特別企画 向井豊昭氏からの書簡について
岡和田 晃
※註 本稿は「幻視社第四号」向井豊昭特集のために書かれたものです。


 本稿では、向井豊昭の思想をより原型に近い形で知ってもらいたいと思い、筆者と向井氏との間で個人的に交わされたメールの中から、(ご遺族の了解を得たうえで)向井作品を読み解く上で何かしらのヒントとなりそうなものをピックアップし、向井作品に興味を持つ読者へ向けてご紹介する。

 むろん正直な話、拙いながらも批評に携わる者としては、できるだけ書き手の思想と作品そのものとは切り離して考えたい。「作品が全て、人間は無」。さる私淑する人の言葉を借りれば、これが作品と作者の理想的な関係性であり、読者や批評家もその流れにおいてこそ作品へ向き合わねばならないと素朴に思っている。
 しかしながら、もはや状況の暴力性は、このような理想が通じる段階にはないと筆者は考えている。向井豊昭のみならず文学そのものが衰退している昨今において、向井氏のメールに見られる危機感を、作品の根底にある問題意識として捉え直すことができれば、それは私たちにとって、向井氏の作品の深奥に根ざす普遍性へと触れる何かしらの契機になるのではないだろうか。

 頭の片隅をちらりとよぎった事柄が、ろくな吟味もなされないまま、すぐさまインターネットへ放出されてしまう現代。二葉亭四迷が苦しみの果てに追究した「言文一致」が、かくもやすやすと実現してしまっている現代。そうした状況において、一人の作家がその思想を吟味し、研ぎすました言葉によって作品へ転化させる過程を知ることができれば、文学へ関心のある私たちにとって、何かしら益するところがあるのではなかろうか。
 そう考え、私信の一部を公開するという破廉恥な振る舞いをすることを決断した次第である。向井氏ご本人の許可が取れないのが重ね重ね残念ではあるものの、こうした文脈であれば、必ずしも本人の意に沿いかねるわけではないと勝手ながら思っている。どうぞ、読者諸賢については事情をご理解をいただき、ご寛恕を請いたい。そして、メールで言及された文脈を手がかりに、どうぞ向井氏の過去作を読み直してみていただきたいと切に願う次第である。

 蛇足ながら、向井氏と筆者との関係について、最低限必要な文脈に触れておく。
 筆者がまともに読んだ最初の向井作品は、二〇〇一年に「早稲田文学」に発表された「怪道をゆく」だった。
 (リニューアル前の)第九次「早稲田文学」は編集に携わっていた池田雄一氏や市川真人氏らの方針もあり、とりわけ批評の充実に力を入れていたが、同誌に掲載された批評の数々は「文学を通して状況を考える」熱気に満ちていた。いや、熱気と言えば語弊があるかもしれない。文学を通してものを考えることの苦しさをコンスタティヴに示すような、いわば「背水の陣」とも言うべき痛みに満ちていたのだ。小説の方も、批評に劣らない密度ある作品が多かったが、筆者はその中でも「怪道をゆく」に、最も痛切な批評性を感じた。それまで北海道という特異な土地の歴史性を小説という形で取り出すことの難しさに対峙させられていた筆者は「怪道をゆく」から受けたえも言われぬ衝撃を軸に、雑誌のバックナンバーを収集するなどして、向井作品を読み続けた。なお、二〇代前半で向井豊昭の小説を読んでいる人間は私の他にもまま見受けられ、二〇〇三年頃には、同世代の人間と向井作品について語り合ったこともある。
 〇五年に第九次「早稲田文学」が休刊して以来、向井豊昭の新作を簡単には読むことができなくなった。文学そのものの停滞感は年を追うごとに増していき、同世代で向井作品について語る者はいなくなった。しかしながら、「怪道をゆく」を読んで受けた衝撃は、簡単には消えなかっていなかった。転機が訪れたのは〇七年のはじめだ。たまたま自分が運営するウェブログで「怪道をゆく」について言及していたところ、たまたま向井氏本人の目に留まり、BARABARA書房から刊行された「怪道をゆく」と「みづはなけれどふねはしる」を謹呈いただいたのである。ここから筆者と向井氏との交友関係は開始され、その後も電子メールを介して、作品の感想や、文学や歴史についての意見を交換し合ってきた。
 ただ、当時筆者はRPGライターとしてデビューしたての時期であり多忙を重ねていたため、向井氏の存命中にご本人と直接、顔を合わせる機会を持つことは結局、適わなかった。


●二〇〇七年七月のメール
 さて、まずご紹介したいのは、麻田圭子とのコラボ小説「みづはなけれどふねはしる」について、筆者のウェブログでささやかながら取り上げた取り上げた際(http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20070709/p1)にいただいたメールである。
 筆者は『みづはなけれどふねはしる』における、小説内の「声」の多層性を指摘した。おそらく『みづはなけれどふねはしる』は、人間の「声」にスポットを当てることで、「国民国家」に代表される、人間相互が作り上げてきた「国民国家」とはまた違った形での、人間同士の共生のあり方、共生が成立するための位相を模索しているのではないかと、私は読んでいた。この「声」には、向井豊昭・麻田圭子の二人の「声」であるとともに、作品内で引用されたジョン・レノンからバイロン卿に至る詩人たちの「声」、さらには歴史の中で埋もれた人々の「声」やインターネット上で蠢く無数の自意識が発する「声」をも視野に入れたつもりである。ただ、その「声」同士の繋がりに弱い部分があるのではないか、そして、ある意味で小説の核となる向井氏の祖父についての情報が緩いのではないかということを、W・G・ゼーバルトの小説『アウステルリッツ』を併記して指摘した。そのことについての向井氏からの反応が、次に紹介するメールには記されている。


 岡和田 晃様

 『みづはなけれどふねはしる』の書評、読ませていただきました。
 ありがとうございます。
 『アウステルリッツ』を読んだ上でお答えすべきなのですが、それをしない失礼をおゆるしください。
 その小説は「声を巻き込む」とおっしゃっておられますが、それは、弁証法のプロセスとして、在るべき方法なのだと推測しております。逆に言えば、わたしたちの小説の声の距離が、互いに、「巻き込む」ことを避けているのが弱点なのだと思うのです。
 「巻き込む」ためには、もっと時間をかけなければなりません。コミューンという言葉をわたしはあとがきの中で使いましたが、コミューンは、並大抵のことで実現できるものではないということを実感しました。でも、挫折ではありません。まだ、誰もやっていない試みに挑んだという自負の方が強くあります。

 モデルになった祖父についての「情報の緩さがネック」になるというお言葉について申し上げます。
 その通りだと思います。その緩さは、あまりにも小出しに、石ころのように情報を置いたことにあると思っています。
 これは邪魔、これは邪魔と、かなり省いたのですが、省き足りなかったと思っています。
 モデルについての情報は極度に少なくして、埴輪のように造形することができたなら、この小説は読者一人一人の問題として近付いていくでしょう。
 とは思うのですが、安直なこの時代、こんな小説は近付いた途端、蹴飛ばされてしまいますよね。
 博物館に鎮座するものが真の埴輪であり、道ばたの埴輪は偽造と見られるこの時代なのです。

 一昨年、大塚英志が、「小熊秀雄は、お役人の世話で職を得た転向者だ」
 と、あちらこちらで言い立て、わたしは、その全ての出版社に異議を申し立てましたが、相手にされませんでした。小熊がアイヌを登場させた「飛ぶ橇」をもとに、わたしは「飛ぶくしゃみ」という小説を書いたばかりの時だったので、大塚の論が暴論であることは、一読して分かりました。情けない時代になったものです。

 いや、時代は、いつも情けなかった。

 向井豊昭


 その後、筆者は向井氏に、自分の発言の文脈や背景を理解してもらうために、自分の書いた論文を向井氏へ送付した。それは「文学の特異点」という、カール・シュミットの『パルチザンの理論』を核とした文芸評論である(現在はラリイ・マキャフリイとも関わりが深いアメリカ文学者・巽孝之氏の厚意により、同氏の主催する雑誌「科学魔界」の50号へ収録をいただいている)。
 それを読んだ向井氏は、打てば響くように興味深い返事を書いてくれた。その文脈でのメールのうち、向井文学を理解する際に役立ちそうなものを二通紹介したい。
 手前勝手な岡和田に対する向井氏の気遣いが行間から滲み出ているが、その部分は外していただき、向井文学の根底にある思想性を見ていただきたい。とりわけ帝国主義とパルチザン、さらにはアイヌの若者についての言及は、何かしら読者にとって感じ入るところもあるのではないかと思う。


 岡和田 晃様

 論文まで送っていただいて、ありがとうございました。
 パルチザンを核にした論、刺激的で、引き込まれました。
 凛とした若さを感じます。羨ましいと、73才の半ば死にかけた老人は思いました。

 文中、ラウル・サランが帝国主義とパルチザンの融合をしてしまったと書かれている部分に、わたしはウーンとうなりました。あなたの提唱されているパルチザン文学にわたしは大賛成なのですが、それが、帝国主義、国粋主義、資本主義などと融合してしまう危険性は歴史が教えているわけですよね。文学が本になって読まれなければ、文学でもなんでもない。そのためには、お金がいります。ここでもう資本主義に頼らざるを得なくなってくる。BARABARA書房のような存在は、相手にされないのです。相手にしてくれたのは岡和田さんだけなのです。

 本は止めて、耳に届けようとしても、既に入場料を取る営業としての朗読会があちこちでやられています。金のないわたし(BARABARA書房は倒産しました)は、街頭でやるしかない。が、『BARABARA』の昭和最後の日を読み出した途端、警察が襲いかかってくることでしょう。

 年寄りの冷や水、ごめんなさい。若い人は、こんな取り越し苦労はせずに、前へ前へ進むものなんですよね。ただ、歴史の中のパルチザン、パルチザン的言語から、もっともっと積極的なデイテールの水を汲み上げて、「これでどうだあ! 目をさませえ!」と世の中に向かってぶっかけることができたなら、これ以上いいことはないとわたしは思うのです。思ったことを正直に述べて、お礼と致します。

 『アウステルリッツ』は麻田さんが手に入れたそうです。読了後、わたしと会うことになっています。実はわたし、目の老化で左目がほとんど見えず、精読できない状態なのです。麻田さんの読後感を聞くだけで終わりそうですが、おゆるしください。

 「飛ぶくしゃみ」は残念ながら未発表です。大塚英志の暴論をめぐる出版社とのやりとりを繰り返していたら、小説よりも現実の方が面白くなってきて、原稿はそのままになっています。

 あなたのブログのコメント欄になぜか書き込みができないのですが、もう一度やってみて、うまくいかなければ諦めることにしましょう。「文字列が違います」という言葉が現れてくるんですよね。「違います」「違います」と追い払われて来たわたしの小説ですから、その言葉にはビクともしませんが。

 向井豊昭


 岡和田 晃様

 メールを読み、やっぱり年寄りの冷や水を岡和田さんに掛けてしまったと反省しました。
 パルチザンについて、「私たちには他に何ら方法がない」と、今度のメールで岡和田さんは言っておられますが、その言葉に接し、「そうだ、そうなんだよ」と思うと同時に、わたしは冷や水の役立たずで、岡和田さんは熱い若者だということを認識しました。老人はマイナスだけを見てしまう。若者は「他に何ら方法がない」と突き進むのです。万歳!

 1970年代のはじめ、北海道出身の若者たちを中心とした東アジア反日武装戦線というものが爆弾闘争を繰り広げたのを御存知でしょうか?
 その前史として、旭川の常盤公園にある風雪の群像も爆破されました。本郷新の作。群像の一人はアイヌの老人で、木株に座り、他の和人は立っているという構図です。
 なぜアイヌを立たせないのだという声をアイヌの彫刻家、砂沢ビッキは発したものです。その中での爆破だったのです。
 当時、旭川には、アイヌに取材する小説を書いていた三好文夫という人間がいました。道新のコメントで「アイヌはチャランケという話し合いの方法を持っている。爆弾なんて、とんでもない」と言ったものです。
 民族差別に目を向けざるを得なかった北海道の若者たちにとって、あの時、ああするしかなかったと、わたしは、当時も思い、今でも思っています。

 その数年前、わたしは『文学界』の同人雑誌推薦作として「うた詠み」という小説を発表する機会を得ていました。これは立風書房の『北海道文学全集』21巻に再録されていますが、小学教師のわたしから見たアイヌの姿を書いたものです。当時、わたしは少数の仲間と、アイヌのこどもたちと真に向き合うための教育運動をやっていました。70年代のもろもろの闘争の終焉と共に、わたしたちの教育運動も挫折し、わたしは、アイヌのことが書けなくなりました。「怪道をゆく」は、このままじゃ死ねないという、たまりにたまったわたしの思いを一挙に吐き出したものです。

 数年前、旭川の小熊秀雄の跡をたずねて行った時、風雪の群像も見てきました。爆破の跡はもちろん修復。そこは、愛犬家たちの集まる場所になっていて、どの愛犬家もチワワを引き連れているのです。
 パルチザンの爆破を知るわたしは淋しい。が、その時、まだ生まれていなかった岡和田さんから、ひさしぶりに、パルチザンを核にした言葉のうねりを見せていただいて、わたしはとても愉快なのです。

 次から次と押し寄せる波の姿は、決して一様ではありません。どうか、これでもか、これでもかと、次々にパルチザンの多様であろう先人達のエッセンスを形にし、腐りきった文芸界が目を覚まさずにはおられないような評論の出現のためにご精進くださいますようお願い申し上げます。

 向井豊昭


●二〇〇七年一二月のメール
 続いてご紹介したいのは、〇七年一二月にいただいたメールだ。これは「文芸にいかっぷ」25号に発表された「続・小熊秀雄への助太刀レポート」のコピーを送付いただいた際に伝えた感想に対する、向井氏からの返信である。
 向井氏は歴史ある同人誌に小熊論を寄せることで、それが「北海道新聞」などのメディアに取り上げられることを期待していたようだが、残念ながらそれは適わなかった。ただ、「続・小熊秀雄の助太刀レポート」の前身「小熊秀雄の助太刀レポート」については、現在ウェブ上で読むことができている。(http://www.soufusha.co.jp/opinion/hiroba8.html)向井氏の小説にもまま見られる、誠実かつ綿密な調査の結果がよく現れているレポート記事なので、ぜひともご参照いただきたい。
 それとともに、ここで紹介するメールにも、権威の横暴にやすやすとおもねることとない、向井氏の作家としての矜持がよく現れているのではないかと思う。


 岡和田 晃様

 小熊秀雄への助太刀レポートの続編は短いものになってしまいましたが、援軍ひとりもなく、疲れてしまったのです。
 もっと詳しく状況証拠を挙げていくべきだったのですが。

 腹が立つのは、小熊の味方と思われる人間が他人事のように腕を組んでいること。質問をしても返事なし。いまだに吉田美和子をかばっている研究者さえいます。
 それでいて、韓国の大学に小熊の講義に行ったり。
 小熊の本質に関わる問題をほうっておいて、よく得々と講義ができるもんだ。

 そもそも、吉田一穂と小熊を一緒くたにするのがおかしい。
 吉田の詩は、あの時代の時流そのもの。
 内務省のお世話になって何ら不思議はありません。

 小熊は、漫画の台本書きという、あの時代では奥付に名前も出ない安っぽい立場、安い労賃で身をすり減らして死んでしまいました。
 そんな職を世話したからといって、得々と吹聴する方がおかしいんです。
 佐伯なるお役人、詩人だったそうで、だったら小熊の死後の追悼展の発起人になるべきなのに、そいつの名はないんです。

 与田準一もおかしい。
 彼、当時、神楽坂の近くの新築の一軒家を借りて住んでいたんですよね。
 ご立派な身分だ。
 小熊の身分とははるかな格差。
 そいつが、小熊ばかりか、出版社の経験もない山之口貘まで、佐伯の世話で出版社へと書いたんですよ。
 そんな老人ボケの文章を印籠のようにかざすとは!

 書いていけばきりがありません。
 これで止めます。

 向井豊昭


●二〇〇八年三月のメール
 次に紹介したいのは、向井氏と〇八年の三月にやりとりをした際のメールである。当時、引っ越したばかりの筆者の部屋の近くには岡本かの子の文学碑があり、それについての四方山話をしたわけなのだが、思いがけなく、向井氏の文学的なルーツに関わる話を引き出すことができたのである。


 岡和田 晃様

 岡本かの子文学碑が近くにあるということを聞き、北海道静内町の文学碑のことを思い出しました。

 道新に船山馨が「お登勢」という小説を連載し、この舞台が静内。お登勢は、淡路から移住した士族の娘。この一代記なんですが、アイヌの側から見たら侵略者の一人のはず。船山には、その視点が欠けていました。

 静内の文学愛好者たちが桜並木にお登勢の文学碑を建てようと奔走。寄付金をつのりましたが、わたしは応じませんでした。

 いよいよ除幕式ということになったらリーダーから電話が来ましてね、わたしにスピーチをしてくれというんです。当時、わたしは、隣町の新冠にいましたが、「文学界」に小説を発表していましたし、日高地方の文学者代表という形でスピーチを依頼したのでしょう。

 わたしは、自分の思想と反する小説の碑を賛美するわけにいかないと断りましたが、要した時間は延々1時間。

 何年かたち、その文学碑の近くの小学校に異動になり、はじめて碑を見る機会を得ました。
 草ぼうぼう。

 向井豊昭


 同時期のメールはまだ残っている。筆者が向井氏の著作の網羅的なリストを作成していた際、本人とやりとりをした時のメールをご紹介したい。
 「21世紀文学の創造9 ことばのたくらみ―実作集―」に収録された「ゴドーを尋ねながら」に触れた際のメールであり、太田出版版の『怪道をゆく』にも収録された「熊平軍太郎の舟」への言及や、向井豊昭と同じく土地性を創作の基盤とした作家たちへの言及が興味深くある。
 なお、ここでの笙野頼子や中上健次への言及は、作家ならではの矜持(身も蓋もない言い方をすれば、ライバル意識)の発露として理解することもできるものの、ここはむしろ、向井氏が他の作家を批判しているというよりも、彼がどれだけ強く「歴史的なマイノリティ」を意識していたのかを感じ取るところなのではないかと筆者は思うようにしている。


 岡和田 晃様

 「ゴドーを尋ねながら」を拾い上げてくださってありがとうございます。
 あれを書くため、わざわざ恐山の夏の大祭に出かけ、イタコに祖母の霊をおろしてもらったりしました。

 霊なんか信じていたわけじゃありません。
 でもね、イタコが祖母の言葉をしゃべりだすと涙が出てくるんです。
 不思議な体験でした。

 もうひとり、ハッピラという記録に残る下北アイヌの霊もおろしてもらいました。
 すると、ハッピラ氏、「おれのことを書いてくれ〜」と言ったのです。
 わたしは小説を書いているなんて、イタコには話してないんですよ。

 「熊平軍太郎の舟」は、ハッピラという名を出してはいませんが、イタコを通した彼の訴えに応えたものなのです。笙野頼子の神話的世界は、ヤマトという枠の中を抜けきっていないと、わたしは思う。中上の熊野なんて、ヤマトそのものじゃないですか。
 アイヌという今はマイノリテイになってしまったものの存在を、文学者は無視してしまっているんですよね。

 向井豊昭


 続いて、先のメールに繋がる流れで、向井豊昭が批評家・柄谷行人について触れた箇所を見てみよう。
 「早稲田文学」の二〇〇四年五月号に、「近代文学の終わり」と題された柄谷行人の講演録が掲載された。これはグローバリズムの浸透において、もはや文学の方法は対抗策となりえないことを、ごく素朴な言葉で記したものであった。
 同年九月号には、それについて作家側からの応答がなされた。中でも広く注目を集めたのは、笙野頼子による「RE: 文学 死んだよね?――ハァ? 喪前(おたく)が死んでんだよ、アーメン ドン・キホーテの執行完了」であるが、一方の向井豊昭も反論を寄せていた。
 柄谷行人が『早稲田文学』誌上に講演録「近代文学の終わり」を発表した際、自身の「文学を教える」教員としての経験に基づき、果敢にも異議を表明した(「アイデンティティへの道」)。なお、ここでの教員体験は、小学校の講師としてのものではなく、青森の短期大学で創作コースの講師を務め際の経験に拠っており、東邦大学医療短期大学で創作コースの講師を務めた際の経験に拠っており、普段の散文に垣間見えるユーモアは慎重に排されている。雑誌そのものは現在では入手困難かもしれないが、文学をめぐる重圧とそれを押し退けようとする強靱な意志を感じる文章なので、ぜひともご一読をお勧めしたい。
 なお、今回のメールには柄谷行人への反論についてだけではなく、向井氏が一人で「パルチザン的」に繰り広げていた個人誌「Mortos」についても言及がなされている。


 岡和田 晃様

 平岡先生とのこと、柄谷への反論のことまで書いてくださって、うれしいです。

 柄谷への反論は依頼原稿ではなかったんですよね。
 編集室からは、不特定多数の人間に宛てた文書が送られてきて、柄谷の文への感想が欲しいと言ってきたんです。
 よーし、と、わたしはエロちゃんの文体で書いたのです。
 書いたものを読み返し、これじゃあ柄谷大先生に失礼かなと思って、手直しをしました。

 掲載誌が届き、意外だったのは、たった3人の感想しかなかったということです。
 文学者の99.99999%は、黙りこくったというわけです。
 この国の文学界には、もはや論争をするエネルギーがないのです。

 3号雑誌という言葉をご存知ですか?
 3号で潰れる同人雑誌のことですよね。
 そういう雑誌にしては駄目だという自戒を込めてこの言葉を使ったものですが、「Mortos」も3号雑誌になりかかってきました。

 「Mortos」はどうでもいいけど、3号文学界を作り直すのは、新しい世代の人であるべきです。

 向井豊昭


 同月のメールのやりとりはまだあるが、四月に入ってから向井氏の抱えていた病は急激に悪化したようで、太田出版版『怪道をゆく』のゲラを直してからは「ガクっときて、ほとんど寝たきり」であったという。その後もたびたびメールのやりとりは重ねていたが、いずれも内容は短いもので、それも家族の方が代筆をしていたようであった。会って激励したいとの思いも去来していたが、その時期、筆者は初の訳書を上梓するための仕事に追われており、最後まで向井氏と実地で会うことはできなかった。向井氏が亡くなったとの報を耳にしたのは、最後にメールをもらってから一月ほど後のことである。
 筆者は結局、亡くなるまで向井氏と会うことはできなかったが、ただご遺族と池田雄一氏の厚意によって、亡くなった後、向井氏のご遺体に対面することはできた。加えて、向井氏の所蔵していたアイヌ関係の資料の大部をお譲りいただくこともできた。自分が「3号文学界を作り直す、新しい世代の人」にふさわしいとはまったく思えないが、いずれ、この書籍を活用して何かしらものを書いてみることで、ささやかながらご恩返しをしたいと考えている。
 なお、向井氏は経済的な事情のためか、手元の書籍をなるべく古書店へ売却するようにしていたらしいが、彼が最後まで手元に残していた文学関係の書物は、平岡篤頼の『記号の霙』、可能涼介の『反論の熱帯雨林』、鳩沢佐美夫の『コタンに死す』、そして数冊のサミュエル・ベケットの著作であったことは書き添えておく価値があるかもしれない。

 かつて『BARABARA』の後書きで向井豊昭は「世紀末の今、思想という思想は倒れ、言葉をつむぐ作業は苦しい。が、それだけにやりがいがある、とわたしは思いきって言ってしまおう。」と書きつけた。向井氏が直面していた苦しさは、新世紀に入って軽減されるどころか、重圧をさらに増すばかりであるだろう。にもかかわらず、この現代において、向井作品ほどアクチュアルに読めるものも、また少ない。願わくば、一人でも多くの心ある読み手に、向井氏の想いが伝わることを願うばかりである。
 
 今回「幻視社」での向井豊昭特集でご紹介する事柄は以上となる。
 未発表作品の掲載を許可して下さった遺族の方々、そして原稿を貸与して下さった市川真人氏と「早稲田文学」編集部の方々に感謝したい。向井文学に理解を示し、特集のための紙幅を与えてくれた東條慎生氏、ならびに文字起こしに協力してくれた柿崎憲氏にも、この場を借りて謝意を示したいと思う。
 そして何より、読者のあなたに百万の感謝を。手にとっていただいて、ありがとうございました。
 なお、「幻視社」では今後も未発表の向井豊昭作品を紹介していきたいと考えている。今回紹介した二作の他にも、「40代バンバンザイアットホームカウンセリングコーポレーション」の第二部(三部作だが、第三部は未完成)や「なのだのアート」、童話風の「UFO小学校」など、紹介すべき作品には事欠かない。なにせ、「早稲田文学」から借り受けた向井氏の未発表作品は、段ボール一箱ぶんもあるのだ。かつて筆者は亡くなったはずの向井豊昭から新作が送られてきて驚いたものだが(生前に向井氏が預けた原稿が発刊されたのだ)、それと同じ驚きを読者の方々とも共有していきたい。
 ただ、同人雑誌の規模を超えて向井作品が紹介される機会に与ることができれば、それにこしたことがないとも考えている。興味をお持ちの出版関係者の方々がいらっしゃれば、奥付にある「幻視社」のメールアドレスへと遠慮なくご連絡をいただきたい。


 〈了〉

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