣蓙一枚の屋根裏部屋の真ん中に食卓を動かすことはできたが、布団を敷く時は、食卓を窓際に戻さなければならない。美濃版二枚のガラスの入った小さな窓は、はめ込みになり、開けることはできなかったが、ゆるくなった窓枠の隙間からは風が吹き込み、雨や雪も吹き込んだ。壁の板の隙間からも吹き込んでくるのである。 祖母はどこからかもらってきた新聞紙を細く切り、飯粒を塗って、隙間という隙間に貼るのだが、雨や雪を受ける紙は飯粒の効力を保ってくれない。晴れた日が続くと、黄ばんだ新聞紙は隙間を離れて反り返ってしまうのだ。風の強い日、新聞紙は凧のようにうなりながら、ふるえ続けた。 食事をとる空間のために丸めておいた布団は一組である。二組敷くだけの広さはなかったし、あったとしても、もう一組の布団はとっくに米に化けていた。 冬は日中でも布団を敷く。敷布団は一枚である。シーツはない。行火をのせ、これも一枚の掛布団をかけ、その上からこたつのように食卓をかぶせて祖母は針仕事をしているのだ。小さな窓の明かりは、狭苦しい屋根裏部屋にとっても薄暗い。祖母の頭の上には裸電球がぶら下がっていたが、電気代を節約して、祖母は日中ほとんど電気をつけなかった。 定時制が終わり、祖母の入れてくれた茶をすする。煙草をふかし、もう何年も着続けている学生服の上下を脱ぐ。何週間も着続けているメリヤスの上下は、そのまま寝巻きでもあった。匂いのする軍足を脱ぎ、敷布団の真ん中から後ろに移した行火に足を近づける。ほどよい距離を探すと、まだ終わらない針仕事のための光を避けて掛布団をかぶるのだ。 一日中、行火の熱を吸っていた敷布団の真ん中は、尻をあたためてくれる。名残惜しそうに尻を離し、横向きになるのは、祖母の寝る場所を空けておくためだった。横向きの尻には、掛布団を膝にかけて針仕事を続ける祖母の気配がつたわった。祖母の膝が尻をさする。頭をさすられる赤子のように、眠りの中に入っていくのだ。 入る。入る。どこまでも入る。――ここはどこだ? 闇の中に、くすんだ光が差していた。おそるおそる光に右手を近づける。しなびた皮膚の感触が指の先につたわっていた。左手を近づけても、やはり感触は同じだった。 股だった。二つの股に手をかけて、思いきって左右に開く。 「何をするんだよ! いやらしい子だねえ!」 祖母の叫びがする。股の向こうの首をもたげて、にらみつける祖母の顔があった。 「クソ婆ァ、黙ってろ!」 言い返した言葉の力をはずみにして、二つの手に勢いをつける。肉の割れ目が口を開き、光の量が大きくなった。光の源はどこにある? 口を開いた割れ目に向かって、グイと頭を突っ込んだ。 入る。入る。――頭が入り、肩が入り、胸が入った。両手を掻き、足を縮める。縮めた脚を伸ばして蹴ると、体はすっぽりと胎内に入っていた。 雪空のように青ざめた光が四方から湧いてくる。枯草色の光もゆれた。くすんだ朱色の光が渦巻き、光量がゆっくりと閉じていく。 暗黒の中から、光は再び蛍のように湧いてきた。どれもこれも、相変わらずの冷たい光だ。 手足をばたつかせ胎外へ出ようと、体は進まない。光の中で溺れていく口の中から泡が噴き出た。泡では駄目だ。言葉を出せ。――光は喉へなだれ込み、言葉はどうしても出てこない。 出せ。言葉を出せ。―― 「タスケテーッ!」 言葉に続いて肩がゆれた。肩をゆする手があった。手と一緒に、孫を呼ぶ祖母の声がした。 祖母の顔がのぞく気配がする。掛布団を手で探り、頭からかぶり直した。心臓が鳴っている。…… 壁画から目をそらし、ぐるりとあたりを見まわしてみた。喫茶店のウィンドウだけがけばけばしいのではない。列車の時刻を告げる光の文字は黄と赤を際立たせ、場所案内の文字は青や橙を加えて光っていた。電光ニュースの光も流れ、酒や温泉の広告板も、ガラスの中に光を抱いて並んでいる。平成元年、JR上野駅の色調は、昭和二十六年の夢や自由の色調から、はるか遠くに外れていた。 ウィンドウの前には、少年がまだ立っている。 ゴキッ!
(続く)
編者注記(東條) 表記はすべて原稿通りのままとしました。表記ミスと思われるものについては(*)で注釈しました。
校正協力・ガザミ
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