●註 本稿に先立つ「小熊秀雄への助太刀レポート」は創風社のサイトで公開されている。
小熊秀雄への助太刀レポート
北海道の風土が産んだ反抗と諧謔の詩人、小熊秀雄が、内務省の役人、佐伯郁郎にシッポを振り、出版社での職を得た転向者であったと言う大塚英志、宮本大人(ひろひと)への反論をわたしは前号で書いた。それがきっかけとなり、わたしはある人から二人の評論家の根拠となった本の存在を教えていただくことができた。吉田美和子の『小熊秀雄夜の歌』(桐々舎・95)である。 彼女は、佐伯郁郎の親族である佐伯研二から提供を受けた与田準一の文章を引用する。与田が『ふるほんや』第九号(87)に書いた「吉田一穂さんのこと」である。
内務省の警保局図書課にいた詩人佐伯郁郎が当時の管制用語の〈読物浄化運動〉に奔走する。いま、その年月はつまびらかではないが、戦時体制下の詩人の処遇を心配した佐伯氏は、一穂さんをはじめ、小熊秀雄、山之口貘などを出版社の絵本編集という軒先にいわば退避させる。
吉田一穂と佐伯郁郎の仲は、固いものであったようだ。が、小熊秀雄、山之口貘と続けてしまうのは、戦後四十年を過ぎて書いた与田の記憶の暴走というものであろう。そもそも、この与田準一、野人小熊の交友とは遠い品性豊かな人間なのである。山之口もまた与田とは遠い。山之口は、出版社に勤めたことなど一度もないのだ。 佐伯研二は、吉田美和子の本の折り込み付録となった『桐々舎案内』の中で、自ら文を綴っている。佐伯郁郎が吉田一穂を出版社に紹介したことを述べた後、「同様のケースとして山之口貘、そして小熊秀雄があげられる」と書いているのだ。そして、佐伯郁郎が「ある出版社に小熊秀雄を紹介し、彼は児童絵本の仕事に携わった」と述べたことを記憶しているとも書くのである。 当事者と称する者の言は、絶対的な証拠になるのだろうか? ならない。人はしばしば嘘言の衣裳で自分を着飾ろうとするものなのだ。
例えば、野口雨情は、「札幌時代の石川啄木」の中で、北門新報社に啄木の職を紹介したのは自分なのだと言っている。
これは大嘘――紹介したのは、向井永太郎という無名の詩人――わたしの祖父だった。啄木は日記にそのことを書いていたからよかったものの、小熊は日記を残さなかったのだ。が、『漫画歴史大博物館』(ブロンズ社・80)で、小熊の台本を元に『火星探検』の漫画を描いた大城のぼるは、こう証言している。
小熊さんは、中村書店の編集長として入ってきたわけです。あいだに入っていたのが芳賀たかしさんですが(略)
芳賀たかしは、中村書店で漫画を描いていた。池袋モンパルナスの小熊の飲み仲間――プロレタリア画家、芳賀仭のことであるということは、既に前号のレポートで書いた。 そのレポートを人を介して読んだ吉田美和子は、『木槿通信』9号(07)の「小熊秀雄の夕陽」の中で、こんなことを書いている。
もし、小熊秀雄を中村書店に世話したのが内務省図書課の役人詩人・佐伯郁郎であるからアヤシイ、というのが批判で、とんでもない、世話したのは別人物だというのが反論の構図であるならば、佐伯郁郎が世話して漫画出版社の編集顧問になったからといって何が悪い……、と私はつぶやきたい。 (略) 誰だって生きるのに精一杯だった、などと簡単に問題を平準化するつもりは、ない。けれども無謬を争う議論には荷担したくない。当時極限的に困窮して電気もない暮らしをしていた吉田一穂や小熊秀雄を、生活的に援助し思想的にもカムフラージュするカタギの仕事場を世話したのは、佐伯が時流を憂えていたからである。
思想的にもカムフラージュ? カタギの仕事場? 吉田美和子の発する言葉は、漫画の台本の言葉にさえ思想を塗り込めて死んでいったヤクザな詩人、小熊秀雄への冒涜以外の何ものでもない、と、わたしは思う。 彼女の本が出て、十二年もたっている。小熊イジメの源となったこの本を、批判した人間が一人でもいたのだろうか? 見て見ぬふりをする風潮がはびこる今、ブンガク界も例外ではなくなってしまったようだ。 ズドン!
(了)
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