十人目から十一人目が外れ、十一人目から十二人目が外れた。十三、十四、十五、十六、十七でようやく終わり、十七人目を一人残して、後の七人は子どもたちに襲いかかっていく。偶然の七なのか、七人の侍の七なのかは分からない。子どもとはいえ、敵は多勢だ。七人いれば何とかなりそうである。 「こらァ、待てェ! お前、どうして挨拶しねえんだァ! なめるんじゃねえよォ!」 追いすがり、襟をつかむ。つかんで引き倒す。 悲鳴が七人を我にかえした。七人は四方に散って逃げ出してしまう。その醜態から推し量ると、七人の侍でないのは確かなようである。 腕時計の針は八時二十五分を示していた。そろそろ見張りを終える時間である。八時半の職員朝会までには、職員室にたどり着かなければならない。 一人残った十七人目は四つ辻を離れる。校門の前で立ち止まり、通学路の左右を見た。右にも左にも子どもの姿が小さく見える。八時二十五分まで、校門をくぐらなければならない彼等なのだ。三十五分からは体育朝会が待っている。それに出るためには、体育着に着替えなければならない。 遅れを取り戻そうとして走りはじめる子どもがいた。走る子どもをやり過ごして、泰然自若と歩いてくる子どももいる。遅れた子どもの学年と組、氏名をメモするように生活指導主任が念を押したのは、もう数週間も前のことだった。お達しは古びている。遅れてくる子どもの姿から目をそらし、校門に入った。 体育着に着替え、もう校庭に出ている子どもたちがいる。目は開け放した教室の窓にいった。四階建ての校舎の上から二つ目、左から三つ目の教室が三年二組だ。去年、そこで担任をやり、その子どもたちが進級した今年も、同じ教室で新しい子どもたちの担任をやっている。 左端の教室の窓は閉まったままだ。資料室という名の物置である。かつて三クラスずつあったという学年は二クラスずつに減ってしまい、空き教室がガラガラとある学校なのだ。来年の一年生は一クラスという噂もあるが、この春、この区内では、統合された小学校もあり、中学校もある。 三年二組の窓に、まだ着替えもしないで走りまわっている子どもたちの姿が見えた。そこまでいって急き立てる時間は、もうない。 土の校庭の隅をコンクリートの通路が固め、玄関に届いている。玄関への最短距離は校庭を斜めに横切ることだったが、登下校の時は土の上を通ってはならないきまりがある。きまりに従い、コンクリートを歩いていった。きまりを破ってうっかりと横切り、近くで遊んでいる六年生に嫌味を言われたことがあるのだ。 子どもの下駄箱の並ぶピロティを通り、校舎の中に入った。センセイ用の下駄箱の前に立つ。下駄はほとんどこの世にないのに、なぜ下駄箱と呼ぶのだろう。 靴箱と呼ぶセンセイが、この学校にいる。 「靴箱ニー、上靴を入れる時ハー、かかとニー、学年と組と名前を書いテー、かかとが見えるようニー、入れることになってますガー、あまり守られていないようなのデー、教室デー、注意してください」 ある日の職員朝会で太った腹をゆすりながら言ったのは、例の生活指導主任だった。靴箱、と確かに言った。彼の口調にはすっかり慣れていたが、靴箱は耳慣れない言葉だった。 放課後、職員室の書棚から広辞苑を引き出してみた。下駄箱はのっているが、靴箱はのっていない。 げた・ばこ【下駄箱】下駄などのはきものを入れておく箱。 などの中に、靴も含まれているのだろう。伝統文化は、まだ健在の風を装っていた。 その日の帰り、大塚駅では下りないで、一つ先の池袋駅で下りた。土曜日だった。土曜日は気の向くまま電車に乗り、遅い昼食をどこかでとるのだ。 地下街に出て、西武デパートのエレベーターに乗った。食堂街にいくつもりだったのだ。混み合うエレベーターの中で見るともなしに売り場案内の文字を眺めていると、『家具』という文字が目に飛び込んできた。靴箱へのこだわりが広がりはじめ、五階の家具売り場へ体を押し出す。 日本と思われぬ場所だった。外国映画でしかお目にかかれぬ豪華な応接間やキッチンが、そっくりそのまま作られて、家具はゆったりと横たわっている。アラビア模様のカバーをおおったベッドのわきには、同じ模様の布をかぶせた円形のテーブルがあり、ワインの瓶とグラスが光っていた。その隣の邸宅はエメラルド色の柱である。応接間の向こうには山と湖と熱帯樹の遠景が、靴箱にこだわる男を嘲笑うように描き出されていた。 昼食を取るのも忘れ、エレベーターで地下街へ戻る。今度は東武デパートだ。家具は六階である。豪邸のセットはなかったが、広いフロアを占めるのは大きなソファーばかりである。隅にあるのは和洋いずれも大きな箪笥、そして大きな棚である。 再び地下街へ戻り、階段を昇って地上へ出る。サンシャイン通りへいく途中に、確か家具店があるはずだ。 横断歩道を渡り、少しいくと、『宮田家具』という文字が見えてくる。 店内をのぞいた。いきなり見えるのは、ここでも大きなソファーだ。客は誰もいない。靴箱の探究には、入り難い店である。 思いきってドアの前に立つ。自動ドアが開いた。中に入ると、「いらっしゃいませ」と声が重なる。声をかけてきた事務室には、制服姿の女性にまじって、ネクタイをした恰幅のいい男性がいた。 奥までいくと、エレベーターの前で商品を積み込んでいる作業服の男がいた。 「あっ、今、商品の移動中なので、あちらのエスカレーターを使っていただけませんか」と作業服は言う。 男の指し示す方向へ足を進めた。エスカレーターは止まっている。『商品の移動中なので奥のエレベーターをお使いください』という張り紙がしてあった。買物客でもない人間に、このチグハグを怒る権利はない。 あきらめて店を出ようとした時、事務室のネクタイが寄ってきた。 「何か、お探しでしょうか?」 「このお店に、下駄箱はありますか?」と、救いの神に甘えてしまう。 「あります。あります」と、ネクタイは言葉を二度重ねた。重ねられるのは困るのだが、もう後には退けない。 「今、下駄は普通、使いませんよね。……」 質問の言葉は途中だったが、ネクタイは感(*ママ)がよかった。 「それでも下駄箱と言いますねえ。靴箱とは言いませんねえ」と、さすがプロの反応である。 「でしょう!」と、うれしくなって声がはずむ。 「下駄箱なら七階にあります。どうぞ、エレベーターをお使いください」と、制服がそばから口をはさんだ。 「いえ、また後できます。どうもすみませんでした」と頭を下げて外へ逃げた。 「なるほど、下駄は使わないのに下駄箱か」と、ネクタイの感心する声が背中でする。 店の外から窓を見上げた。七階は一番上の階だった。西武デパートの五階にもなく、東武デパートの六階にもなかった。そしてここ宮田家具店の最上階の七階に、下駄箱は押しやられているのである。いずれ下駄箱という言葉は死ぬだろう。 サンシャイン通りに足を向ける。看板がせめぎ合い、客を呼んでいた。シェーキーズピザパーラー、クレジットアイフル、シネマサンシャイン、ゲームファンタジア…… 「シューズボックス」 呼び水を受けたように言葉が出る。 「そうだ。シューズボックスになるぞ。きっと」 思わず浮かんだ着想に微笑みながら、人の流れにのって進む。 『JTB』という看板があった。『日本交通公社』という文字が、その下に並んでいる。『AIU』は、もうそれだけだ。それでは分かるはずがない。その先にある緑色の大きな文字は『TOKYUHANDS』だ。引っ越しの挨拶状を刷るためにプリントゴッコを買ったのは、この店である。 立ち止まり、店の表の案内板を見た。『収納家具』という文字がある。まだいったことのない三階だった。 エスカレーターから足を外すと『小物収納』と書いた札が、すぐ目の前に下がっている。小さなケースがその下に並んでいた。足を進めると、天井からまた札が下がっている。今度は、『収納用品』だ。文字の緑は、森のように深くて濃い。透き通ったプラスチックの大きなケースが、蛍光灯の光を木漏れ日のようにはじいていた。 幹の色で立つものがある。近づいて目をやった。値札に書いた商品名が目を打ち、思わず声が出る。 「シューズボックス!」 つい先刻の着想は、とっくに先取りされていたのである。 右隣に並んでいるもう一つの商品に目をやる。同じ幹の色だった。何と札には『シューズラック』と書かれている。その右隣の塗りは違い、白樺の幹である。札には『シューズロッカー』と書かれている。その右隣の黒松の幹は、再び『シューズボックス』になっていた。 四つのふたを開いてみた。三つ目までは、どれも棚で仕切られている。四つ目のシューズボックスと呼ばれる商品だけが違う作りで、棚が斜めに傾斜していた。違う作りの一つ目が同じシューズボックスであり、一つ目と同じ作りの二つ目、三つ目が、それぞれ別名で呼ばれているのはどういうわけだろう。見当のつけようがない。下駄箱が死にかかり、新しい呼び名が生まれはじめている混沌の時代なのだ。 混沌は、腹にも押し寄せていた。もう三時である。…… 塗りがはげ、黒ずんだ木の肌を無数の傷がへこませている。下駄箱以外の呼び名など、考えられなかった時代のものだ。 上靴を取り出し、履き替えた。職員室は二階である。 「おはようございます」 言葉と一緒に胸を張り、職員室に体を入れる。体だけでは証拠にならず、赤で書かれた壁の名札に手をやる。ひっくり返し、名前は黒に変わったが、名札だけでは証拠にならない。机の上に鞄を置き、鞄の中から印鑑ケースを取り出す。 「おはようございます」 「おはようございます」 机のまわりから、挨拶がこだまのように響き合う。こだまの言葉は予想できるが、人間の言葉は予想できない。すぐ後の職員朝会で校長に注意されるなどとは、思ってもいないことだった。 出勤簿に印鑑を押す。押した跡を数秒眺める。一つずつ、捺印で埋まっていくのが楽しみだ。残った空白を押し切れば、学校からは自由になる。そう信じて一年がたち、情けなくも二年目の出勤簿を押しているのだ。 チャイムが鳴る。余韻を切り捨て、日直が告げる。 「おはようございます。職員朝会をはじめます。教頭先生、お願いします」 煙草を持ちたい右の手を、左の手がももの上で押さえ込む。会議中は禁煙だったが、会議と言える中味は今日もないはずだ。 教頭が物柔らかにお達しを述べはじめた。 「おはようございます。今日は体育朝会の日です。午後からは区教研の教科部会があります。これは、是非、都合をつけて参加してください。参加される場合は黒板に紙を張っておきますので、どこに参加されたのか分かるように名前を書き入れていってください。それから、学級の子どもたちはきちんと帰して、先生だけ先に出てしまい、子どもたちが残って騒いでいるということのないようにしていってください。お願いします。以上です」 「他にありませんか?」と、日直は職員室を見まわす。月曜日は全校朝会、水曜日は体育朝会、そして金曜日は児童集会が職員朝会に続いてある。時間の食い込みをおそれて、連絡はなるべく、月水金を外す取り決めになっていた。取り決め通り、声はなかった。 「それでは、校長先生お願いします」と、日直は締めくくりのお言葉をうながす。 真っ白なトレーナーに包まれた体を立たせ、校長は口を開いた。 「エーッ、保健日誌を読んでみますと、このごろ保健室に三年二組のモトヤマサチコが、腹痛を訴えてよくいくようで、大変不安定な情緒になっているようですので、担任の先生の御指導をよろしくお願いします」 ゴキッ! 胸の中から飛び出そうとするのは十七人目だ。腕を組んで押さえてみるのは十八人目の自分である。押さえた腕から飛び出して、校長の机を叩きながら呶鳴りはじめる自分がいる。 「あなたから言われなくたって、サチコがどういう状態か分かってますよ! サチコのことは、毎日毎日、気にかけてます。気にかけすぎて、今朝なんか、ぼくのオナニーの相手になりかかってしまったんですよ! 大体、こんな形式的な職員朝会で、一方的にそちらがしゃべっただけで、かたづく問題だと思ってるんですか!? そんなにサチコのことが心配なら、もっと時間をとって、じっくり話合うべきじゃないですか!」 「それでは、これで職員朝会を終わります」 平然とした日直の声がする。渡りに舟だ。組んだ腕を解き、十八人目は立ち上がると、背広を脱いで椅子の背もたれに掛けた。体育朝会の服装は、これで出来上がりである。洗いざらしのチェックのシャツに、折れ目の消えたズボン――この日常性こそ、山野を駈けたウンコ石人伝来のものなのだ。オリンピックの非日常性に、体育は囚われてしまっている。 抗議を続ける十七人目を置き放して、十八人目は廊下に出た。解いた腕は、いつの間にかまた組んでいる。面と向かって言えなかった十八人目の、せめてもの抗議の姿勢だった。 外履きの運動靴に履き替え、校庭に出た。担当のセンセイが一人、壇のそばで、みんなが職員室から下りてくるのを待っている。職員朝会には参加せず、子どもを並ばせるしきたりなのだ。 三年二組の子どもの頭がゆれている。つい大股になって近づいてしまう。ゆれる頭を注意しながら、列の後ろへ進んでしまうのだ。 腕は組んだままだった。抗議の腕は、権威の腕に変わっている。気がついて解いたのは、列の後ろに届いてしまってからだった。 列の後ろのサチコの位置に、彼女は今日もいなかった。駅前の食堂で両親が働く彼女である。仕事に出かける山谷の男たちの胃袋のために、早朝四時から両親が出かけてしまえば、残るのは、まだ眠っているサチコ一人であった。寝坊をすれば、学校を休んでしまう。遅れて出てきても、朝食抜きの彼女なのだ。 「気ヲツケーッ! 体操体形(*隊形)ニ開ケーッ!」 壇上から号令がする。壇の左右にはトレーナー姿のセンセイたちが並び、校長はひときわ目立つ不動の姿勢をとっていた。産休代替教員の抗議などでゆれていては、校長は務まらない。 号令を受けて先頭の子どもたちが左右に散らばり、続いて壇上から笛が鳴る。先頭の子どもを目印に、残る子どもが散らばる番だ。左右の五、六年は前後の間隔をとり、残る学年はその間隔に合わせながら開いた列を整えていく。四十年以上も前に戦争は終わったのに、まだ軍隊の真似事をしている学校なのだ。 音楽が流れ、子どもたちの体が動く。ラジオ体操ではない。この学校のセンセイたちが作り上げた体操なのだ。区の体育研究指定校として、秋には研究会がおこなわれることになっていた。研究会という名前の見世物である。見世物には独創性が必要だったが、どこの体育研究校も自校の体操を作ってしまうと言うパターンには、もはや独創性などというものはない。 体操には加わらず、校門に目をやる。そこに現われるかもしれないサチコを見張るためなのだ。そんなふうにして、彼女の姿を見つけたことがある。姿はすぐに校門の向こうに隠れてしまった。急いで道路へ出てみると、ランドセルを見せて遠ざかっていく。あわてて追いかけ連れ戻した数は、二回だったろうか。三回だったろうか。…… 見えた! バサバサの髪がゆれている。 子どもたちに気づかれぬよう、忍び足で体操から離れた。校庭に溢れる音楽が、足をはずませ、走らせる。 校門の陰に立つサチコの視線は逃げていない。迎えを待って、彼女はじっと立っていた。 「おはよう。待ってたんだよ」 櫛の入らないサチコの髪をなでながら、整えてやる。 「先生、作文書いてきたよ」 顔が笑い、唇がとがっていた。彼女の唇がとがるのは、大事件のあった時だ。週に一度の作文の宿題を、まだやってきたことのない彼女である。それを書いてきたということは、大事件そのものなのだ。 「えらいなァ、よく書いてきたなァ」 「三枚書いたんだよ」と、彼女の唇がまたとがる。 「三枚も?」 「うん。三枚書けば、三年生だもんね」 「そう、立派な三年生だ。すごいなァ」 おおきくうなずき、彼女の肩を叩いてやる。三年生だから、作文は三枚以上書かなければならないというのは、子どもたちへの口癖だったのだ。 叩いた手をそのまま肩にかけ、校門を入る。体操は終わりに近づいていた。体調の悪い子どもが数人、校庭のわきに並んで見学している。 「体操が終わるまで、ここで待ってな」 手を離し、三年二組の列の後ろへいく。音楽が終わり、笛が鳴った。列は元の形に閉じ、行進曲が鳴る。足踏みがはじまり、決められた順番に従って列は校庭から消えていく。 チャイムが鳴った。もう一時間目のはじまりである。靴を履き替える子どもたちの姿でピロティは混み合っていた。混み合いの中に、サチコの顔を確かめ、玄関に向かう。 子どもの流れと一緒になり、教室に入った。教卓の前に座り、子どもがそろうのを待つ。 「先生、着替えるの?!」 体育着を着た子どもの質問がいつものように飛んでくる。もう着替えをはじめている子どももいた。 「自分で考えな!」と返す言葉も、いつもと同じだ。たずねた子どもは、まわりを見まわす。 「着替えても、着替えなくてもいいんだよ」 隣の子どもが言うと、着替えない方を選んだのか、後ろの子どもとおしゃべりをはじめた。おしゃべりがおしゃべりを呼び、教室は騒がしくなる。 一斉に着替えさせれば、少しはおしゃべりがなくなるのかもしれない。着替えさせなければ、すぐに朝の会をはじめることができるだろう。どだい、こんなところで一斉を止めても、それは芥子粒の自由なのだ。 芥子粒でも、自由はいい。おしゃべりに堪えていると、原稿用紙を躍らせてサチコが教卓にきた。 「ハイ、先生」 突き出した作文の頭には、『きょうりゅうのせかいおよんで』という題が書いてある。 「オー、読ませてもらうぞ」 手に取って、目を注ぐ。文字の鼓動がいきなり届いてきた。文字には血が通い。息が聞こえる。 いろいろなところえいって、三しゅうかんなにもたべていないのかなとおもいます。 でも、いろいろあるいていたので、いろいろわかるとおもいます。 きょうりゅうのかせきわみたことありますが、きょうりゅうのほんとうのかおわみたことないから、みたいとおもいます。もしほんもののかわのついたかおがはくぶつかんにおいてあったら、すぐにみにいくとわたしわおもいます。 いま本にげんじつにいきているとかいてありますが、いまいきているんだってみんなにしれたら、おおさわぎになるとおもいます。 でもそこにすんでいるんなら、そこがしぜんなんだとおもいます。 わたしもいきたいとおもいます。 いろいろのきょうりゅうとあそんで、いろいろして、きょうりゅうとなかよくしたいとおもいます。 ほらあなにたんけんにいったのに、いろいろなきょうりゅうがでてきました。 でも一日一日、いろいろのきょうりゅうがしんでいくのでかわいそうとおもいます。 でもいまでもいきているんだったら、それでいいとおもいます。 いろいろのかせき、そしてさいごにわぜんぶのかせきがみたいとおもいます。 わたしわいつかしぬかとおもうと、おもいでができたなとおもいます。 きょうりゅうも、いのちわみんなおなじだからとおもいます。 いのちって、すぐにわなくならないとおもいます。 いのちわたいせつにしたい。 きょうりゅうわにんげんがころしてしまうので、ぜつめつしてしまうとおもいます。 わたしわかわいそうとおもいます。 いまげんざいいじめられてるのかなとかんがえると、いつもいつもねむれなくなります。 二枚目をめくった時、サチコはのぞきながら言った。 「ね、三枚でしょ?」 三枚目は、ほんの数行しか埋まっていない。それでも三枚なのだと認めてもらいたい彼女なのだ。 「いいなァ。これはいいよ」と、答えはサチコの思惑から外れ、目は文字を終行に向かって追い続けた。 いままでにきょうりゅうがいきているんだなとおもってたけど、ほんとうにいきていたんだなとおもいます。 いろいろのいのちがたくさんあるんだから、いろいろなとぶきょうりゅうがいたりするんだから、みんないきているからうれしいなとおもいます。 「これ、図書館の本だろう?」 作文を読み終わり、サチコにたずねる。 「うん」 教卓に身を乗り出した彼女の返事が耳もとではじけた。 学校にも図書室はあるが、本の数が多いとは言えない。近くの区立図書館から、百册まとめて借りてきたのは先週のことなのだ。教室の後ろに置き、借りたい子どもには家への持ち帰りを許している。サチコが借りていったのは、コナン・ドイルの原作だった。 「よし、この作文は学級通信にのせるぞ。今日、図工の時間に印刷しとくからな」 「ワーイ!」と手を上げ、踊るように、彼女は自分の席に戻っていった。 日直が二人、前へ出て、チョークをにぎる。黒板に自分の名前を書きはじめた。下駄箱同様に、したたかな黒板である。黒い黒板など、どこの学校にもなく、みんな緑色に替わってしまったのに、呼び名は旧態依然なのだ。教室の正面に権威のようにのさばり、権威の住みに日直の名前を書かせている。 「これから朝の会をはじめます」 男女それぞれ一名の日直の声が重なる。椅子の音がおしゃべりを静め、子どもたちが立った。 一人一人の子どもの席に目をやる。欠席はなかった。サチコの首が左右を向き、後ろを向いてゆれている。 「サチコちゃん、動かないでください!」と、女子の日直のかん高い声がすかさず飛ぶ。勉強も得意なら、喧嘩も得意なミチヨである。 「動かないでください」 もう一人の日直の声があわてて追いかけるが、迫力はない。クラス一、真ん丸い体のヨシキは、気はやさしくて力持ちだった。 サチコの首は動きを止めない。その後ろから声がした。 「先生、サチコちゃんたらね、作文三枚も書いて学級通信にのるんだって、いばるんだよ!」 「こらっ! サチコ!」と叱りつける。前を向いて、彼女の首が止まった。 「挨拶だ」と、ミチヨとヨシキを急き立てる。 「おはようございます」 「おはようございます」 急き立てられた二人の声は、ずれて重なる。 「おはようございます」 「おはようございます」 「おはようございます」 みんなの返す挨拶も、ずれて響いた。ずれを気にするセンセイの仕事だが、気にするゆとりはない。一時間目のチャイムは、教室に入る前からなってしまったのだ。一、二時間目は図工室で、図工のセンセイに習う時間になっている。 「時間がないので、きまり係と遊び係だけ連絡してもらいなさい」と、日直への言葉が早口になる。 席に座った子どもたちのおしゃべりが、もうはじまっていた。正面の日直の席で、ミチヨとヨシキもしゃべっている。 「日直!」と声を大きくした。気づいた二人の顔が言葉をうかがう。 「きまり係と遊び係!」と、センセイの言葉は節約されていた。 「きまり係、連絡ありませんか!」 呼吸を合わせて二人は叫ぶが、おしゃべりの渦に巻かれて、ヨシキの低温は聞こえない。響くのはミチヨの声だった。 きまり係の一人が立ってしゃべりはじめた。教卓にひじを突き、耳の後ろに掌をあてがう。騒音の中から辛うじてきまり係の声が聞こえてきた。 「今日のめあては、勉強時間中におしゃべりをしないです」 「それでいいですか!」とミチヨの声がした。役目をほうり出してヨシキは黙っている。ほうり出しているのはヨシキだけではなかった。 「いいでーす」と返ってきた声は、みんなの半分の声にもたりない。 「しゃべるな!」と呶鳴りつけると、一瞬、教室は静まった。型にはまった議会主義のつまらない真似事をほうり出す自由は、芥子粒の彼等にはない。 「きのうと同じなんだから、消さなくたっていいじゃないか!」 子どもの声が一つ響いた。勉強も喧嘩も、ミチヨと一、二を争うカズヤである。ミチヨに負けるのは背の高さだけ。学級一のチビちゃんなのだ。 黒板の文字を消しはじめたミチヨの手が止まった。昨日の日直が書いた一日のめあてなのだ。黒板消しは『勉強時間中に』を消してしまい、続く文字だけが残っていた。『おしゃべりをしない』である。 「そうだよ。同じじゃないか!」と、真っ先に同調したのはノッポのハルノブだ。 「消さなくたっていいんだよ!」 「時間の無駄だよ!」と別の声が続く。 「そうだ。時間の無駄だ!」と、センセイまでが子どもに同調すると、ミチヨは黒板消しをチョークに持ち替えた。消した部分に文字を埋めようとする。晴れて黒板に書ける機会を逃したくないミチヨなのだ。 「書かなくてもいいよ。それで分かるから」 無慈悲なセンセイの声はミチヨの手からチョークを離させると、ぼんやりと正面に座ったヨシキに向かう。 「次は遊び係だ!」 「遊び係、連絡ありませんか!」と叫んだのは、逸早く正面に戻ってきたミチヨだった。 「今日の二十分休みは、手つなぎ鬼です。鬼は、わたしがやります」 遊び係の唇の動きが止まると、「いいでーす!」と、一斉にみんなの声がとどろいた。そろそろケリをつけて、図工室にいきたいのだ。センセイの言葉がすかさずつながる。 「さあ、それではすぐに図工の用意をして廊下に並んでください」 終わりの言葉を言いそびれた日直だが、こだわる暇は彼等になかった。教室の後ろの棚に向かって、みんなはもう小走りなのだ。棚の前で体がひしめき、図工の道具を抱える。 ひしめきは廊下に移った。左右の教室に届きやすい、ここでの呶鳴り声は出さない方がいい。 「あっ、ハルノブ君、お行儀がいい」 ひしめきの後ろで直立するノッポを先ずは褒めてみた。褒められたハルノブは、照れた顔で、たこのように体をゆらす。ゆれを真似て隣の一人がたこになった。三十匹のたこが生まれる前に、子どもたちを歩かせてしまわなければならない。 「前エーッ、進メッ!」 とうとう体育集会だ。ざわめきながら遠ざかっていく子どもたちの列が廊下を折れて見えなくなると、思わず深く息をついた。 椅子に座り、空き缶の鉛筆立てから一本を取る。鉛筆立てにつまっているのは、どれもこれも、落とし主の現われない鉛筆ばかりだった。 日直の子どもが職員室の前の連絡棚から持ってきたカードに0を二つ書き入れる。男と女の欠席者の数である。 カードを手にして、静まり返った廊下に出た。階段を下りて、職員室へ向かう。連絡棚にカードを戻し、かたわらの小黒板のチョーク受けからチョークを取った。ここでも、0を二つ書き入れなければならないのだ。 戸を開け放した職員室の中に、書き物をしている教頭の横顔が見える。隣の机の校長も、そこに詰め寄った十七人目の自分もいない。校長はいつものように隣合わせの校長室に引きこもっているのだろう。そこまで押しかけ、十七人目はまだ詰め寄っているのだろうか。聞き耳を立てたが、校長室からは物音一つ聞こえてこなかった。 肩をすぼませ、職員室に入っていく。机の下から鞄を引き出す。煙草とライターが、そこに入っているのだ。二つをつかみ、逃げるように職員室を出た。 教室へ戻り、戸を閉めた。後ろにまわり、もう一つの戸も閉める。誰もいない空間が息づき、窓の光が椅子をやさしく照らしていた。 腰を下ろし、煙草をくわえる。炎を受けて火が灯り、煙がゆっくりと心をあやした。 煙草の先に、砂時計のように灰がたまっていく。落として散らすには忍びない心の友だ。灰皿の中に崩さぬように灰を落とし、短くなった煙草の先を静に灰皿に押した。 教卓の引き出しを開け、ファックス用紙を一枚はぎ取る。緑色の線で刷られた方眼は五ミリである。鉛筆の芯の太さと老眼のため、それより小さな枠は駄目だった。 長い間使ってきたのは、四ミリ方眼のろう引き原紙だった。北海道の最後の学校では、原紙はまだ職員室に残っていたが、時代遅れのヤスリは買ってもらえなかった。一つ前の学校で買ってもらったヤスリを使って製版したが、主流はとっくにファックスだった。 東京へ出てくる時、ヤスリも鉄筆もごみに出してしまった。センセイをやるなどということを予想もしていなかったからだ。いざセンセイをやってみると、ヤスリはもう東京では使うことのできない道具だった。原紙もなければ、原紙を張る印刷器もなかったからだ。
(続く)
編者注記(東條) 表記はすべて原稿通りのままとしました。表記ミスと思われるものについては(*)で注釈しました。
校正協力・ガザミ
戻る |