北の想像力 シンポジウム「辺境の想像力―現代文学における〈境界〉へのまなざし」

北の想像力

シンポジウム記念冊子より
メタフィクションの時代?

 倉数茂

 しばらく前に、授業でボルヘスの話をしていたとき、現在のサブカルチャーにもメタフィクション的傾向が多々見られるようだという話題になった。
 ある学生はすかさずコミックの主人公がその作品が連載されている雑誌を読んでいたという例を挙げた。また、『シュタインズゲート』といった具体的な作品名を挙げるものもいた。
 もっとも、ボルヘスやコルタサルらの厳密で求道的、いささか窮屈にすら感じられる「メタフィクション」の実験と比べると、現今日本のそれらははるかにゆるやかで曖昧なものである。実際には「方法」ですらなく、ある種のくすぐりやネタとして導入されていることも多いだろう。
 また、メタフィクションというよりはむしろ、江戸文芸の「世界」の復活ではないかと思われる部分もある。大ヒット作である『仮名手本忠臣蔵』の物語背景(「世界」)を再利用して、異なる物語『東海道四谷怪談』をつくりあげる。これが近世文芸の得意とする手法だった。今で言うシェアード・ワールドである。『仮名手本忠臣蔵』自体がもちろん現実におきた赤穂浪士事件のフィクション化だから、ここでは現実とフィクションは二重三重に入れ子になっている。現在のいわゆる二次創作、三次創作といったものは、こうした「世界」方式の復活であるといっていいだろう。
 そこで特徴的なのは、個々の作品がお互いを模倣しあうということ、作品と作品を隔てる輪郭線が溶け出し、いつのまにかつながりあっているということである。ボルヘス流のメタフィクションは、意識を累乗するというシュレーゲルの企ての後継者であり、どこにも参照点を持たず宙に浮いた作品というフローベールの夢の具現化でもあった。そこには純粋な自己言及だけに限定された閉じた作品こそが、逆説的に世界の全体を表象できるのだというモダニストの信念があった。一方、現在流通している作品群は、同時代の日常や社会的現実には興味を示さず、もっぱら他のメジャー作品を模倣(ミメーシス)することで成り立っている。そこでは、現実との関係はひどく稀薄なものでしかない。モダニズムの作品も、しばしば現実に向けてきっぱりした拒否のことばを放ったが、それは作品それ自体を強固に自律させるためだった。サブカルチャー作品はむしろ、周囲の作品たちをつねに夢見ている。
 それらの作品は、あたかもテクスチュアルな海のなかで生成消滅をくりかえしている原始的生命を連想させる。それらは短いサイクルで生成と増殖と消滅をくりかえす。一例を挙げれば、さきほどの『シュタインズゲート』は、ウィキペディアの記述で確認できるかぎりでは、オリジナルのゲーム、アニメ版のほかに、ゲームのスピン・オフ三種、マンガ二十種、小説十三種といった具合に単一の物語の変異体が数十種類存在している。すなわちウイルスや原始細胞にも似て、今も分裂と増殖をくりかえしているわけである。
 こうした「現実」を描写するのではなく、周囲の作品を模倣するようなコンテンツのありかたは、マンガ・アニメが先行してつくりあげたものだといっていい。批評家の福嶋亮太は、マンガではイメージは実体的対象に属するのではなく、「つねに他のイメージとの類比において存在する」と述べている(※1)。つまりマンガの「絵」は、もともと実体を表象する以上に他の作者の絵との差異と類似性を基準に製作されてきた。手塚治虫の昔から、マンガはリアリズムよりは記号論に親和性を持ってきたのだ。「そこでは、イメージとイメージのあいだに本質的な断絶は存在せず、あらゆる『視覚的なもの』は基本的に連続性の相の下で見られることになる」。だが今では、マンガ・アニメに限らず、文学をはじめあらゆる物語コンテンツにおいて「キャラクター」は多少とも「連続性の相の下に」受容され、消費されている(※2)。

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 では、このような「メタフィクション」(?)の一般化、作品の相互模倣という事態は何を示しているのだろうか。考察のために、あえて近代初期にまで遡ってみよう。
 物語はつねに、日常のこことは異なるどこか、非日常的な驚異に満ちた〈彼方〉を必要としてきた。ここを踏み出して〈彼方〉へ向かう、あるいは〈彼方〉から「まれびと」が訪れる、というのがもっとも基本的な物語の型だからである。それは太古の神話以来変わらない。
 しかし近代に生れた新興ジャンルとしての「小説」の優位は、この〈彼方〉を神話的な空想の裡にではなく、資本主義が日々見出し、把捉していくところの現実の「辺境」に見出したところにあった。それによって夢物語ではなく、客観的な「現実」を描くことが可能になったからである。その象徴的な作品が最初の近代小説ともされるデフォーの『ロビンソン・クルーソー』と、そのパロディでもある『ガリヴァー旅行記』である。前者を読めば明らかなことだが、ロビンソンは砂糖や奴隷(!)といった「植民地物産」を扱う冒険商人であり、同時に勤勉と合理思考という「資本主義のエートス」(ウェーバー)の体現者である。しばしば指摘されるように、ロビンソンはたゆまぬ努力によって無人島を豊かな農園へ改造する独立自営農民=アントンプレナーの理念型である。そこには、対外的には海での覇権を握り、国内的にはジェントリ(地主階級)が産業資本家になることによって産業革命を準備しつつあった新興資本主義国家イギリスの矜持が反映されているだろう。
 同様に、バルザックからゾラへといたるフランスリアリズムは、資本主義が生み出す社会内部の階級差にこそ「辺境」を見出した。資本主義は社会を経済的・文化的に異なる複数のブロックへと分断する。ゆえにその境界を越えること、上昇と転落のドラマが物語を構成する。これはもちろん、十七世紀から十九世紀のあいだに、資本主義が遠隔地貿易に依拠する投機的段階から、産業資本段階に変化したことに対応している。階級差は衣服や仕草といった無数の文化的コードとして現れるから、バルザックらの細密描写が社会を描くための有効な武器になる。
 このように「市民社会の叙事詩」(ヘーゲル)としての小説はつねに、時と場所に応じて資本主義が発見した「辺境」を物語上のエンジンとしてきたのだった。英仏と比べるとドイツで小説の発達が遅れたのも(『若きウェルテルの悩み』などはいま読むと、小説以前の何か、といった感を与える)端的に資本主義が未発達だったからだろう。
 では、『ロビンソン・クルーソー』と並んでしばしば小説の起源とされ、かつデフォーに一世紀先駆けてもいる『ドン・キホーテ』の場合はどうだろうか。おそらく一六世紀スペインの国情を反映して、『ドン・キホーテ』に明快に資本主義的なるものの痕跡は見受けられない(ハプスブルグ朝スペインが新大陸から流入する膨大な富にかかわらず、資本家階級を育てられなかったことはよく知られている)。しかし〈彼方〉と「現実」という二項は誰の眼にもつくかたちで存在している。すなわち〈彼方〉はアロンソ・キハーノなる郷士が憑かれる騎士道物語として、そして「現実」はドン・キホーテが繰り広げる無残で滑稽な騒動として、である。つまりここでは、〈彼方〉と今ここが、『ロビンソン・クルーソー』型の物語のように空間上にではなく、内的空想と客観的現実の落差として配分されるのである。じじつ『ドン・キホーテ』に見られるのは、スペインの庶民階層の日常に向けられた生き生きとした関心であって、そこではドン・キホーテの空想は愚かな「狂気」として否定的にとらえられている。一般にはこの空想的なロマンスを退け、日常にこそリアルを見出す態度がこの作品をして近代小説の鼻祖たらしめているのだと言われる(同じことがフローベールに関しても指摘される)。しかし、ロマンチックな空想は現実から放擲されて脳髄に閉じ込められることで、むしろキハーノ=ドン・キホーテにある種の崇高なアウラ、あるいは複雑な内面性を与える(同じことが『ボヴァリー夫人』にもいえるはずである)。つまり、人間はある意味で〈彼方〉を体現する無限の深みを持った存在として認識されるのである。(※3)
 ところで、経済アナリストの水野和夫は、中心(経済先進地域)が周縁(植民地、第三世界など)との格差を利用して資本を増殖させるシステムとして発展してきた資本主義は、近年巨大な構造変化を迎えたと主張している(※4)。二十世紀末、新興国の勃興によって辺境を失い、もはや高い利潤率を維持できなくなった先進諸国は、アメリカを筆頭に電子・金融空間へと資本を振り向けた。つまり空間的な差異からではなく、ヴァーチャルな差異から利益を得るように転換したわけである。例えば先物取引では、ある商品の将来における値上がりないし値下がりを見越して売買が行われ、利益あるいは損益が発生する。それは現実社会における需給からは乖離し、商品それ自身のそれ自身における差異、すなわちメタ的差異への投機である。現在の電子空間では、あらゆる商品・できごとが金融証券化され、ハイスペックCPUによって最速一億分の一秒のスピードで投資が行われているのだという。その結果、実体経済で流通している貨幣量を遥かに凌駕するマネーが、グローバルに世界を駆け巡るようになった。しかしその結果、資本主義は、実体とは無関係にレバレッジをかけて資本を増殖させる行為、すなわちバブルから逃れられなくなった。
 もっとも水野が言うところの、うちつづくバブルの崩壊によって資本主義が終焉するだろうといういささか壮大すぎる主張は、もはや本稿の関心の範囲を超えている。ここで水野の論述をとりあげたのは、サブカルチャーにおけるメタフィクション的傾向が、資本のヴァーチャル化と平行した現象ではないかという発想を誘発するからにほかならない。そこで問題になっているのは、いずれも「現実」(実体経済上の物資のやりとり)から解放されたマネー=イメージの自己増殖である。その目的は資本の担い手としての企業(グローバルなメガバンクであれ相対的に矮小な出版社・制作会社であれ)の存続と延命である。


 もっとも、一方にバブルであるサブカルチャーの物語があり、他方に現実に依拠した非サブカルチャー(ハイカルチャー?)的「文学」があるといった区別は、明らかに欺瞞的である。現実こそがすでに幾ばくかヴァーチャルであるというべきなのだ。むしろメタフィクショナルな仕掛けなしでは、「現実」を捉えることが困難な時代なのではないか、と考えてみるべきだろう。しかしその意味を明らかにするためにも、「現実」ということばそのものを一度吟味する必要がある。
 哲学者の永井均は、現実と「現実」の差異を問題にしている(※5)。
 「今」で説明しよう。今、キーボードをたたいている私にとって、「今」とは二〇一四年五月一七日の午後一一時過ぎ以外ではありえないが、後日、この文章を読む読者にとって、その「今」は過去の一時点である。にもかかわらず、読者は「今、キーボードを叩いている私にとって……」という文章の意味を問題なく了解する。そのとき「今」は、具体的な「二〇一四年五月……」ではなくなって、「論文執筆時のその時点」の意味になっている。前者は時間軸上の具体的な一点を指すのに対し、後者は特定の日時を示さない再帰的指示語になっているわけである。同様に、現実はあらゆる人にとってただひとつ、「自分が生きているこの世界」の意味であるのにもかかわらず、ドラマや映画のなかで登場人物が「もうこんな現実いやだ」といったせりふを言ったとき、人はすぐにその意味を理解する。つまりそのとき「現実」は「フィクションとしてのその世界」を意味する。
 「今」や「現実」が、二つの意味(使用法)を持ってしまうということ、永井はこれを言語というものの効果だとみなしている。言語がシステムとして、時制、人称、様相を持つ以上、言語の内部で生きるわれわれは、「今」、「私」、「現実」などの意味が複数化するのを認めざるを得ない。「現実」について言えば、それは現実の「現実」とフィクション(可能性)における「現実」に分岐する。しかしそれこそが、われわれがフィクションを生み出し、享受することのできる根拠なのだ。ことばがなければそもそも虚構と現実といった区別が成立しないのである。虚構、ないし可能性は現実を「現実」と名指す(対象化し、カギカッコに入れる)言語の能力から生れる。
 メタフィクションとは、現実のカッコ入れという操作をフィクションの「現実」において再度行う作品の名称である。そのため必然的に「私」や「今」も宙吊りにされるといっていいだろう。もっとも複数の「現実」や、複数の「私」があるといった主張は現在ではありふれている(平野啓一郎の「分人主義」など)。それらは結局LINEやSNSのような「対人関係」の延長でしか「社会」の像を描けなくなった現状を追認しているに過ぎない。
 近代リアリズムは、われわれの生きる世界とフィクションとが相似の「現実」において合致すると信じる態度であった。現代ではその信憑性が揺らいでいる。それはなぜか? そして、そのときクリエーターにはどのような態度が可能か?
 筆者にも明快な解答があるわけではない。しかし、今後の手がかりになるようにも感じられる二つの観点を記しておきたい。駆け足となるが諒とせられたい。
 第一は社会学的な観点である。まず文学が「現実」を描く、というとき、それはつねにある程度までは階級や戦争といった大文字の社会問題、あるいは少なくとも普遍的な社会関係を描くことを意味していた。しかし国民国家が包摂型から排除型へ移行するにしたがって、市民層が共有観念として単一の「社会」像を保持する必然性はますます減少している。そして、一部エリート層を除けば、自分の身近な生活圏や人間関係に関心を限定して、そこでの満足度を高めたほうが合理的ですらある(「マイルド・ヤンキー」戦略)。そこでは、社会全体をパノラミックに見渡す視点は必要とされない。
 第二は存在論的な観点である。美術家・批評家の古谷利裕は、『シュタインズゲート』および『輪るピングドラム』という同時に放映されていた二つのアニメ――いずれもメタフィクショナルな構造を持つ――をとりあげて、それらが「ヴァーチャリティ(潜在性)」という哲学的な概念を、リアルな感覚として表現できていたのではないかと述べている。筆者もまた、メタフィクションの可能性は、複数のフィクションをありえたかもしれない「現実」として、ひいては現実そのものを無数の可能性の重ね合わせとして提示できることではないかと思う。それはおそらく、「現実を描く」ということばの意味をかえることではあっても、現実から遊離することではないはずである。


1「漫画の新しい体質」『ユリイカ 特集マンガ批評の新展開』青土社、二〇〇八年六月号
2 大塚英志は、マンガ・アニメ以上にアメリカ由来のTRPGの影響を重視し、それがむしろ物語を自動生成する機械=インフラであったことを強調している。そして個々の物語は生成システムという環境へ「最適化」するために、複雑性を失っていくと指摘している。(「企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ」)http://sai-zen-sen.jp/editors/blog/sekaizatsuwa/otsuka-%20essay.html
3 ちなみに、現今の「ラノベ」ないしそれに隣接したジャンルでは、たとえば魔法学校の新入生といった「空想的」な設定が「日常」として提示される。すなわちここでは、『ドン・キホーテ』が裏返しになっており、内面が破棄されることで、ロマンスが回復されている。大塚英志の指摘(注2)を敷衍するなら、設定の部分は実はシステムの産出物であり、その設定内部を規則どおり動くために、キャラクターは単純化されると考えられる。
4  『資本主義の終焉と歴史の危機』、集英社新書、二〇一四年
5「現実性について」『哲学の密かな闘い』所収、ぷねうま舎、二〇一三年

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《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅