北の想像力 シンポジウム「辺境の想像力―現代文学における〈境界〉へのまなざし」

北の想像力

シンポジウム記念冊子より
基調講演

石和義之

 このシンポジウムの発端となっている書物『北の想像力』で、北海道出身の詩人、吉田一穂について書いている石和義之といいます。どうぞよろしくお願いします。僕自身は北海道出身というわけではありませんし、吉田一穂についても北海道出身だからというわけではなくて、吉田の言葉の硬質な美しさに魅了されて、今回の企画の中で彼のことを取り上げたのです。いま、「硬質な美しさ」という言葉を使いましたけれど、「硬質な美しさ」という性質の中に、「北方的な精神」の特徴があらわれているように思います。そしてまた無意識という自然の中における反自然的な性格というものを「北方的な精神」は象徴しているようにも思います。そのへんのところを手掛かりとして、「北方的なるもの」を僕なりに解釈していこうと考えております。
 では、まず、吉田の作品世界の特徴を知っていただくために、吉田の代表作とされています「白鳥」という作品の最初の二連(六行ほどですが)を朗読させていただきます。

掌(て)に消える北斗の印。
けれども開かねばならない、この内部の花は。
うしろで砂時計がもれる。

ランプをつける、ついにはおのれへ帰るしかない孤独に。
野鴨が渡る。
みなかみは未だ凍っていた。

今読んだ言葉の印象からも感じ取れますように、吉田の詩は、密度の高い硬質な文体に支えられていまして、日常的な生活や風景からは遠く離れた、極度に抽象的といいますか、メタフィジカルな感触のある世界なんですね。端的に言って、文学的なんです。それこそ古典的なくらい文学的といってもいい。いま現在平成二十六年の言葉の環境においてみますと、かなり浮き上がってしまっている言葉のかたちなのではないでしょうか。
 ところで評論家の吉本隆明は、彼の文学理論である『言語にとって美とはなにか』の中で、文学の言葉を「文学体」と「話体」の二種類に分類して考察したことがあります。大雑把にいって、「文学体」というのは書き言葉っぽく、「話体」というのは話し言葉っぽい、というふうにイメージしていただいて構わないのですが、もう少し吉本の言語論に即してみていきますと、「文学のような書き言葉は自己表出につかえるようにすすみ、話し言葉は指示表出につかえるようにすすむ」というふうに吉本自身は説明しています。ここで登場しました「自己表出」や「指示表出」という概念に馴染みのない方も多いのではないかと思われます。
 「指示表出」というのは、自分以外の他人に「意味」を伝達する、例えば「花」とか「物」とか、何かを指すことが一番大事な言葉であるという感覚と強く結びついている、そのような言葉の機能のことを指しています。文法からいえば、「名詞」というのが指示表出が一番強いということになります。それに対して、「自己表出」というのは、文法的には、「ああ」のような「感動詞」のようなものに近く、他人に伝えようとしたり、伝わることを願ったりすることは二の次で、自己が自己にもらしたことが一番強いことになります。「指示表出」が意味の次元に属するとすれば、「自己表出」は「強度」の次元に属すると、規定できるかもしれません。いいかえれば、「自己表出」というのは、事件との遭遇を通して、見出された意味の萌芽のようなものと理解できるのではないでしょうか。吉本自身は、「自己表出」の原風景を『言語にとって美とはなにか』の中で次のように描いています。

たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷い出て、ひろびろと青い海を見たとする。人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときある叫びを〈う〉なら〈う〉と発するはずだ。また、さわりの段階にあるとすれば、海が視覚に映ったとき意識はあるさわりをおぼえ〈う〉なら〈う〉という有節音を発するだろう。このとき〈う〉という有節音は海を器官が視覚的に反映したことにたいする反映的な指示音声だが、この指示音声の中に意識のさわりがこめられることになる

 ここで描かれているのは、未知の風景と出会った人間が、それまで彼のことを規定していた古い認識の枠組みを、否応なく、新しい枠組みへと変更を迫られる、そんな事件の現場と呼ばれるようなものなのではないでしょうか。自分のことを温かく包み込んでくれていた安息の場所が奪い取られ、凍てつくような冷気にじかに晒される、そんな過酷な体験とも言えます。それは、空間的に見れば、北のような最果ての辺境へと追放される体験でしょうし、時間的に見れば、平時の均衡が破られ、非常時が出来する、緊急事態とも言えます。「北」あるいは「冬」というのは、そのような禍々しい場所や時間に素肌を接してしまう特殊な経験を意味するかのようです。文学の言葉というものは、本来、特殊な経験を担うものではないかとも思われます。
 明治以降の日本の近代文学というものも、特殊な経験、例えば、風景の変容やそれに付随して登場する内面の発見,あるいは近代的自我の成立として、新しい言葉を産み出しました。それは、端的に言って、「言文一致」と一般に言われているものです。ところで、「言文一致」というと、話し言葉を素直に文章化したものと、イメージされがちですが、実際のところは、明治時代の未曾有の混乱期における血腥い崩壊と創造を通して、確立された新しい認識の制度とみなしたほうがよいか、と思われます。言文一致というのは、文章の問題というよりは、文化システムのことなのだと、とらえられるべきでしょう。

 夏目漱石論を書いた江藤淳も、言文一致が確立する明治二十年前後を検討するにあたって、正岡子規と高浜虚子の文学観を参照しつつ、次のように述べています。

それは認識の努力であり、崩壊の後に出現した名づけようのない新しいものに、あえて名前を与えようとする試みである。いいかえればそれは、人間の感受性、あるいは言葉と、ものとの間に、新しい生きた関係を成立させようとする「渇望」の表現でもある。(「リアリズムの源流」)

 ここでは文学が、あるいは文化そのものが発生する原風景が正確にとらえられています。「崩壊の後に出現した名づけようのない新しいもの」と遭遇した人間が、それにふさわしい言葉を見いだそうとする渇望や衝動を生きざるを得ない事件性そのものが、文学の基盤となるものでしょう。江藤は、「人間の感受性、あるいは言葉と、ものとの間に、新しい生きた関係を成立させようとする」という表現を用いていますが、柄谷行人も、人間の認識システムが更新されるためには、「知覚の様態が変わらなければならない」ということを、『日本近代文学の起源』という本の中で、くり返し強調しています。柄谷は明治二〇年代に日本文学に起ったことを、精神分析学者のフロイトを参照しつつ、説明しようとしています。
 フロイトは、人間の内面というものを、初めからアプリオリなものとして存在するのではなく、ある種の崩壊のあとに出現した派生物としてみる視点をとっています。フロイトの考えでは、それまで内部も外部もなく、外界が内部の投射であった状態において、トラウマをこうむりリビドーが内向化した時、内面が内面として、外界が外界として存在し始める、というのです。この「トラウマ」の体験を、を非常時の体験と呼んでも差支えないでしょう。言葉の原風景というか、自己表出の発生現場には、非常時としての北方性が刻印されているかのようです。フロイトは、さらに次のようにつけ加えています。「抽象的言語がつくりあげられてはじめて、言語表象の感覚的残滓は、内的事象と結びつくことになり、それによって、内的事象がそのものが、しだいに知覚されるようになったのである」ここでも、人間の内面が歴史的な派生物であり、転倒した時間性とともに発生したものであることが確認されています。このようなフロイトの考えを受けて、柄谷は、フロイトが内面を内面として存在せしめる「抽象的言語」を、日本近代文学の文脈においては、「言文一致」なのだと主張するのです。つまり、言文一致というのは、言を文に一致させることでもなければ、文に言を一致させることでもなく、新たな言葉や文章を創出することだというのです。そのような観点から見るならば、日本の近代文学は「崩壊の後に出現した名づけようのない新しいもの」と遭遇した北方系の文学者によって担われたと言えるでしょう。
 ところで「崩壊」という言葉を強調して繰り返してきましたが、では一体なにが崩壊したというのでしょうか?それは「ふるさと」のようなもの、あるいは「母」のようなものと言えるでしょう。吉田一穂のよく知られた作品に、文字通り、「母」というタイトルの作品があります。それは次のような作品です。

ああ麗しい距離(デスタンス)、
つねに遠のいてゆく風景・・・・・

悲しみの彼方、母への、
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。

 いかにも吉田らしく、母の喪失の哀しみを、抑制のきいた語り口で抒情的に歌っている作品だと思います。吉田という人は「母」との別れから書き始めている人なんですね。江藤淳のような人もその典型で、幼くして母を失ったことが彼の文学や世界感受の傾向を決定づけています。江藤の『成熟と喪失』という本のサブタイトルは、「母の崩壊」となっています。「母」の喪失の問題は、あとで再び取り上げることとして、ここでは「ふるさと」の崩壊の問題を、坂口安吾という作家を手掛かりにして考えてみたいと思います。
 安吾には、文字通り、「文学のふるさと」という有名なエッセイがあります。大雑把に言いますと、童話の「赤ずきん」や「青髭」、あるいは古典の『伊勢物語』を取り上げながら、これらの物語に共通する「救いのなさ」に、安吾は文学や人間の根本条件を見いだすのです。温かく心地の良いふるさとが崩壊した後に見出される風景に、安吾という作家は強く惹きつけられるという特徴を持っていて、そのようなむごたらしく救いのない場所をこそ、安吾は「ふるさと」と呼ぶのです。「私は文学のふるさと、あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私はそうも思います」と安吾は言っています。そして注目すべきことは、安吾が彼独自のふるさとを語る時に、「宝石の冷たさのようなもの」とか「氷を抱きしめたような、切ない悲しさ、美しさ」という比喩を用いて表現していることです。安吾的なふるさとというのは、北方的な世界のことなんですね。
 実際、安吾という作家は、非常時において、思考し書いた作家です。先ほど、一種の空白の時期である明治二十年前後に言文一致が確立された、と述べましたが、それに先立つ明治十年代を中村光夫という批評家は、「疾風怒濤の時代」と呼んでいます。無頼派と呼ばれた坂口安吾は、戦中や終戦直後の激動の時期、いうなれば非常時において活躍した作家でした。戦後に確立されてしまった安定した構造といったものが無いところで、言葉を紡いでいたのです。「ふるさとが無いことがふるさとだ」という安吾の発言も、そのような状況から発せられていますし、それゆえ我々を刺激する力に満ちているのです。安吾のような非常時の作家が好きな柄谷行人は、こんなことを述べています。「安吾のような人は、基本的にそういう激動期の人間です。戦後、武田泰淳なんかもそうだけど、一九五〇年代の安定期に入ってくると、このタイプの人たちはやっていけないんです。安吾はヒロポンで頑張ったという感じでして、おそらく構造的な時代には生きていけなかっただろうと思います。戦後文学者も頑張りはしたものの――たとえば武田泰淳は安吾とわりと似ている人ですが――やっぱり安定期の時代に合ってないですね」
このことは小説の世界だけではなく、現代詩の世界についてもあてはまります。日本の詩の歴史に於いて、終戦直後、鮎川信夫や田村隆一を中心メンバーとする「荒地派」というグループが登場しました。「荒地」という言葉に象徴されるように、この人たちは、安定した構造を拒んで、独自の言葉の世界を紡ぎあげてゆき、当時の詩の読者に大きな衝撃を与えました。ところが彼らもまた、一九五〇年の朝鮮戦争後の特需生産をテコ入れとして日本の資本主義が相対的安定期に入ると、緊張感を失うようになるのです。後発メンバーとして、荒地派に加わった吉本隆明は、そのような状況に対して警告を発しました。「この戦後資本主義の相対安定性は、とうぜん、いままで極限状況を描写するところで、そこに内部的な体験をたくしてきた鮎川をはじめ、「荒地」の主導的な詩人たちにも影響を与え、詩意識のゆるみとなってあらわれた」そしてさらに吉本は、この時期の文学者の困難を次のようにも表明するのです。「戦後革命勢力のささえをうしない、その誤謬をまのあたりにみせつけられ、そのうえ、再建された戦後の日本資本主義の安定感にひたされて、なお正当な現実把握をもちこたえるためには、孤立にたえる至難の洞察力と、それを持続させる意志がいる」
 坂口安吾は一九五〇年に亡くなるのですが、この一九五〇年という年――より正確には昭和三十年代という時代は、日本文学にとって、ひとつの節目に当たると言っていいでしょう。それは比喩的に言うと、「北」が消滅し、それに代わって「南」が浮上してくる、といった現象です。ここでいう「北」は「メタフィジカルなもの」を指し、「南」は「自然」という意味で使われている、と理解してくださって結構です。
 江藤淳が『成熟と喪失』を書き始めるのは昭和四十一年のことなのですが、この評論が書かれた根本的な理由は、昭和三十年代に日本文学がある大きな変質をこうむったということによるものです。その大きな変質とは、具体的に言うと、「第一次戦後派」から「第三の新人」への移行ということになります。第三の新人が文壇に登場するのは昭和二十八年から三十年にかけてのことです。江藤はこの交代劇を、次のような比喩を使って語っています。「いわゆる「第三の新人」の諸作家が、もっぱらこの中学生的な感受性を武器にして文壇的出発をとげたのは特筆すべきことと思われる。つまりそれは「子供」でありつづけることに決めた「大人」の世界であり、どこかに母親との結びつきをかくしている。ある意味では「第一次戦後派」から「第三の新人」への移行は、左翼大学生から不良中学生への移行だといえるかも知れない。もちろんこの左翼大学生である「第一次戦後派」は「父」との関係で自己を規定し、不良中学生たる「第三の新人」は「母」への密着に頼って書いたのである」江藤は左翼大学生と不良中学生を対立させて語っていますが、この対立は理性と知性を支えにして自立する個人と、情動や気分を後ろ盾にして群れる大衆の対立に置き換えることができるかもしれません。言いかえれば、意識から無意識への交代劇が起ったということです。この意識から無意識への移行の問題は、この講演の後半で再び取り上げたいと思います。
 安定した構造を背景に経済発展をとげてゆく日本社会のなかで、日本の文化や日本人の共通感覚は確実に変質したのであり、それは「メタフィジカルなもの」いいかえれば「理念的なもの」が価値下落を起こし、代わって「母との密着」という言葉に示される「自然状態」や「自然体」といったものが社会の中で優位におかれる、そんな価値の転倒だったでしょう。ですから、北方的精神というものは、母と子との肉感的な結合に支えられた自然状態という制度――これはあまりに日本的な制度であり、権力とも言えますが――そうした腐食作用を持つ制度への抵抗の試みだというふうに呼べるかもしれません。しらじらとした明るさが闇を飲みつくすまでに広がった一九七一年に、柄谷行人は「自然的なあまりに自然的な・・・・」というエッセイを書いて、夏目漱石や三島由紀夫を引き合いに出しながら、結局のところ私たちの精神や文学の言葉は、自然過程に敗北したのではないか、と不快感を表明したことがあります。だいたい同じころ――正確には一九六九年に――田村隆一は「「北」についてのノート」という作品の中に、「世界を、さらにもう一度、凍結せしめねばならぬ」と書きました。いま思えば、これは最後の断末魔の叫びのようでもあります。
一九七五年には、荒川洋治が「口語の時代はさむい」(「見附のみどりに」)と書いて、いよいよ文学の言葉は、自然過程に飲み込まれていきます。荒川は、デビュー作(『娼婦論』)では「雅語心中」という作品も書いていて、吉本隆明の言う「文学体」の極みのような作品も書いていたのですが、一九七九年の『あたらしいぞわたしは』では、完全に口語の作品へと変貌するようになります。要するに文学体とは対極にある話体の作品を書くようになるのです。言いかえれば、「自己表出」から「指示表出」への転換がほぼ完了するのがこの時期になるのです。三浦雅士は、現代日本文学におけるこの転換を、一九七四年に発表された中上健次の「修験」という短編作品に象徴的に示されたという視点をとっています。「主体の変容または文学の現在」(一九八二年発表)という論考がそれです。
その論考において三浦は、「自己表出とは自己に対する意識の強さであり、指示表出とは外界に対する意識の広さである」というふうに規定しています。そして現代の作家は、六〇年代には自己表出の作品を書くことが可能だったが、七〇年代以降にはそれが不可能となり、指示表出へ向かった、と分析しています。具体的には大江健三郎が六〇年代半ばに『日常生活の冒険』で話体に転換し、六〇年代終わりには「木曜日に」などの作品で、狂気に軋むような文体で書いていた古井由吉は七〇年の『杳子』以降指示表出へと傾斜するとされます。また八〇年代に日本文学を担う当時の若手作家である村上春樹や高橋源一郎といった作家たちは、指示表出を用いて自己を描くのだ、と言われます。
このような自己表出から指示表出への転換を思想や学問の変遷と対応させてみますと、戦後の混乱期の実存主義から高度成長期の構造主義への移行、あるいは学問の文脈で言えば、ハイデガーやフッサールといったドイツ哲学からパーソンズ以降のアメリカの社会学へと重心が移動したことに対応しています。日本で「実存」という言葉がほぼ死語になるのは一九八〇年代初頭のことです。「実存」の代わりにこの頃登場するのは「キャラ」(キャラクターのキャラ)という言葉です。キャラという言葉はいかにも社会学用語らしいし、また指示表出的ともいえます。ちょうどこの頃、相原コージという漫画家が『コージ苑』という四コマ漫画を連載しているのですが、いろいろと魅力的なキャラクターがいる中で、かなりのインパクトを持つキャラクターに「実存くん」という登場人物がいました。実存に傾斜しがちな人間は「実存くん」としてしか社会的に認知されない時代がこのころに成立したのではないでしょうか。ちなみに芥川賞作家の阿部和重の小説というのは、個人的には「実存くん」の物語である、というふうに受け取っています。阿部には『ニッポニア・ニッポン』という作品があって、この作品は三島由紀夫の『金閣寺』と大江健三郎の「セブンティーン」を下敷きにして書かれています。『金閣寺』や「セブンティーン」であるなら、実存という言葉がしっくりと似合うのですが、『ニッポニア・ニッポン』はやっぱり実存くんです。主人公の名は「鴇谷春生」といいますが、名前からして実存くんです。
 実存くんが登場するのは八〇年代ですが、七〇年代までは実存主義風の姿勢、平たく言うと、真摯であることや求道者のようであることがかろうじて価値を認められていたと思われます。詩人の瀬尾育生は、七〇年代の日本の詩にはそのような価値がまだ生き残っていて、そのような戦後詩の状況を「『真摯の話法』『求道者の話法』は戦後詩というゲームの末尾をかざるきわめて重要なプレイヤーであった」というふうに説明しています。瀬尾によれば、そのゲームは石原吉郎という詩人の死をもって終了する、ということになります。石原吉郎というのは、第二次世界大戦中、兵士としてハルビンに勤務し、終戦後はラーゲリとしてシベリアに抑留され、八年間にも及ぶ異様ともいえる時間を体験した後、スターリン死去による恩赦で日本に戻ってきた特異な詩人です。ここにおられる倉数さんが『北の想像力』に載せられた原稿で言及されてますし、山城さんも石原についての優れた論考をお書きになられています。石原は一九七七年の十一月に亡くなるのですが、死の直前には「受け皿」という作品を発表しています。こんな作品です。

おとすな
膝は悲しみの受け皿ではない
そして地は その受け皿の
受け皿ではさらにない
それをしも悲しみと呼ぶなら
おれがいまもちこたえているのは
錐ともいえる垂直なかなしみだと
おそれずにただこたえるがいい

シベリア時代の特異な体験が反映されているような作品ですが、このような言葉が成立することが可能だったのは、ぎりぎりこの頃だったでしょう。翌年の一九七八年に吉本隆明は、有名な「修辞的な現在」という言葉を口にして、戦後の詩の言葉はかつては現実を引っ掻いているという感覚に支えられていたが、いまはその感覚は消滅し、詩の言葉はたんなる修辞(レトリック)として世界を浮遊しているにすぎないことを確認しました。文学の言葉は、この頃、変質に晒されていたと思います。詩の世界でも、先ほど言及した荒川洋治は、自分が戦後詩から引き継いだものは詩を書く技術だけだと挑発的な発言をして、詩というものを聖域化しようとする稲川方人のような人を批判しました。一方の稲川は、「詩の状況、現在がどうであれ、わたしたちが詩を書くことはわたしたちの孤立と固有を見いだすこと」なのだ、というふうに反論していました。そのようにして書かれる稲川や石原の作品を指して、瀬尾育生は、彼らの言葉の在り方を「求道者の話法」「真摯の話法」と呼ぶのです。瀬尾の言う「求道者の話法」「真摯の話法」という言葉は、自己表出という言葉に置き換えることもできるでしょう。先ほど八〇年代に小説家たちが自己表出を放棄し、指示表出に向かったことを確認いたしましたが、詩人たちも同様の困難に突き当たっていました。この困難に詩人たちがどう向き合ったかというと、瀬尾は、「求道者の話法」「真摯の話法」は「隔離の話法」と合金されることで、現在を生き延びることができるのだと診断を下しました。根源や真理や自己といったものを指し示そうとする自己表出の言葉は、「これは作品の言葉であり、虚構の言葉なのだ」と繰り返し暗示する「隔離の話法」によってかろうじてその強迫の固有性だけが凍結保存され運搬されるのだ、と。
 「修辞的な現在」という言葉を口にした吉本も同様に、保存のイメージで詩の現在を診断していました。たとえば次のような発言をしています。「詩は外部の新様式へとむかわずに内的な整序と成熟と変質に織り込まれている蓄積音を聴くことはできよう」というのです。吉本のこの言葉を受けて、評論家の樋口覚は、一九八一年に「現在、詩は室内で詩みずからがレコードに刻んできた蓄積音を何度でも聴くことしかできない。レコードが磨滅するまで」というふうに書きました。「すべてはもはやすでに書かれてしまっている」という無力感とシニシズムが状況を覆っていました。
 このような発言がなされていた一九八〇年代初頭と言えば、吉本隆明が『空虚としての主題』というタイトルを持つ同時代の作品に対する文芸時評を連載していたころです(この連載は八二年に単行本化されます)。八〇年代の日本の社会は良くも悪くも安定していて、言いかえれば「平時」のゆるやかさが社会の隅々にまで浸透しきっており、文学の言葉も同様に、たとえば、言葉遊びのようなものにふけることで、現在をうっちゃっているような状況でした。このような文学の言葉が文学の言葉として成立することがきわめて難しくなっている状況を、吉本は様式化されたイメージによって世界が覆い尽くされているような、あるいは矛盾と葛藤というものが感知されにくい大きな個室のようなものとして感受していたかのようです。吉本はこんなふうに語っていました。「現在の特徴はすでにあらかじめ、大規模でぶ厚いイメージの社会的様式を既得の層として存在させていることだ。映像や画像だけではなく、言語もまたこの社会的様式のなかでイメージの記号として位置づけられている」このような状況では、事件や非常時というものは、あらかじめその存在の可能性を禁じられています。記号というものが構造を揺るがす事件とともに運動するものだということなど誰一人として思ってもいなかったですし、かわりに記号は流通するためにあるものだというのが、当時の社会的コンセンサスだったといえます。じっさい西武百貨店に代表される流通業が花形扱いされていました。事件や非常時を抑圧する大がかりな文化現象が人々の間で疑われることなく、広く共有されていたのです。
こうした状況で何が見失われていったかは歴然としています。それはかつて荒地派の詩人たちが見た切断の光景と言えます。荒地派を代表する詩人田村隆一は、社会的に創出されたイメージの様式のぶ厚い層による囲いこみがほぼ完了した一九七六年に、若き日の自分の創作を振り返って、自分の詩の真の狙いは断絶と空白をつくり出すことだった、と回顧しています。田村の言う「断絶と空白をつくり出す」作品とは、たとえば次のような作品です。

ドイツの腐刻画でみた或る風景が いま彼の眼前にある それは黄昏から夜に入ってゆく古代都市の俯瞰図のようでもあり あるいは深夜から未明に導かれてゆく近代の懸崖を模した写実画のごとく思われた

この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父を殺した その秋 母親は美しく発狂した

 この作品では、前半部の第一連と後半部の第二連において場のつながりというものが断たれていますし、第二連においては、「私」と「彼」というふうに人称の次元をずらすことによって、語りの構造意識に意図的に断裂が導入されています。そして作品の最後の部分で描かれた「父殺し」と「母の発狂」によって、世界との決定的な断絶が強く印象づけられます。時代状況的に言えば、この断絶は、終戦直後の充実した混乱といったものでしょう。非常時というのは、じつは、得てして生産活動を支える一種の豊穣を孕んでいるものです。
田村と伴走するように活動した吉本隆明もまた、そのような断絶から創造のエネルギーを汲みあげていました。吉本の詩や批評における営みは、日本の社会の構造と詩の内的論理とを曖昧に融合させることではなく――それはファシズムへの敗北を意味するのですから――社会の構造と詩の論理との間の断層をくり返し再創造することを目指していました。この頃の吉本は、「論理」という言葉を頻繁に使います。「日本の言葉の論理化は、日本の社会の論理化なしには不可能である」(「蕪村詩のイデオロギイ」)と発言してみたり、詩作品でも「ぼくは ぼくの冷酷なこころに/論理をあたえた 論理は/ひとりでにうちからそとへ/とびたつものだ」(「ぼくが罪をわすれないうちに」)と書いていたりします。論理的であることや意識的であることが吉本の文学の営みの根幹を貫いているかのようです。
ところが一方では、吉本には、自然や無意識への肉感的な固着といった姿勢が顕著にみられるのです。たとえば、吉本は戦後、有名な左翼批判をするにあたって、戦時中に日本の左翼が敗北したのは権力の弾圧の前に屈したからではなく、そうではなくて同時代の大衆から遊離し孤立していたからだ、それが本当の敗北の理由なのだと主張しました。ここに八〇年代の『マス・イメージ論』の発端を見ることも可能ですが、吉本の内部には孤立への意志と孤立からの逃避という相反する志向がはっきりとした輪郭をもって存在しているようなのです。実際問題として、吉本は「論理」とか「主体」とか「意識」といった知識人的な言葉をふつうに口にする階層には属していません(彼は船大工の息子という下層庶民の出身です)。ここで問題を違う角度から見るために大衆状況と無意識の発見の話題に移りましょう。
 十九世紀と二十世紀を決定的に隔てる大きな要素の一つは、無意識の発見であったと、個人的には思います。フロイトの『夢判断』が出版されるのが一九〇〇年のことです。十九世紀という時代は、「良識的な意識を備えた市民」という人間のモデル像が、まだ機能していた時代です。ところが、このような理性と知性を持った市民という世界像がうまくいかなくなるのが二十世紀なのです。例えば、経済学を例にとりますと、十九世紀の新古典派と呼ばれる経済学者たちは、自らの足の上に立ち、理性と知性を持った個人を仮定し、そのような人々からなる社会を想定していました。ところが二十世紀のケインズのような経済学者は、こうした近代的な人間ではなく、大衆社会の人間関係の中で、経済の現実をとらえようと試みました。ケインズの有名な「美人投票の原理」など(ポピュリズムの経済学とでも呼べるものでしょう)はその代表的なものです。十九世紀前半ごろまでは想定することのできた自立した市民から成る規範に則った社会は崩壊し、大資本が世界を駆け巡るような、いうなればかたまりのように群れ化した人間のブロックが社会を衝き動かしていくような世界が顕在化したのが二十世紀なのです。この個人から群衆へという人間像の流れは、意識から無意識へという人間に対する認識の変化と対応しています。先ほど実存主義と実存くんというような話をしましたが、実存主義は最後のロマン派としばしば言われるように、実存主義者というのは十九世紀のヒーロー像というか、十九世紀的なロマン派のしっぽを引きずっていて、どうしたって大衆状況の中ではKY的な存在になってしまうのです。
 ケインズは貨幣を考察することにより、新しい世界観をつかみましたが、同様に二十世紀の新たなる大衆社会と向き合ったベンヤミンは、貨幣が金のコピーであるように、写真という複製技術を手掛かりにして、彼なりの世界観を構築しました。ケインズの代表作『雇用、利子および貨幣の一般理論』と、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』という論考が、ともに同じ年である一九三六年に発表されたのは、偶然ではなく、必然であったでしょう。ベンヤミンは、「写真小史」というエッセイの中で「カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然とは当然異なる。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって意識を織り込まれた空間の代わりに、無意識が織り込まれた空間が立ち現われるのである」と言っています。明らかにベンヤミンは、世界が無意識によって制覇されていることを感受しています。
写真という装置が銀板腐蝕によるダゲレオタイプから(このタイプは1枚しか写真ができないので「起源に真理がある」という物語が維持されることが可能です)、ネガ方式によるカロタイプへ(このタイプはいくらでもコピーを作ることができるので真理が消滅してしまいます)と移行する歴史の推移によって現代の説話論的磁場が決定的に変容し、そのことがフローベールに『紋切型辞典』を書かせたというのが、蓮実重彦の『物語批判序説』のあらましとなるのでしょうが、この書物の舞台となった一八五〇年代を境に世界は決定的に変わったようです。『全体主義の起源』を書いたハンナ・アレントは、十九世紀にそれまで存続していた階級社会が崩壊し、階級に所属できない人間が群衆となってあふれかえり、社会がアトム化していったことが、ファシズムを産み出す土壌になったのだと指摘しています。
 そしてまた、この時代は労働者人口が都市部で爆発的に増加し、大都市が各地で出現するようになります。イギリスでは十九世紀の前半、フランスでは十九世紀の後半、ドイツでは十九世紀半ばから二十世紀はじめにかけて、大都市の人口の飛躍的な増加が生じます。こうした社会的変動に対応するようにして、「社会学」という新しい学問が確立されてゆくようになります。デュルケームやジンメルといった社会学者の重要人物たちが、『自殺論』や『社会分化論』といった社会学の書物を発表するのが十九世紀の終わりの頃です。このような動きと連動して、群衆を主題にした書物も登場するようになります。ギュスターヴヴ・ル・ボンが『群集心理』を出すのが一八九五年ですし、ガブリエル・タルドが『世論と群衆』を出すのが一九〇一年のことです。ボンは「まさにきたらんとする時代は、実に「群衆の時代」とでもいうべきであろう」と宣言しましたが、十九世紀的な理性の声への信仰は、ほぼ時代遅れのものと認識されていました。
 『一般意思2・0』を二〇一一年に発表した東浩紀も、そのような認識を持つ人間の一人です。この本のサブタイトルにはルソーやグーグルといった固有名詞と共にフロイトの名があげられています。東浩紀の場合は、十九世紀後半における大地や共同体から切り離されて脱階級化した農民による群衆現象をモデルにしているわけではなく、グーグルなどのインターネット環境における情報の群衆化といった現象をモデルにして、ルソーの「一般意思」をバージョンアップさせようと試みています。ハバーマスやアレントが主張する「とことんたがいに話し合うこと」によって、討議を形成しながら議論を深めてゆくことを目指すという「熟議民主主義」を、現代においては機能不全に陥った旧時代の遺物として斥け、その代わりにインターネットのような新しいテクノロジーやメディアを活用することで、その旧弊な限界を突破しようと、東は主張するのです。
「情報技術を駆使して、市民の意識ではなく無意識を探る政治。とくに政治参加の意識を持たなくても、日々の生活の記録がそのまま集約され政策に生かされる透明な統治」というふうに、東は大衆の無意識を出発点にしてすべてを始めようと考えます。東の考えは、政治論というよりは企業のマーケティングにより近いようにも見えますが、時代の趨勢はこのようなものであることは否めません。「ビッグデータ」という言葉を聞かない日はありませんし、最近のテレビのニュースは、ネット上における時事ネタや時事用語の検索数やアクセス数を毎日ランキング化して、大衆の関心の集団的変動を可視化しています。時代は個人の理性的判断よりも集団の欲望の動きに沿って動かされている、というふうに実感されます。少なくとも僕は、ブロックのような大きな塊によって拘束され圧迫されている、という感覚を否定できません。
僕自身は、十九世紀的な美学によって感性や思考や想像力を形成されてしまった人間ですし、そうであるがゆえに吉田一穂という詩人を取り上げたわけです。吉田は、ボードレールやマラルメといった十九世紀型の文化に影響を受けていますし、芸術という言葉をまるで疑っていません。ベンヤミン的な問題意識は吉田にはまったく皆無だと言っていいでしょう。十九世紀の美学を溌溂と伝えてくれる吉田の言葉に惹かれたという読書体験から、この吉田論は始まりました。とはいえ、東浩紀が主張するように、無意識から始めなければならない、とは僕も思います。東の認識には全面的に同意します。では、そうした場合、二十一世紀に吉田一穂を読むとは、どういうことなのでしょう。それは無意識の中の高さを求める情動を体感することではないでしょうか。サブライムつまりは崇高さというものを物質的に体験することなのではないでしょうか。
 無意識のメカニズムは自然で動物的なものという、ただ一つだけのものに限定されるわけではありません。無意識というものは多様なる複数性として存在しています。「快感原則」「現実原則」そして「快感原則の彼岸」といった少なくとも三つのメカニズムが存在していますし、エロスとタナトスの配分がどのようになっているのかもヴァリエーションがあるでしょう。無意識というフィジカルなものが崇高というメタフィジカルなものへと転化する契機が存在することを雄弁に証明するものが、「快感原則の彼岸」というメカニズムと言えましょう。
 「快感原則の彼岸」というのは、フロイトによって見出された概念なのですが、この心的メカニズムは「非常時」と密接につながっています。フロイトが「快感原則の彼岸」と直面したのは、第一次世界大戦終結後、戦場から戻ってきた戦争神経症の患者を通してでした。元兵士である彼らは、けっして見たくはないであろう戦争の悪夢を反復して見るのでした。それまでのフロイトの考えでは、夢は願望充足の場所である、ともっぱら快感原則に基づいて考えていました。しかしこの理論では、戦争という不快な体験を反復する不思議な現象を説明することができません。そしてまた、ほぼ同じころ、娘のゾフィーが亡くなるという不幸が続きました。その後、フロイトは、母を亡くした孫息子であるエルンストが糸巻を使って「いないいないばあ」という遊びを繰り返す場面に出くわします。その様子を観察していたフロイトは、孫がその遊びを繰り返すことによって、母を失った悲しみを解消しようと試みているのだということに気づきます。こうして不快を通して快感を得るという、「快感原則の彼岸」という画期的な考えが見出されたのです。それはフィジカルな超越性とでもいったものです。それは戦争や母の喪失といった人間や幼児にとっての非常時を、乗り越え克服しようとする崇高さの体験でもあるのです。東日本大震災直後に非常時が露出し、それを克服しようと、崇高さの感覚が喚起されたことを記憶されている方も多いのではないでしょうか。
 こうしてフロイトによって見出された人間の崇高への投企を、柄谷行人はカントの道徳論の中にも見出します(『死とナショナリズム』)。カントの言う道徳は、義務・命令に従うことにありますが、彼がそれを「自由」と見なすのは、その命令が自ら立法したものであり、自律的であるからです。この自ら立法する自己とそれに従う自己という自己の二重化というモデルを、柄谷はフロイトの理論の中にも見出すのです。それがフロイトが例にとった、母親の不在という苦痛を反復的な遊び(「いないないばあ」)によって克服する子供の姿なのです。すなわち、自我の二重化――自我と超自我――によって、自律は可能となるのです。
 ところで自らを律するというカントにとっての人間の美徳は、別の言葉で置き換えるなら、ダンディズムということになるでしょう。自らの自由において規範を立て、その規範に則って活動するというのはダンディズムのことですね。そしてこれはおそらく十九世紀の美学のことです。群衆的な無意識ではなく、理性と知性を持った意識的な個人として世界に立つというのが、十九世紀的な個人主義の美学なのですから。十九世紀の芸術家ボードレールがこだわったのがダンディズムでした。そしてこのダンディズムという美学は、日本の伝統においては武士道ということになりましょう。武士道もまた、法に従属する(subject)することで主体(Subject)を立てます。いずれにせよ、自己立法的であることは、縦(垂直)の運動を生きることです。
 その反対に横(水平)の関係において、共感を生きようとするのが商人の発想です(あるいは「共感する」ふりをすることもありましょう。というのも金銭の交換さえ成立すれば心はどうでもいいという場合もありますから)。歴史作家の司馬遼太郎は『竜馬がゆく』で有名ですが、司馬は坂本竜馬のことを、貿易会社の構想者として高く評価しています。武士階級が「どう行動すれば美しいか」に拘ったのに対して、竜馬は「どういうふうに成功するか」を人生の基準にしていたと。
 大阪出身の司馬は、商人の感覚が骨の髄まで染み込んでいる人です。大阪の歴史的特質は、日本全国の中でここだけ封建体制をより軽く体験したがゆえに、金沢や高知のような城下町の美意識がまったく浸透しなかったと、司馬は言っています。言いかえれば、超越性の感覚が不在なのです。司馬には幕末の大阪を舞台にした侍小説があって(「大阪侍」他)、そこでは武士のダンディズムが、商人の眼を通して、徹底的に相対化されています。江戸時代末期に徳川への忠誠を手放そうとしなかった会津藩は、登場人物たちから「愚の骨頂
呼ばわりされています。司馬は日本人のメンタリティーを見るにあたって、「廃仏毀釈のとき、興福寺の坊さんが仏像に対して態度を急変させたことなどに、日本人のちょっと皮肉の意味を込めたすばらしさ」(『手掘り日本史』)と語っています。このような日本人の感覚における超越性の不在を、政治学者の丸山真男(大阪生まれ東京育ち)は快くは思っていませんでした。むしろ会津藩士のような存在に革命の可能性を見て、「忠誠と反逆」のような論文を書きました。
 司馬の大阪論を読んでいると、一九八〇年代の日本の雰囲気を思い出します。当時はテレビを中心に「関西の笑い」「吉本興業」という記号が飛び交っていて、大阪が全国区化しつつありました。超越性の不在という現象はそれと並行していました。「自律的=自己立法的に生きよ」と語るカントは、まず出る幕がありませんでした。カントが評価されるようになったのは九〇年代後半からです。また、丸山の「忠誠と反逆」が注目されようになるのも同じ頃です。
 東浩紀の『一般意思2・0』も、九〇年代というよりは八〇年代をベースにして書かれています。それはカントを重視する柄谷の論考とちょうど鏡合わせのような関係になっています。東は功利主義を土台にして社会を構築しようと考えています。カントのような自己陶冶的なライフスタイルは、もはや時代に合っていないと。それは「デカンショ」が謳われた旧制高校的な時代遅れの美学であると、東は認識しているようです。
 確かに、平時においては、功利主義が状況のモードに合っています。東北の震災や福島の原発事故が風化してしまったのはそういうことです。戦争の記憶が薄れてゆき戦争の危機が高まるのもそういう流れのなかにあります。カントは後の国際連合につながるような世界共和国を構想しましたが、そのような人類の希求が生じるのは、戦争という(自然の狡知としての)悲惨な体験を通して、人類は正気に目覚めそのように行動せざるを得ないからだ、というふうに考えました。戦争という非常時が道徳をもたらすというのです。逆に平時になれすぎると、平和への切実な思いが風化してゆくということになります。これは、なんとも皮肉な現象です。けれども人間は、垂直の感覚に目覚める可能性を必ずや秘めているものです。それがなければたんなる動物としての生を生きるだけの存在でしかないことになります。「精神=垂直と「動物=水平という図式が考えられますが、これは「立法」と「経済」という図式になりますね。それは「ヨーロッパ的理念」と「アメリカ的自由経済」という図式と重なって見えます。今後の世界的課題とも見えます。その課題になにがしかの答えを提供してくれるのが「北の想像力」というものなのかもしれません。

 

※本稿は東海大学「知のコスモス――辺境の想像力」における基調講演として用意されたものです。けれども講演としては長すぎるだろうということで、小冊子原稿へと急きょ変更することになりました。拙稿を小冊子として出してくれました東海大学文学部文芸創作学科のご厚意に心より感謝いたします。

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《北海道文学》と《北海道SF》をめぐる思索の旅