「わたしは誰の命令も受けてはいない。
わたしを貫く、歴史の声に突き動かされているだけ」――向井豊昭論序説
岡和田 晃
※註 本稿は「幻視社第四号」向井豊昭特集のために書かれたものです。


●向井豊昭作品をめぐる現状
 〇八年の六月に向井氏が亡くなってから一年半あまりが経過している。その間、「早稲田文学2」に遺作が掲載され、「群像」での匿名批評「喧々諤々」で愛に満ちた追悼コメントがなされたきり――筆者がチェックしている限りにおいて――およそ文壇と呼ばれる場所で向井豊昭の名が発せられてはいない。
 「早稲田文学」の広告欄に記されていた情報によれば、『怪道をゆく』はわずか一〇〇〇部しか刷られていないらしい。不幸中の幸いにして同書はまだ絶版とはなっていないということだし、オンライン古書店を利用すれば、かつて四谷ラウンドから出版されていた『BARABARA』と『DOVADOVA』を比較的安価で入手することができる。しかし、それらによって新規の読者が開拓されるとの期待はできない。加えて、艶めかしくも愛おしい色気あるコールガールの一人称による連載「エロちゃんのアート・リポート」をはじめ、向井氏の本領が発揮された短編の多くは雑誌や同人誌に発表されたままになってしまっている。残念ながら、これが現実だ。

 こうした現状は、向井氏の訃報を耳にした瞬間から、ある程度予測せざるをえなかったことである。向井氏は傍目から見ても、その文業に比べ、あまりにも評価が低い作家だったと言わざるをえないからだ。あとわずかに文壇での認知度さえ伴っていれば、三島賞や川端賞ぐらい、すぐに獲得できていたに違いないと率直に思う。
 生前の向井氏自身がしばしばエッセイで自嘲しているように、「早稲田文学」など一部の媒体を除き、文壇は彼を徹底して無視し続けてきた。向井氏がBARABARA書房を標榜し自費出版を続けたのも、そうした制度へのゲリラ的な抵抗にほかならない。筆者が向井氏より寄贈された自費出版本の奥付には、「0円+冗費税」との記載がなされていた。純文学という制度は建前上は「何でもあり」なものの、その実は娑婆っ気たっぷりの利権のやりとりに満ちていることを向井氏は鋭く感じ取っていたのだろう。
 文壇に期待ができない以上、残された面々に求められていることは、いかにして向井作品に向き合っているのかをこうして記録することで、可能であれば再度、向井氏を評価の俎上に乗せるよすがとすることだろう。本人の言葉を借りれば「思想は地べたから」なのだ。

●「マイナー文学」へ向き合うために
 幸いながら、インターネット上においては、心ある読書家の方々によって死の直前に単行本化された『怪道をゆく』の感想が時折掲載されることがある。たとえば有名な新刊紹介ウェブログ「悪漢と密偵」の管理人が寄せた『怪道をゆく』への批評を紹介したい。

 向井豊昭『怪道をゆく』は、本来正確無比であるべき(なのに虚航船団的に狂った)カー・ナヴィゲーションに導かれる異質な世界へのロードノヴェルとでも言うべきか。カーナヴィの予告音が仏壇の鈴のような音を出すというところから死界/霊界参入の趣もあり、死後≒過ぎ去ったものの住まう場所と考えればこれすなわち過去/歴史への旅であったり、ラファティのスラップスティックを思わせるところもあり、ついこの間まで『コンゴ・ジャーニー』に憑かれていたのでエイモス・チェツォーラ『やし酒飲み』の奔放なアニミズム世界を思い出したり、山下洋輔の『ドバラダ門』や島田虎之介の諸作を連想したり、そのほかにもきわめて多層/多角な批評的読みの誘発を挑発する傑作。単行本未収録の作品群もぜひ本にしていただきたい。(http://d.hatena.ne.jp/BaddieBeagle/20080514

 同ブログの管理人BaddieBeagle氏の博覧強記ぶりは実際に氏のウェブログを見てもらえれば一目瞭然であるうえ、大森望氏らの紹介によって広く知られているとも判断し、ここでは繰り返さない。BaddieBeagle氏の批評においては、いわゆる「ラテンアメリカ文学」やマジック・リアリズムを基体とした「ポストモダン文学」へも通じる豊穣な文脈への導きの糸が記されている。それに加え、RPGライターとしての立場から言えば、ある種のゲーム性をその文脈に見出すこともできると付け加えておこう。それゆえに、たとえ「アイヌ」や「下北」といった、ドゥルーズ=ガタリが『カフカ』で示したような「マイナー文学」を象徴するかのようなモチーフ群へ興味を持てない読書家にとっても、向井作品から導かれる文脈は、蠱惑的なものとして映るのではなかろうか。
 いやむしろ、向井豊昭の作品から政治的な主張のみを取り出し提示してみたとしても、このグローバル化した資本主義経済と情報環境をほぼ身体化してしまっている私たちにとって(現に、この雑誌「幻視社」についての討議や打ち合わせの大部分は、インターネットやメールといった情報環境を介してなされている)、それが自分たちの「いま、ここ」と密接に関わる真摯な問題であると受け止めることは困難だろう。残念ながら「アイヌ」へ密接な関わりを持つ人間は、世界の人口の中では圧倒的に少数派だからだ。

 しかしあえて断言すれば、私たち読者の多くが「アイヌ」や「下北」といったモチーフに対する距離感を感じているからこそ、向井作品は私たちにとって(現代的な)意義を持ちうる。なぜならば向井氏は、「ヤマト」である自分が「アイヌ」の子どもたちを教えなければならないという矛盾や、「ヤマト」としての自分と「アイヌ」である他者との差異そのものに、自らの文学における一つの出発点を置いていたからだ。ゆえに向井氏の出発点と、「アイヌ」や「下北」といった問題についていまひとつピンと来ないであろう私たち読者の立場とは、実は極めて近しいものだと言ってしまうこともできる。

●「アヴァン・ポップ」としての向井文学
 批評家ラリイ・マキャフリイは「アヴァン・ポップ」という概念を用いて、高度に発達した資本主義がもたらす情報環境について、いわば「添い寝して刺す」ための文学的方法を模索した。そうすることでマキャフリイは、いわゆる「ポストモダン文学」が明らかにする身体や性差の攪乱・都市と郊外の乖離・ジャンルの解体と融合などといった要素をピックアップしながら、ドゥルーズ的な「マイナー」文学が現在の状況においてもアクチュアリティを失っていないことを証し出したのだ。その流れで、イギリスの「ポスト・サイバーパンク」作家の代表格であるリチャード・コールダーや、日本の笙野頼子といった作家が、優れた「アヴァン・ポップ」作家として浮上してくることになる。コールダーや笙野については、また別の機会に論じてみたいが、筆者は向井豊昭の作品群も「アヴァン・ポップ」の文脈に位置づけるべきではないかとたびたび主張している。例えば本特集で東條慎生氏が笙野頼子と向井豊昭とを並べてその差異を指摘しているが、両者に共通する「近代、権力への抵抗の基本的なスタンス」とも言うべきものを「アヴァン・ポップ」という観点から捉え直せば、彼らのスタンスが現代のグローバル化する高度資本主義を、文学の立場から批評的に捉え返したのだと理解することも充分に可能だろう。「マイナー文学」を自分とは関係ないマイノリティの政治的なマニフェストとして捉えるのではなく、私たちが生きている環境、私たちの内なるマイノリティ性をアクチュアルに形象化させたものだと理解すること。今、向井豊昭を読み直すために求められているのは、何よりそうした姿勢ではないか。

●『三枚つづきの絵』論からの影響
 さて、それまで典型的な近代文学的スタイルを採用していた向井氏が方法論を変えて「アヴァン・ポップ」作家へと転進したのは、平岡篤頼氏によるクロード・シモン『三枚つづきの絵』論に触れてからのことだと本人のエッセイに記されている。その平岡氏の評論「フランス文学の現在」は、『三枚つづきの絵』に見られるシモンの叙述スタイル(いわゆる「エクリチュール」)をその周辺事情を含め丹念に解説したものだと、端的にまとめることができるだろう。
 文字通り『歴史』と題された著作すら持つクロード・シモンは、歴史と(近代以前にまで遡る)物語との関係性を主軸にして作品を書き続けてきた小説家だ。例えば現在、第十次「早稲田文学」に断続的に訳載されているシモンの「農耕詩」では、古代ローマの詩人ウェルギリウスの同名の作品にまで遡る形で「物語=歴史」のあり方が追究されている。しかしながら平岡氏の解説の主題とされていた『三枚つづきの絵』においては、おそらく記号論や構造主義の文脈をふんだんに意識したうえで、言語そのものを解体し再構築させる過程を通して、まるでタイプの異なる三枚の絵に潜む内在的な運動性そのものへ焦点を当てた作品であると言ってよいだろう。それゆえに『三枚つづきの絵』は、シモンのキャリアのなかにおいても特異な性質の書物であると言ってよい。『三枚つづきの絵』には、いかなる固有の物語も、またキャラクターも存在しない。ただあるのは、自律した言葉の運動性だけなのだ。同じ「ヌーヴォー・ロマン」として括られる作家たちのなかでも、クロード・シモンと、好んで「ヌーヴォー・ロマン」の領袖的な存在として振る舞い「饒舌なスフィンクス」(蓮實重彦)として「謎のための謎」を投げ掛け続けたアラン・ロブ=グリエとは、しばしばそのスタイルがまったく異なる作家同士として取り沙汰されるが、こと『三枚つづきの絵』に関して言えば、シモンのエクリチュールは限りなくロブ=グリエの虚構性に接近していると言ってしまってよいだろう。

 『三枚つづきの絵』で提示されているような「言葉の自律した運動性」から向井豊昭がいかなる影響を受けたのかについては、私たちは向井氏のテクストを通してしか理解することができないが、ひとつ仮定することができるとしたら、向井氏はシモンから言葉の運動性によって生まれるダイナミズムを学ぶことで、言葉そのものに宿る「人の内側の歴史」とでも言うべきものの連関性へ着目するようになったのではなかろうか。
 笙野頼子研究ウェブログ「笙野頼子ばかりどっと読む」の管理人Panza氏は、「神仏習合や権現」という立場に着目し、例えば『金毘羅』など――「アヴァン・ポップ」小説としても読むことのできる――近作について研究して、その成果をウェブ上で発表し続けている。その最新エントリ「仏の卵」(
http://d.hatena.ne.jp/Panza/20091117)においては、「外在する歴史」としてのみならず、内面にまつわる歴史としても「神仏習合や権現」に着目する必要があると書かれている。
 「幻視社」の今号に掲載されている「向井豊昭メモ」にて東條氏は、「起源の捏造としての神話と格闘する」作家としての笙野頼子と「権力との闘争というフィジカルな歴史」に着目した向井豊昭を区分しているが、その区分に従えば、Panza氏が笙野に見出した「内面としての神仏習合や権現」とでもいったものを、向井豊昭は「内面化した権力と、それに対する闘争」という形で繰り返し追いかけていたのではないかと思えてならない。
 こう見ると笙野頼子はもとより、ガッサン・カナファーニ(『ハイファに戻って/太陽の男たち』)やトーマス・ベルンハルト(『消去』)、さらにはノーベル文学賞を受賞したばかりのヘルタ・ミュラー(『狙われたキツネ』)など、グローバル時代においてそれら優れたマイノリティ文学を読み直すという文脈においても向井作品を捉え直すことができそうだ。

 ……と、ここまで書いたところで、本来ならば向井豊昭の具体的なテクストについて詳細な分析を行なったうえ、向井豊昭が「内面化した暴力と、それに対する闘争」をいかなる形で表現したのかを分析し、論証していく段階に入るべきだろう。
 しかしながら入手可能な向井豊昭のテクストがあまりにも少ない現状において、仮に詳細なテクスト分析を行なったからと言って、それが読者にとって魅力的に映るかどうかと問われると、口ごもらざるをえない。とりわけ今回の特集では向井氏の未発表小説を掲載するという資料的な側面に重点を置いている事情もある。そのため、少々アプローチを変えてみようと思う。
 それでは引き続き、次稿をご覧下さい。


 〈了〉

次稿 向井豊昭氏からの書簡について

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