北の想像力 シンポジウム「辺境の想像力―現代文学における〈境界〉へのまなざし」

北の想像力

シンポジウム記念冊子より
凍りつくカラス

東條慎生    

 『北の想像力』で私が書いたのは第三回芥川賞受賞作「コシャマイン記」を書いた鶴田知也という作家のことだった。彼は「文芸戦線」という大正から昭和にかけて発刊されていたプロレタリア文学雑誌からデビューした作家で、九州出身の彼が北海道で北国の自然とアイヌ民族というものを目の当たりにしたことが、以後の彼の人生を変え、アイヌを題材に北海道を舞台にした「コシャマイン記」に結実する。
 日本が近代にはいって獲得した新しい土地だった北海道は、日本と異国との境界、日本人とアイヌとの境界が重なり合う場所だった。アイヌ蜂起の挫折を描いた鶴田知也の「コシャマイン記」は、この近代以前の境界の衝突を舞台にする。鶴田自身は当時、満洲事変以降の「満洲侵略時代」に対する抵抗として、民族蔑視の空気を撃つために書いたと述べている。検閲を考慮して、その意図のままには書かず、過去のアイヌを題材とすることでチェックを逃れることができた、と鶴田は言う。いずれにしても、北海道、満洲、と近代日本が自身の境界を拡げていく趨勢に対応して書かれた作品だ。
 この帝国主義的拡大方針と表現言論の検閲という事態は表裏一体のもので、鶴田知也をはじめとした大正末年から昭和初期のプロレタリア文学の作家たちは、関東大震災に乗じた大杉栄らの虐殺や亀戸事件、小林多喜二の小説にもなった昭和三年の大弾圧、三・一五事件といった権力によるさまざまな弾圧にさらされていた。労働、貧困、階級、権力、戦争といったテーマは、当然のごとく国家権力との敵対を呼び、彼等はつねに伏字や発禁の危惧のなかで書くほかなかった。そしてプロレタリア文学運動は満洲事変から日中戦争へと進展する戦時下、小林多喜二の虐殺などを経て、運動としては解体を余儀なくされる。
 石和義之さんが「非常時」ということを言い、それをごく普通の意味で受けとるならば、プロレタリア文学とはつねに非常時の文学としてあったといえる。今読めるプロレタリア文学の作品にも、この非常時の痕跡が伏字として刻まれている。
 鶴田知也と同じ「文芸戦線」に書いていた黒島伝治という作家がいる。四国小豆島出身の彼は、早稲田在学中に徴兵されてシベリア出兵に衛生兵として同行するものの、肺を病んで兵役免除となったのち、郷里で小説の執筆を始めた。南方出身者が北を体験して作品を書いた点で、黒島は鶴田とも似た所がある。
 黒島はデビュー作「電報」(一九二五年)や「二銭銅貨」(一九二六年)「豚群」(一九二六年)といった貧困の農村を書いたものの他に、シベリア体験に題材を得た反戦文学で知られている。岩波文庫『渦巻ける烏の群 他三篇』にも収録されている「渦巻ける烏の群」(一九二七年)と「橇」(一九二七年)が特に有名だろう。
 いずれも、尖兵として前線でロシア人と戦わざるを得ない状況がもたらす様々な不条理や苦難を露呈させ、抵抗しようとする姿が刻まれている。「橇」には、ロシア人から橇や物資を徴発させられ、それが将校達のために喰われ使われる不条理に憤る姿が描かれ、日本兵がついには「俺等がやめりゃ、やまるんだ」といって上官に反抗する。橇をひくロシア人の目からその騒動を描写し、「不軍紀」だとして反抗した兵士達が皆殺しにされる有様を、「日本人って奴は、まるで狂犬だ。馬鹿な奴だ!」と語らせる。
 日本兵士とロシア人との視点を交互に転換するこの作品は、シベリアという戦線、境界の衝突を批判的に見据えている。
 「渦巻ける烏の群」もシベリアものの一作で、冒頭はロシア人の飢えた子供達に兵士が残飯を与える場面から始まっている。そして兵士達とロシア人女性との恋情にからんだ交流が描かれる。前線の日本人とロシア人女性との敵対ではない交流を描こうとしているのかと思いきや、その女性に好意を持つ上官が、部下と彼女が楽しく会話する様子を目撃してしまい、嫉妬にかられて逆上してしまう。
 上官はその部下たちの中隊を、逆恨みから無理な行軍を強いた挙げ句、雪中に行方不明にさせてしまう。そして見つからぬまま春が来る。

 翌日中隊は、早朝から、烏が渦巻いている空の下へ出かけて行った。烏は、既に、浅ましくも、雪の上に群がって、貪慾な嘴で、そこをかきさがしつついていた。
 兵士たちが行くと、烏は、かあかあ鳴き叫び、雲のように空へまい上った。
 そこには、半ばむさぼり啄かれた兵士たちの屍が散りぢりに横たわっていた。顔面はさんざんに傷われて見るかげもなくなっていた。

 一上官の私憤で一個中隊をまるまる死なせてしまう軍隊組織の愚かさ、わざわざ外国まで送られて無残に殺される兵士の不条理を、不穏な烏の描写に映し込む陰惨な場面だ。黒島伝治は一九四三年没なので、TPPで著作権が著者の死後七十年までと変えられても青空文庫で作品が読める。日本ペンクラブのウェブサイトで公開されている「コシャマイン記」の末尾と読みくらべてもらいたい。
 さて、ここでまた別の烏を見てみよう。

そしてぼくが森にさしかかった時、何千もの山烏がそれぞれの木のまわりの地面に、まるで熟し過ぎたボスニアのプラムのようにころがっているのが見えた……森全体が死体に満ちて、枝に止っている鳥たちも、その鳥たちも死んでいた、眠りながら凍死していた。ぼくはその時一本の木の幹をかかとで蹴とばしてやった、すると大枝からも小枝からも白い霜と死んだ鳥がぱらぱらと落ちてきて、何羽かはぼくの肩をかすめた、だがとても軽かったので、まるでベレー帽が落ちてきたような感じだった。

 これはチェコの作家ボフミル・フラバルの一九六五年発表作、『厳重に監視された列車』の一場面だ。社会主義時代の東欧では作品発表は思うようにはいかず、亡命したり、外国から出版する場合や、引き出しにしまい込まざるを得ないものも多かった。フラバルもそのような引き出しで書く作家で、作品の多くは発表と書かれた時期は異なる。フラバルは体制に妥協することである程度自由作品を発表することが出来るようになったけれども、その妥協には批判も多く投げかけられたという。社会主義圏の作家たちもまた、検閲にさらされ、ソ連の衛星国として東西諸国の狭間に投げ込まれていた。
 『〜列車』は、ナチス支配下のチェコスロヴァキアで、鉄道駅の操車員として働く若者が、ナチスの「厳戒輸送列車」へのレジスタンス活動に進む様子を描いている。ユーモラスな場面と陰惨な場面とが混在しているのがフラバルの特徴で、今作もコミカルなように思わせて、話は次第にナチス支配下のチェコスロヴァキアでの、チェコ人とドイツ人とのどうしようもない対立が露わになってくる。
 語り手は、ドレスデン爆撃から逃げてきたドイツ人を見て、こう語る。

そしてぼくはこの連中をもう憐れとは思わなかった、子山羊がのどを切りさかれるたびに、そして不幸な目にあっているすべてのものに涙を流したこのぼくが、もはやこのドイツ人たちには憐れみを感じなかった。

そして列車長はドイツ人たちにこう宣告する。

あんたらは自分の家にじっと尻を据えてなきゃいけなかったのにゾルテン・ズィー・アム・アルシュ・ツウ・ハウゼ・ジゥツェン

 チェコ人から発されるドイツ語のこの言葉は、民族同士の敵対を鋭くえぐり出す。また同時に、これはシベリアへ出兵した日本兵にもそのまま当てはまる。黒島伝治が書いたその向こう側から、この言葉は発されている。凍った烏の描写は、今作で民族同士の断絶がもたらす結末を予示する描写となっており、側溝に転がる動物の死体の描写ともども、陰惨な結末への伏線でもある。なお、日本をはじめとする国々は、チェコスロヴァキア軍団の救出を口実に、革命ロシアに干渉するためシベリアへ出兵した。
 この作品では悲劇的な結末を迎えるほかなかったけれども、フラバルの『わたしは英国王に給仕した』では、同じ時代をも含む、もっと大きなタイムスパンで主人公の人生を描き、チェコ人とドイツ人との間に引き裂かれながらも、その狭間に立ち、両者の断絶を断絶のままにはしない、という強い意志を漲らせた作品となっている。
 戦時下の境界には常に交流と断絶とがせめぎ合う。どちらの側に引き寄せることが出来るのか、そこに想像力がかかわる、とはとりあえず言えるだろうか。

戻る

《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅