忘れられないための「闘争」――岡和田晃『向井豊昭の闘争 異種混淆性(ハイブリディティ)の世界文学』書評
東條 慎生


 一昨年本誌に連載されていた評論が、このほどついに単行本化となった。大幅に増補改訂されており、後に書かれた別稿、書き下ろしも組み込んで、およそ一、五倍に分量が増え、総計三五〇に及ぶ作品リストも付された資料性も高い決定版といえる。
 姉妹編として本書とリンクする形で編まれた『向井豊昭傑作集 飛ぶくしゃみ』によって、今までの早稲田文学新人賞を六十二歳という高齢で受賞し、十三年ほどの活動期間で三冊の著書を出して亡くなった作家、というイメージは完全に覆された。向井豊昭は一九六〇年代から個人誌や地方文壇で精力的に活動しており、六七年には同人雑誌推薦作として「うた詠み」が「文學界」に全文転載され、いったんは中央文壇へのデビューを果たしていた。向井の文業はおよそ四十年にもわたる粘り強いもので、私たち一般読者はその最後の方を多少知っているに過ぎない。
 著者は手書きの個人誌、地方の文芸同人誌、教育関係の雑誌、エスペラント関係の雑誌等々、多彩で膨大かつ一般流通していないようなテキストを収集分析し、中央へのデビューを果たしながら、なぜ向井豊昭という作家がこれまでのような「不遇」と評される立場にあったのか、そしてこの四十年いかなる戦いを続けてきたのか、ということを跡づけ、部数三十の文学を世界的な普遍性へと開いてみせた。地方文壇で活動し、アイヌ教育運動に携わり、エスペラント語の翻訳を行うなど、各々のジャンルでは知られた人物だったかも知れない。しかし、それぞれの活動を有機的に結びつけ、もって向井豊昭の苦闘の全貌を明らかにする試みは著者によって初めてなされた。きわめて価値のある労作だ。
 前半部では向井豊昭誕生からの履歴を辿りつつ、その初期と後期をつなぐ重要なテーマ、アイヌの問題を取りあげる。初期の代表作「御料牧場」や「うた詠み」はともにアイヌを題材にしており、向井の作家的出発点にはアイヌの問題があったからだ。

「〈アイヌ〉なる存在を規定する「状況」へ、常に再帰的なかたちで引き戻されてしまうこと。それが彼の強いられた場所だった。だから、〈アイヌ〉の窮状に共感するほど、当事者である〈アイヌ〉との距離は広がっていく。状況が強いる矛盾と、やり場のない憤り。それらが「近代のアポリア」として、向井豊昭に絡みつき、彼自身を絶えず束縛し続けてきたのだ。」

〈アイヌ〉ならざる者による「現代アイヌ文学」と著者が呼ぶ向井の闘争、その困難はここにある。教員として貧困と差別の渦中にあるアイヌを教育し、差別を解消しようと奔走し、しかしながらそれが「同化教育の総仕上げをおこなっていた」「征服者」の尖兵に他ならないジレンマに苦しめられてもいたという「近代のアポリア」に直面していた向井は、そのことにまさに向きあうことによって書いた。
 著者はこの知られざる作家の評伝を書き継ぎながら、もっとも困難な課題に正面から向きあったからこそ、マイナーな場に留まらざるを得なかった作家として向井豊昭を提示する。
 ここで私が思い起こすのは鶴田知也のことだ。和人が進出してくる北海道を舞台に、蜂起を志すも無残に虐殺されるアイヌの英雄を描いた「コシャマイン記」で一九三六年第三回芥川賞を受賞した鶴田もまた、〈アイヌ〉ならざる者による「アイヌ文学」の書き手だった。北海道の植民地化を批判するきわめて先駆的な作品を書きながら、次第に時局に飲まれ、彼は日本の植民地拡大を賞賛する作品を書いて、自分自身の「コシャマイン記」を裏切ってしまう。戦後、鶴田は農業運動の指導者として活動するようになり、小説家に復帰することはなく、次第に忘れられていった。北海道の開拓農民を称揚していた鶴田が、その開拓を批判的に見据える作品を書くという分裂を抱えて、北海道近代の功罪を一身に体現していたことは、向井豊昭の抱えた征服者のジレンマとも通ずる。そして興味深いのは、「コシャマイン記」は元々、朝鮮に対する日本人の差別意識を批判する意図で書こうとしたものの、それでは検閲に通らないと考えてアイヌを題材にした、と鶴田が語ったことだ。「コシャマイン記」の歴史小説という方法は、検閲制度下に間接的方法で差別を撃つためのものだったのに対し、「御料牧場」において在日朝鮮人問題が語られ、「うた詠み」で「日韓条約」に言及するという、アイヌと向きあう中で朝鮮が見えてくる向井の方法とを比べてみると、戦前戦後の言論状況の差異もまた露わになる。とはいえ鶴田も向井もアイヌと朝鮮を、日本近代の植民地主義の問題として見る観点を共有していた。鶴田の民族差別を批判するスタンスが挫折していく経験もまた、忘れられてはならない戦いの記録だ。
 本書末尾の書き下ろし部分で、著者が向井作品から六ヶ所村の核燃反対運動を描写している箇所を引用しているのも、現代における内国植民地主義としての「核」を抉ろうとする意識からだろう。朝鮮と「核」とは、今においても境界性の暴力の発露する場として突出している。そしてそれは向井豊昭が生涯を通じて戦ってきたものと無縁ではない。向井豊昭の、「自分自身をも敵と」する闘争はまだまったく過去のものにはなっていない。そこにこそ、本書をそして向井豊昭を読む意味がある。
 ところで、向井豊昭の遺稿等をデジタル化しウェブ公開している「向井豊昭アーカイブ」は著者の協力を得て私が管理しており、本書にも校正協力として参加した。そもそも「向井豊昭アーカイブ」の発端になったのは、私が代表をしている文芸同人「幻視社」において著者の提案により向井豊昭特集を組んだことが土台となっている。入手困難なものの多い向井豊昭の作品が、インターネットではほぼゼロコストで作品を公開でき、検索すれば数クリックでいつでもそれが読めるわけだ。本書のような批評とともに、忘れられないための作品それ自体の刊行、公開によって、より多くの読者が向井豊昭の闘争の経験を改めてたどりなおすことができるはずだ。

※向井豊昭アーカイブ
http://www.geocities.jp/gensisha/mukaitoyoaki/index.html

初出「未来」2014年8月号

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