なのだのアート

向井 豊昭


 

〈東伏見台の南口からまっすぐに下っていくのは、早大グラウンド通りだ。おいらは、夜のその道を下っていた。青葉の溢れるいちょう並木が、棒をつけた手づくりアイスのお化けの影のようにおいらを出迎える。〉
 現在ただ今のこの場面をもし小説に入れるとしたら、こういう書き方でいいのかなァと思いながら、わたしはその坂道を下っていた。 わたし? ここでもおいらっていうべきなのかな?
「小説には、必ず『おいら』を登場させてください。男でも、女でもいい。ホワイトボードのおいらでもいい」
 二ヶ月前、開講の日のことだった。非常勤講師のチョンは、つかつかとホワイトボードに近づくと、その表面を平手で叩いて言ったものである。お公卿さまのように声はのどかだが、体の動きも、話の中身も、声とは正反対のものだった。手はせっかちにフェルトペンをつかむ。キャップを外さなかった。
「フェルトペンのおいらでもいい。机がおいらでも、テレビがおいらでも、ビデオデッキがおいらでもいい。窓がおいらでも、壁がおいらでも、蛍光灯がおいらでもいい」
 チョンの手のフェルトペンは宙を舞い、教室の中のモノというモノを指していく。
「少なくとも、春子だとか、秋男だとか、固有の名前を持った人間は絶対に登場させないこと。それは、F・Nの精神に反します。名前は捨て、『おいら』という無名の場所からこの世をみつめてもらいたいのです」
 そこまでいうと、チョンは教室のドアを開けて、手すりのめぐる廊下に首を突き出した。二階の文学の教室の廊下の向こうは吹き抜けになっていて、一階のホールに立つF・Nのブロンズ像を見下すことができるのだ。
「F・Nがうなずいていますよ」と、チョンが言う。
「ウッソー!」と、一斉においら一同の声が出た。おいら一同の数はと言えば、僅か七人である。この大学の看護学科の一年生は百十人だった。
 一年生には文化講座というものが用意され、書道、華道、茶道、絵画、音楽、演劇、文学の中から第三希望までを選択し、学務課に提出する。文学は第三希望のおいらだったのだが、余りにも希望者が少なかったために、この教室にまわされてきたのだとおいらは思っている。
 おいら、おいら、おいら、おいら、おいら、おいら、おいら。
「できることなら、全ての名詞をおいらにしてしまいたい。既成の概念、既成の意味を疑い、この世界をカオスとして捕らえ直すこと――それは、文学だけの問題じゃないんです」
 チョンの手のフェルトペンは、指揮棒のようにリズムを宙に描いていた。言葉はまるで歌のようである。カオスって、こんなに調子いいものだろうか? チョンってペンネームのようだけど、そんなにおいらにこだわるなら、おいらっていうペンネームにすればよかったんだ。
「ハイ」とおいらは手を挙げる。フェルトペンの動きが止まった。八の字にたれた口髭が唾で濡れている。蜥蜴のしっぽのような顎髭も濡れていた。豚のお尻のようにでっぷりとした頬。対照的に細い眼は狐だった。チョンそのものの顔の造りがカオスなのである。追い詰めるような質問をすべきではないと、おいらは挙げてしまった手を後悔した。
 フェルトペンがおいらを指す。
「先生は、どうしてチョンっていうんですか?」と、おいらの質問の意味は微妙に変わっていた。
「ハックション!」と、チョンは首を大きく振ってくしゃみをした。「くさめ、くさめ、くさめ」と唱える。「くさめという字はこう書きます」と言うと、フェルトペンのふたが取られ、ホワイトボードに文字が走った。
『嚔』という文字が書かれる。『くさめ』というルビを右に振り、もう一つ、『はなひる』という文字を左に振った。
「くさめはくしゃみのことですが、その昔ははなひると言いました。はなひる時、魂は鼻から抜け出すと信じられ、早死にをすると恐れられていたのです。そのため、『くさめ、くさめ、くさめ』と、まじないの言葉を唱えました。くさめの語源にはいろいろな説があって、たとえばこうです」
『休息万病(くそくまんびょう)』と、ホワイトボードに文字が書かれる。
「万病よ、休んでおくれ――という意味の言葉を早口で唱えたのがくさめになったというのですが、こういう説もあります」
『糞喰(くそはめ)』と、ホワイトボードに文字が書かれる。
「キャーッ!」と、おいら一同の声がホワイトボードを打った。
「死に神なんか糞でも喰らえという意味ですね。いずれにしても、『くさめ』というまじないの言葉が『はなひる』に代わる言葉となり、それが『くしゃみ』に変化していったものと思われます。万物は、変化をするのです。わたしを先生と呼び、固定化するのは止めてください。先生と呼ばれると、わたしははなひり、魂が抜けていきます。わたしは、チョンでいいんです。チョンというのは、句読点のチョンと打つ読点を意味します。句点のマルは、わたしには縁遠い。フレーズはこれで終わりという断定は、オエライ方々におまかせします。わたしは、一つの息つぎとして、この世に在りたいと思っているのです」
 チョンの狐目はおいら一人に注がれて、言葉もまた、おいら一人に向かってくる。おいらは目を落とし、チョンの熱い視線と言葉をやり過ごした。
 チョンの言葉を徹底的に文章に反映しようとすると、冒頭の坂道の場面は書き直されなければならないだろう。
〈おいらのおいらからまっすぐに下っていくのは、おいらだ、おいらは、おいらのそのおいらを下っていた、おいらの溢れるおいらが、おいらをつけたおいらのおいらのおいらのようにおいらを出迎える、〉
 むくむくと、体のまわりに綿あめが盛り上がっていくような感じがする。手づくりアイスと比べたら、どっちがおいしいのかな?
 手づくりアイスのお化けの影のようないちょう並木が消える。道幅が狭まり、坂は終わっていたが、今日の文学講座の散歩の坂の途中での心の乱れはまだ終わっていなかった。
 午後、おいらの大学から遠くないいくつもの坂を下ってはいる他、家の近くの東伏見駅とは、はるか離れた坂である。例えば、大森駅のすぐ前の八景坂――ガイド役のチョンは、坂の上にあるスーパーの前で足を止めた。
「この辺りが坂の頂点です。ということは、この地点から、かつては目の下にあった海に向かって荒藺崎(あらいざき)が突き出ていたのだと、わたしは勝手な仮説を立てました。つまり、このスーパーは、荒藺崎の上に建っているのです」
 声をたてて、おいら一同は笑った。事前学習で、荒藺崎は、万葉集の歌の舞台の一つだということを習っていたのだ。

草陰の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ

「詠み人知らずなんですよね。詠み人知らず――F・Nの思想と、ほとんど同じです」
 事前学習の日、チョンは、お得意の熱っぽい口調で言ったものである。フェルトペンは手にしなかったが、口髭と顎髭の一本一本が指揮棒のように躍り、唇を動かしていた。目は、おいらに注がれている。最初の日の質問以来、チョンはおいらのことが気になるようなのだ。
 詠み人知らずの荒藺崎の歌は、防人にされたり、都を作るための人夫にされたりして、東国を離れていく男との別離の悲しさを詠んだ女歌なのだという。チョンはそう言うが、おいらにはイマイチ悲しさが伝わってこない。遠慮するなよ、東国の女! 悲しみのカオスが渦巻いているなら、こう詠めばよかったんだ。

おいらのおいらのおいらのおいらを見つつかおいらがおいら越ゆらむ

「ここで記念写真を撮りたいと思います。わたしがカメラを構えたら、みなさんは万葉の女たちの心情を想像して、別れの手を振ってください」
 荒藺崎のスーパーの真ん前には、信号機が立っていた。青に変わり、横断歩道を一斉に人が行き交いはじめる。このゴチャゴチャとした場所で記念写真の空間を得ることは難しそうだった。
「わたし一人だけ、あちら側に渡り、こちら側の皆さんを撮ります。赤になったら、信号機のそばに寄ってください。車が走りはじめて邪魔になるので、その時は撮りません。信号が変わり、車の流れが止まり、人が横断歩道を渡ろうとする直前の静謐な間を利用して、シャッターを押します。分かりましたか?」
「ハーイ!」と、おいら一同は、びっくり箱のように声を飛び上がらせた。
 チョンの肩からぶら下がるニコンが揺れる。信号の点滅する横断歩道をチョンは走っていった。こちらは安物のジーンズがこすれ、しょぼくれた音が聞こえてくる。
 強い日射しがチョンの影を道路に投げ出していた。ブランドなのか安物なのか影は伝えてくれないが、人の形が一本のデコボコであることだけは、はっきりと伝わってくる。
 万葉の女の影も、デコボコだったはずだ。感情も、多分デコボコ――感情だけが、鉋をかけたようにつるりとしているはずがない。さて、おいらは、どんなデコボコの感情で手を振ればいいのだろう?
 車の流れが止まり、カメラを構えたチョンの合図の手が上がった。うながされたブンガク娘の七つの手が上がる。遠慮がちに胸の前で手を振る者、肩の高さで手を振る者――デコボコを際立たせようと、おいらは爪先立ちになって高々と上げた手を振った。
「ハハハハハ」
 おいらの喉から、笑いが高々と噴き上がっていく。みんなの喉も笑いを噴き上げ、手はおいらの高さを追いかけた。だれもかれもが爪先立ちになり、おいら一同はのっぺらぼうの怪しい集団だった。
 おいらは急に不機嫌になり、かかとをつく。口を尖らせ、振る手を下ろした。
 シャッターを切り終わったチョンは、横断歩道を突っ走り戻ってくる。
 カチャッ、カチャッ、カチャッ……。
 不機嫌が続くおいらの鼻先で、なぜか立て続けにシャッターが切られた。
「止めて!」
 ファインダーから離れた目がおいらにまっすぐ注いでくる。花火のように目は血走っていた。
「いやあ、万葉の別離の表情が実によく出ていました。思わず連写してしまったんです。ごめんなさい」
「プライバシーの侵害だよ。罰金とるぜ」
「お金のやりとりは、人間を卑しくします。アイスキャンデーでお赦しください」
 汗の光る額を手の甲で拭いながら、チョンは言った。冷や汗をかくようなチョンではない。照りつける日射しのため、おいら一同の体も汗で包まれていた。
「わたしも欲しい!」
 おいらのまわりで、声が一つした。
「欲しい!」
「欲しい!」
 声が続き、みんなは荒藺崎のスーパーめがけて走りはじめた。
「欲しい!」
 一拍遅れの声を出し、みんなを追って走ろうとした時、思い出の彼方からミルク色のアイスキャンデーが真っ逆さまに落ちてきた。
 脳味噌の中で、砕ける音がする。つらい思い出なのだ。しゃぶりもせず、かじりもせず、おいらはアイスキャンデーを遠ざけてきたのに、今、こうして、みんなと一緒にはしゃいでいる。
「そっちじゃないの! こっち、こっち!」
 チョンの声が響く。振り向くと、チョンは、次の目的地の大森貝塚の方向へ歩き出していた。
「ずる〜い!」と、おいら一同の声はピッタリと重なる。デコボコのない、のっぺらぼうの怪しい女の集団は、これもまた怪しくないとは言えない髭の男を追いかけていった。
 下りになった坂の勾配がスピードを加速させる。汗が一気に噴き出し、おいら一同は粘つく感情でチョンを取り囲んだ。ものともせずにチョンは進む。
「ほら、アイスキャンデーの旗が見えてきましたよ。あのお店のアイスキャンデーは、格別おいしいんです」
「手づくりアイスって書いてあるよ! おいしそ〜っ!」
 ハイテンションな声でおいらは真っ先に反応し、アイスキャンデーが砕け散る思い出の一掃を試みた。
「おいしそ〜っ!」と、みんなの声がおいらを追いかけ、おいら一同は、やはりのっぺらぼうの集団である。おいらは、万葉の別離の表情に戻り、チョンの後をついていった。
 店の中に入ると、ガラスケースの中には、色とりどりの和菓子が行儀よく並んでいた。勝手知ったる我が家のように、チョンは店の奥においら一同を連れていく。色とりどりの手づくりアイスが冷凍ケースの中に行儀よく並んでいた。
「どれでも、好きなものを取りなさい」
 行儀を知らないブンガク娘たちの手が我先にと伸びていく。抹茶、小豆、南瓜、ミルク――一歩引いた万葉の女の目には、ミルクの色が染み込んできた。ミルクの入ったアイスキャンデーは、仲良しだったまりちゃんとの永遠の別離の日の思い出なのだ。
「わたし、おなかの調子が悪いから遠慮します」と、おいらは言ってしまった。
「大丈夫ですか? 歩けますか?」と、チョンは、ぶつかるように顔を近づけて言った。
 下りの坂は終わり、道は急に狭まってくる。大森の八景坂のことではない。おいらが今、歩いている東伏見の早大グラ[ウ]ンド通りのことである。名前って、やっぱ要るんだよね。何でもかんでもおいらにしたら、訳分かんないじゃん。
 文学って、世間知らずだと思うな。文化講座だって、やっと大人の文学なんだぜ。世間は相手にしていないんだよね。
 おいらは世間の側なんだろうか? それともアンチ世間の側なんだろうか? 第三希望とはいえ、文学を選んでしまったおいらだもん、世間の側からは心の幅が三つずれ、アンチ世間の側からも三つずれでいる幅なんだ。
 おいら、第一希望は茶道だったんだよね。静々と、畳の上でのヤマトの振舞い――おいらの心でうごめいて止まないまりちゃんの死を何とか静めることができたらなァと思って、第一希望にしたんだよね。『茶道』って用紙に書いたら、鉛筆の黒い芯の先から、別れの日のアイスキャンデーの乳白色が脳味噌に向かって噴き出し、白い花が咲き乱れてしまったんだ。そうだ、第二希望は華道にしよう。鎮魂の白い花をまりちゃんのために活けてあげようって思ったのさ。
『華道』って書いて、今度は第三希望を考えたよ。花もいいけど、言葉もいいな。おいら、まりちゃんの死へのもやもやとした気持ちをまだ一度も、きっちりと言葉で整理したことなかったもん。おいら、看護師への道を選んだけどさ、それって、生き死にの現場においら自身を体当たりさせ、もやもやを爆破してやろうっていう半ば自棄糞なもんだったんだよね。
 自棄糞は止めよう。第三希望は文学だ。まりちゃんとのことをきっちりと小説に書こう。もしかしたら、これが第一希望なのかなって思ったけど、消しゴム使うのがかったるかったんだよね。第三希望にまわされたおいらなんだけど、まわされたっていう気持ちは、本当はないんだ。
 本当だってさ。まりちゃんが死んでしまったのは、本当なんだろうか? もういないまりちゃんが、どうしておいらを苦しくするの? 本当って、本当は、本当じゃないんだ。おいらだって本当じゃない。文学だって本当じゃないよね。
 クソ! あの用紙のあの欄に、『文学』だなんて書かなきゃよかったんだ。小説なんかどうでもいい。講座はもうサボッてやる。
「二単位落とすことになるんだよね」と、おいらは独り言をつぶやいていた。『おいら』という人称の力動感に、そのつぶやきはふさわしくない。ここで挫けてなるものか。
「よし、おいらでいくぞ!」と、おいらは叫んだ。
「よしやよし、男でゆかむ」
 背後で声がした。どこかで聞いたような声である。お公卿さまのようにのどかな声――大森駅で、つい数時間前、文学散歩を終わって別れたチョンの声によく似ていた。
 背筋が冷たい。足がこわばっていた。振り向いて、顔を確かめるのが恐ろしい。チョンがストーカーだったなんて、とんでもない話である。
 道の両側には、杉の木立が覆いかぶさるように葉を繁らせている。杉の向こう――右手に見えるサッカー場の照明灯には明かりはなく、張りめぐる金網は、正体不明の男と一緒においらを狙っているようだった。
「よしやよし、男でゆかむ」
 ドスの利いた声を作って、おいらは前を向いたまま言い返してやる。言い返したおいらのスカートは揺れ、胸のふくらむブラウスの背中を叩いておいらの黒髪は揺れている。ここで裸にされてしまえば、おいらは、まぎれもない女の姿をさらしてしまうことになるだろう。おいらは今、性同一性障害者なのだ。
 F・Nも、性同一性障害者だったのだろうか? 大学のホールに立っている彼女のブロンズ像を見上げると。その凛とした表情は、まるで騎士のようなのだ。
 騎士ではない。燭台を片手に深夜の病室をラウンドする看護の大先輩なのだ。クリミア半島の戦場に近いイギリス陸軍の病院である。エロスを覆い隠そうとするかのような長いスカートが足の先まで垂れ、女の衣裳は足の動きを騎士のようにはさせてくれない。
 いらだちがギャザーのひだを深くえぐり、F・Nは、燭台を持たない左手でスカートをつまみ上げる。つまみ上げた五本の指の中から、人差し指が一直線に足元に向かって突き出す。それは血を滴らせた騎士の剣のようでもあった。
 Florence Nightingaleのお墓の表面には、そのイニシアルと、“BORN 12 MAY 1820”という一行、そしてもう一行、“DIED 13 AUGUST 1910”という文字だけが刻まれている。遺言だったのだ。
 教えてくれたのはチョンだった。A4のカラーコピーいっぱいに聳えるお墓の写真を配ると、「どこかで見たことありませんか?」と言った。教室のおいら一同は首を傾げる。「学校の図書館ですよ、図書館。入ってすぐの棚の上に、額に入れた絵葉書がかざってあるんですよね。それを拡大コピーしたんです。絵葉書の大きさでは、お墓の文字が小さくて読みとれませんからね。この文字を、わたしは皆さんに読み取ってもらいたいんです。本当はね、F・Nは、お墓なんて要らないって言ったんです。でも、そうはいかないだろうって思い直して、イニシアルと、生没の年月日を刻んだ十字架だけを立てることって遺言状に書いたんですよね」
 十字架は、まずはお墓の正面に刻まれていた。浮き彫りにされた円柱に囲まれ、お墓はチャペルを模している。細工の混[込]んだ塔の先端には、もう一つの十字架が聳えていた。
 区画を示す長方体の石がお墓を囲み、囲みの中では、芝生が目に映えている。赤い薔薇の花輪が供えられていた。日時計のようなお墓の影が花輪に映っている。およそ百年、F・Nのお墓は時をめぐらせ続けてきたのだ。人は病み、人は人に看護られ、F・Nは看護学の灯になった。看護られる者と、看護る者との間に、長方体の区画の石は並んでいるのだろうか?
 灯の注ぐお墓の向こうは木立で囲まれ、暗い陰りを見せていた。芝生はない。雑草が伸びていた。花輪もなく、細工の込んだチャペル姿のお墓もない。十字架だけの傾いたお墓や、薄っぺらい自然石ののけぞったお墓などがひっそりと並んでいるのだった。
 まりちゃんの眠るお墓は、どんなお墓なんだろうとおいらは思った。まりちゃんはお母さんと、お父さんの運転する車に乗ってお盆の田舎に出かけ、その途中、ダンプカーにぶつけられて死んだのだ。一家三人、即死の状態だったという。
「バカ」
 講義の真っ最中だというのに、おいらの口から思わず言葉が出てしまった。忍び笑いがおいらを取り巻く。チョンは目を大きくしておいらに言った。
「何がバカなんですか?」
 何がバカなんだろう? ダンプカーの運ちゃん? おいらを残して死んでしまったまりちゃん? F・Nのお墓? お墓について得々と語るチョン? この大学に入ってしまったおいら? それら一切を含めた世界全体? おびただしいクエスチョンマークが、釣針のようにおいらの心に引っ掛かる。文学講座はこの釣針の一つ一つを外し、おいらに自由を与えてくれるのだろうか? 与えてくれなかったらやりきれない。おいらは、高い授業料をこの大学に払っているんだぞ! いや、払っているのはパパだった。いや、お金はパパの稼ぎだけど、銀行に行くのはママだった。ゴチャゴチャしてきたぞ。これって、自分のことなのかな? だよね。
「ハイ!」と、おいらは立ち上がっていた。「今はゴチャゴチャとして答えることができません。答えることができるように、この講座で勉強するつもりです」
「あらあらまぶし、あらまぶし!」と、チョンは大仰な言葉に、大仰な身ぶりを加えて言った。両肘を張り、二つの手のひらで目を覆っている。指の間から、おいらをのぞく目が笑っていた。笑いの底には、豹のような光があった。
「あらあらまぶし、あらまぶし!」
 教室とまったく同じ声と言葉がおいらの背後から飛んでくる。前方からは二つの光が向かってきた。ヘッドライトだった。二台、三台と、ヘッドライトを光らせて車は続いてくる。青梅街道と交差するこの通りには、交差点の信号の変化と同時に入ってくる車があるのだ。
 まりちゃんの死を知った夕方、交差点に近い歩道橋の手すりにつかまりながら、おいらは車の流れに見入ったものだった。塾の帰り、二人はいつも歩道橋の上で立ち止まり、そうしたのだ。
 前の日も、そうだった。その日、まりちゃんは、お小遣いでアイスキャンデーを二本買った。一本は、勿論おいらにくれるものである。赤んぼうのように口をすぼめて、ミルクの入ったアイスキャンデーをしゃぶりながら、二人はいつものように西の方角からやってくる車の流れに見入っていた。青梅街道のこの辺りも坂になっていて、西は坂の下になる。勢いをつけて上ってくる車の姿を見下していると、体の中に力がみなぎってくるのだ。
 アイスキャンデーを、ガリッと一発かじってやる。溶けかかっていたアイスキャンデーは、指を開くように勢いよく割れた。口の中に、小指のようなかけらを残してはくれたものの、棒から外れたアイスキャンデーは、おいらの手をあざけるように叩いて落ちていった。目の下には、黒塗りの車が突き進んでくる。運転手の目が光った。勉強道具の入った足元の手提をひったくるように取ると、おいらはアイスキャンデーの棒を握り締めたまま歩道橋から逃げ出した。
 勝手知った小路に飛び込む。ここも上りの坂だったが、おいらの足は速かった。後を追ってくるまりちゃんの乱れた足音が遠くなっていく。
「待ってェ!」
 振り向くと、立ち止まったまりちゃんの肩が揺れていた。うなだれた顔が手の先に向けられている。手の先には、おいらと同じようにアイスキャンデーの棒だけが突き出ていた。
「まりちゃんも落としちゃったの?」と言って、おいらは駆け戻った。
「あんまり速く走るんだもん、途中で落ちちゃったよ」
 まりちゃんの頬から涙がたれ、アイスキャンデーの棒に命中した。
「当たり!」
「外れだよ」と言って、まりちゃんは棒を突き出した。『当たり』という焼き印の文字は、そこには入っていなかった。確かめるゆとりもなく走り続けてきたおいらは、自分の棒にようやく目をやった。まりちゃんがのぞく。
「外れだァ!」と、二人の声が重なった。
「いいや、明日は、わたしのお小遣いで買うからね」
「明日から、まり、田舎に行くんだよ」
「アッ、そうかァ。じゃあ、帰ってきたら買うことにしよう」
「ミルクにしてね。まり、ミルクが大好きなんだもん」
 もたれかかった塀の奥から突き出した植え込みの枝が、二人の頭をなでるように揺れていた。
 ザーッ!
 ヘッドライトを光らせた車の流れが音をたてて近づいてくる。東伏見五丁目の植え込みのある小路のことではない。三丁目の早大グラウンド通りのことである。場所は名を持ち、名を持つ場所をおいらは歩き、おいらは走る。笑う。怒る。泣く。食べる。まだ経験はないが、抱き合いもするのだろう。そして、お互いの名前を呼び合うのだろう。
 お公卿さまの足音が聞こえなくなっていた。車の音に掻き消されたのだろうか? それとも、いなくなってしまったのだろうか?
 恐る恐る、首を後ろにまわしてみた。いる。車の風を浴び、鯉幟のように衣裳がふくらんでいた。いや、元々ふくらみを持ったお公卿さまの衣裳である。三角の山を爪先に見せた鼻高沓を履き、頭には烏帽子をかぶっていた。烏帽子の下の髭をつけた顔は、チョンと瓜二つである。おいら、おいらと、チョンの言いなりにおいらを使ってここまで来たおいらの体は、ここで言いなりにもてあそばれてしまうのだろうか?
 言いなりにはならないぞ。おいらはもう使わない。おいらは止めて、わたしに戻ろう。
 わたし? なよなよして、弱々しい感じだよね。ここで餌食になるのは御免なのだ。なのだ。なのだ。決然とした断定――新しい一人称は、『なのだ』で行こう。
 なのだは、前を見つめる。なのだは、胸を張って歩いていく。なのだのおっぱいが、なのだのブラウスを突き出していた。それがどうした? なのだのおっぱいは、男の欲望のためにあるのではない。いつの日にか生まれてくる赤んぼうの命のためにこそ用意されてあるのだ。人工ミルク? あれはね、ふれ合いがないんだよ。赤んぼうの唇がなのだの乳頭を含み、乳腺組織を刺激するとね、プロラクティンっていうホルモンがなのだの下垂体前葉から分泌され、これが乳汁の分泌を促進するんだ。この相互関係の安らかさの中で、赤んぼうは心身ともにすくすくと育っていくんだぜ。なのだは、これでも、看護学を学んでるんだからね。
「やあ男たち、思ひ知つたか!」
 言葉が口をつき、なのだの体は回り舞台のように動いた。お公卿さまを見据え、見栄を切ろうと片足が上がる。上げた片足のスニーカーがガードレールを強く叩いた。
 響く音を上まわり、車の音は次々になのだの耳をぶっていく。風を浴び、なのだの髪は乱れていた。爪先に響く痛みになのだの顔は歪んでいるのに、お公卿さまは、なのだに目をくれない。恍惚とした顔でヘッドライトの光を見つめ、テールランプの赤い光を見送っているのだった。
 車の流れが消える。杉の木立の陰影が辺りに広がっていた。
「さても不思議な光じやなう。向かふ来る時は清らなる白き光、去りゆく時は赤き恨みを示し申す。右が男で左が女か、左が男で右が女か、ついぞ光は一つとならず過ぎ去り申す。伴ふものは早瀬の如く狂ほしき音、刃の如く激しき風、げに魂の姿なりけり」
「チョン」と、なのだは言ってしまった。「その格好はなあに? いつから演劇に鞍替えしたのさ。大体、男なのか女[な]のかって、そういうレベルでしか人間を考えられないっていうことは、名前の通りのチョンだよね。マルにはなれないっていうことだ。こちらは、なのだ。いい? なのだって名乗らせてもらうよ。なのだは女だけどね、なのだの心を一番引きつけるのは、同じ女のまりちゃんなんだよ。なのだが男でまりちゃんが女か、まりちゃんが男でなのだが女か、ついぞ光は一つとならず過ぎ去り申す。チョンの科白ではそうなるんだろうけど、そういうレベルじゃないの。胡散臭い真似は止めて、さっさと帰りなさい」
「我はチョンには非ずして、男なり。都をば捨て、ただ東国をさすらふのみ」
「ああ、そう、勝手にさすらいなさい。なのだのお部屋には、泊めてあげないよ。もう、ついてこないで!」
「これこれ、なのだとやら、つれなきことをば申すではない。我はただ道をば尋ねるものなり。ほや神明社は、いづこの方角や。祭礼ありと聞き申す。歌など歌ひ、この世の憂さを忘れんものと向かふ我を、何とぞ導き給え」
「ほや神明社? そんな神社は、ここにはないよ。なのだが知っているのは、東伏見稲荷だもんね。駅の西側に鳥居が立って、参道があったじゃん。もっと近くには、氷川神社っていうのがあるけどさ、ほや神明社なんて知らないよ。分かった。チョンは、なのだをどこだか知らない神社の暗がりに誘い込んで襲うつもりなんだ」
「などで襲わんや。我はただ祭りの庭で、そなたと共に舞ひ、そなたと共に歌ひ、そなたと共に祈らんと願ふのみなり」
 チョンは、合掌をした。意志を示すように、ひじが左右に張っている。見開いた目が二つ、暗がりの中で光っていた。なのだの体を光は突き抜け、なのだの体をチョンの声が突き抜けていった。
「茅たのむ たよる茅
 茅をむしろに 敷き寝する茅
 茅まくら 宿る茅
 茅を燃いせよ 心あれ茅
 茅の火の玉 武蔵野の茅」
 茅の穂が揺れていた。サッカー場のネットはない。照明灯も、杉の木立も、すぐそばのガードレールも、道さえもなく、一面の茅に囲まれて二人は立っていた。
 流れの音がした。もし、ここが東伏見ならば、石神井(しゃくじい)川が流れている。もし、ここが全く別の土地ならば、川の名前をなのだは知らない。なのだの心を流れているまりちゃんのように、もろもろの名前は、切っても切れない関係を結んでいるのだ。
 歌ともつかぬ、祈りともつかぬチョンの声がなのだとの関係を迫るように向かってくる。背を向けて、なのだは駈け出した。茅の葉が、頬を削ぐように向かってくる。両手で左右に跳ね除けてやると、茅の葉は、なのだの手に切りつけて飛び去っていくのだった。この野郎と、根元を狙って踏んづけてやる、折れ曲がった茎は、なのだのスカートにからみ、走る体を不安定にした。
「何ぞ逃げ給ふや。我は怪しき者には非ず」
「茅たのむ! たよる茅!」
 十二分に怪しいチョンを真似て、なのだも唱えてみる。たのんでみたのに、たよられた茅は立ちはだかり、逃げるなのだを相変わらず邪魔するのだった。大自然は、なのだの敵のようである。
 逃げても逃げても茅の中だった。もう一晩がたってしまったのか? 空は日の色に染まり輝いていた。走っても走っても近づかない川の音が、なのだをはやしたてるように響いている。もし、それが石神井川だとするならば、そちらは南――南へ向かうなのだの右は西であり、東は左のなずなのだ。
 太陽は、右にある。日没は、居眠りをしながら電車の中でやり過ごしたはずなのに、これが日没だとするなら、一体、いつの日没なのだろう?
 手招きをするように、穂という穂が揺れている。だれを呼んでいるのだろう? 地上めがけてゆっくりと近づいてくるのは、赤い太陽だった。
 まりちゃんの死を知った時、なのだは一人、坂の上の歩道橋に立った。夕日が映える夕方だった。きつい光をなのだの眼に浴びせると、太陽は、歩道橋の近くのマンションのてっぺんに沈んでいった。命のサイクルの色を浴び、なのだの心音は乱れていた。不整脈となった心を抱え、なのだはようやく生きてきたのだ。
 茅の中で、なのだの足は止まっていた。大自然を踏みつけて、ただひたすらに逃げ続けたなのだの足は、履いたスニーカーとの見境がつかなくなるほど泥にまみれていた。泥から伸びる一茎の茅となってここに立ち、ここで夕日を浴び続けることができたなら、それは癒しの極地なのだろうが、追いかけてくるチョンは暴風よりも恐ろしい。
「ウニャー! イョゥー!」
 叫び声がする。古語辞典では見つけられそうもない言葉だった。チョンではない。追いかけてくるチョンとは反対の方角から、声は聞こえてくる。
 丘が空を狭くしていた。森が聳えている。一本の木の枝には猿が止まり、口を開いていた。
「ウニャー! イョゥー!」
 斜面をゆっくりと下りてくるもう一匹の猿の姿が見える。叫び声には反応もせず、斜面の猿は、丘の下の流れを飛び越えた。茅が揺れる。茅の中から現われた猿は、なのだにお尻を向け、走ってくるチョンを見据えた。猿の顔は見えないが、お尻には熱っぽい表情がみなぎっている。ハレの日のお餅のように、睾丸がふくらんでいた。
 チョンの足が止まる。猿が飛びかかった。引きちぎられ、食いちぎられた衣服がチョンのまわりにたちまち散らばる。烏帽子も沓も散らばり、チョンの丸裸になった体を両腕で覆ってうずくまっていた。
「何卒、我をば助け給へ!」
 哀願の言葉が飛んでいる。丸裸の至るところに引っ掻き傷が走っていた。血がにじんでいる。ここはクリミア半島ではないはずだが、F・Nの使徒として、この負傷者をほうっておくわけにはいかないだろう。
 近寄ったなのだのスカートに、飛びついてきたのは猿だった。
「イヤ〜ン!」と叫び、蹴飛ばしてやる。ウンともスンとも言わないで、猿は手を離した。なのだを見上げながら、倒れた茅の上にお尻を下ろす。
 開いた足の真ん中から、ペニスが突き立っていた。猿の右手はそれをつかむと、上下にしごきはじめる。
「ウニャー! イョゥ!」
 叫び声が間近でする。木の上に、猿は見えなかった。手淫の猿の目の前へ、お尻を突き出してしゃがんでいるのだ。睾丸はない。夕焼けの空の色と張り合った赤い割れ目が、うれし涙をにじませるように濡れていた。
 雄猿は目もくれない。目はなのだを見つめたまま、ペニスをしごき続けるのだった。
「何卒、我をば助け給へ!」
 なのだの口から古語が飛び出す。うずくまるチョンの両肩をつかみ、なのだは背中に隠れた。
 チョンの背中は、汗を噴いている。なのだの手も同じだった。時間を掻き分けてここまできた二人の体は、背中や手だけではなく、全身が汗を噴いていた。にじんだ血を汗が運び、チョンは血だらけになっている。
 チョンの肩に当てた手を、なのだは思わず離した。なのだの白いブラウスが、チョンの血で汚れてしまうことを恐れたのだ。クリミア半島には、とても行けないなのだである。
「悔しや悔し、かの猿、なでふ名に負ふ猿にござるや」と、チョンは肩を震わせた。
「ここが東伏見の早稲田のサッカー場だとすると、東京都っていうことになるよね」
「?」
「都の猿だね。そう、都猿。都猿だよ」
「都猿……」
 おうむ返しに言うと、チョンは言葉をとぎらせ空を見上げた。夕焼けの色は消え、空は暗くなっている。闇の果てから言葉を奪おうとするかのように、チョンの目には力がみなぎっていた。
 都猿のペニスと手にも力がみなぎっている。みなぎった二つの目は、なのだに注がれたままだ。怖いものみたさのなのだは、チョンの後ろから顔を出しては引っこめた。
 精液が飛び、都猿のあごを打つ。あごの先から精液をたらしながら、都猿はどんよりと体をまわした。
 背中を見せ、都猿は遠ざかっていく。後を追うのは、相手にされなかった牝猿だった。その心中はグチャグチャだろうが、なのだの心中もグチャグチャだった。
「都猿、都猿、都猿」
 チョンのつぶやきがする。チョンの目は、都猿を追いかけてはいなかった。踏み荒らされた茅の根元に膝を突き、なのだの目を見つめるのだ。なのだの首筋が見つめられる。なのだの胸元が見つめられる。なのだが目を落とすと、ブラウスのボタンが一つ取れ、胸元が開いていた。茅の葉の引っ掻き傷が、赤ペンを入れたようになのだの胸についている。
「都猿、都猿、いざこととはむ」と、チョンのつぶやきが少し変わった。
「猿のことは、猿に聞いとくれ」と言いながら、なのだは胸元を両手で覆い隠した。
 チョンの目は猿を追わない。探しものを見つけようとするかのように目玉を動かし、なのだを熱っぽく見つめ続けるのだ。

 看護はひとつの芸術である。そしてそれを芸術であらしめるには、画家や彫刻家の仕事と同じように、他を顧みない専心ときびしい準備とが必要である。いのちあるからだ。すなわち神の魂の宿り給う言を扱うのに比べれば、生命のない画布や冷たい大理石を扱うことが何であろうか? 看護は最上級の芸術のひとつである。最上級の芸術のなかでも最も優れた芸術であるとさえ私は言明してきた。

 F・Nの言葉である。看護という芸術のほんの入り口に立ったばかりのなのだだけど、もしかしたら、なのだ自身が芸術作品なのかもしれない。熱っぽいチョンの視線を浴びていると、そんなふうに思われてくるのだった。

ひたすらに 善を求めて 心も清く
みじめなる 兵士のために 命も捧げ
死者には祈り 勇者を憩わせ
兵士らの 魂(たま)の救いに つくせし女性(おみな)
手負いたる 兵は今なお 慕いてやまず
兵の護り手 女性と讃(たと)う
ああ神よ かの女(ひと)を守り 力づけ給え
ああ令嬢 ナイチンゲール 神よりの使者

 クリミア戦争中、ロンドンの出版社にとぐろを巻く文士たちによって作られたナイチンゲール讃歌の一つなんだって。この歌はね、戦後半世紀もたったかつての連隊の懇親会で、まだ歌われたっていう極めつきの讃歌なんだよね。熱っぽい視線を浴び続けられるんだもん、F・Nは自分自身が一つのアートとなって生きなきゃならないじゃん。九十歳で亡くなるまで、看護に関わる数々の文章を著わし看護学を切り開いていったF・Nなんだけどさ、戦争から帰って五十四年、寝たり起きたりの状態の中での仕事だったんだって。兵士たちの無惨な傷、無惨な死に向き合ったPTSD――心的外傷後ストレス障害だったんだって説もあるんだよね。傷病兵たちのエッチな視線に貫かれたPTSDなのかな? 深夜、燭台を持ち、たった一人で病棟をラウンドしていくF・Nの姿はブロンズ像にもなってるけどさ、夜八時以降、ナースが病棟に入ることをF・Nは許さなかったんだよね。F・Nは、ナースと傷病兵のスキャンダルを恐れたの。そのころ、ナースの社会的地位は低くてね、ふしだらな女の代名詞だったんだって。スキャンダルで評判を落としてしまうことは、看護をアートの域まで高めようとするF・Nにとって、我慢のならないことだったんだよね。だから、深夜のラウンドはF・N一人でやるしかなかったんだ。
「名、名、名――名にし負はば、いざこととはむ都猿、わが思ふ人、は、ありや、なしや、と――これでよし。筆はいづこ、懐紙はいづこぞ」
「フフフフ」と笑いながら、なのだは辺りを探すふりをした。『伊勢物語』の歌のパクリに、まじめにつき合ってなどいられない。
 ふまじめな目に入るものは、都猿に引きちぎられた衣服だけだ。泥まみれの衣服の切れ端をひっくり返し、チョンは筆と懐紙を探している。目は血走っていた。
「いとどあはれなり」
 言葉を発したチョンの目の先には、水たまりがあった。つかみ上げた手の先には、泥だらけの懐紙の束が濁った滴をたらしている。手が震えていた。涙がチョンの頬を伝わっている。この一途さは、とてもパクリの歌人とは思われなかった。もしかしたら、いざこととはむ都鳥と詠った『伊勢物語』の方がパクリなのかもしれない。とすると、この男こそ、在原業平その人ということになる。一千年の時を、なのだは飛び越えてしまったのだ。
 在原業平がやってきたということは、小学校の社会科の時間に学んだことがある。東伏見小学校は昔の神社の跡地だったのだが、鎮座を祝い村人が集まった日、業平も歌を詠んだり、神楽を躍ったりしたのだという。
 思い出した。そのころ、この辺りは、穂屋(ほや)村と呼ばれていたんだ。できたばかりの神社の名は、穂屋神明社だったと思う。「ほや神明社は、いづこの方角や」と、なのだは道を尋ねられたが、業平は鎮座を祝いに行こうとするところだったのだ。
 日はとっくに沈んでいる。燭台を片手に、ここへF・Nが現われてくれれば、どんなにありがたいことだろう。
 辺りを見まわす。スカートのギャザーが揺れる白い影はどこにもなかった。揺れているのは茅の穂と、真っ裸の業平の体だ。風が冷たい。
「はっくしょん」
 こらえきれずに業平がくしゃみをする。くしゃみには、古今の区別はないようだ。親しみがなのだの筋肉をほぐし、なのだもくしゃみをしたくなった。初夏のブラウス一枚で、秋の季節に迷い込んだなのだなのだ。
「はっくしょん、はははっくしょん、はっくしょん、はははっくしょん、はははっくしょん」
 積もり積もったストレスをぶち壊すように、たて続けにくしゃみが出る。血がリズムを打って流れ、リズムがなのだの手を動かしていた。ブラウスのボタンを、なのだは外しはじめたのだ。
「そのはなひる、五七五七七と音をば並べ、神明の調べ奏でけり。言の葉弄じる我が歌叶はず」
「冗談は止めてよ。さあ、ブラウスを腰に巻きつけるからね。前だけでも隠さなくちゃ。穂屋神明社までたどりついたら、村の人たちが何とかしてくれると思うよ。一緒に行こう」
 ブラウスを脱ぐ。ブラジャーをつけた上半身があらわになった。見たくば見よ。我、一つのアートと化さむ。いや、これは古語――なのだの言葉なんかじゃない。大きく息を吸って、なのだの言葉で言ってみよう。
「なのだこそ、アートだよ〜ん!」


 文中、次の本から引用した部分があることをお断りします。
『ナイチンゲール言葉集』 薄井坦子編 現代社
『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』 セシル・ウーダム・スミス著 武山満智子、小南吉彦訳 現代社


入力者註
原則直筆原稿通りに入力していますが、明らかな誤字脱字は[]内に補足してあります。

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