骨踊り(10)

向井 豊昭


 産室からはずんでくる第一声に耳をそばだてながら、壁一つへだてた病室でシーツのしわをゆっくりと伸ばしたこと――窓の外では、山の紅葉が一面に輝いていたものだ。
 初節句には、兜と鍾馗を買ってきた。小さな兜はすっぽりと頭に入り、それをいやがって外そうとする小さな手をみんなで押さえて笑ってしまったものだ。笑わなかったのは祖母である。
「かわいそうじゃありませんか。赤ちゃんをおもちゃにしないでください」と、先に立ってふざけている妻に注意をしたものである。
 兜と鍾馗を買ったのは、苫小牧に出張した時だ。運動会の遊戯の講習が終わると、足をはずませてデパートにいった。兜だけを買うつもりだった。だが売場を歩いているうちに、鍾馗も欲しくなってしまったのだ。
 かつて家にあった二つである。父が送ってくれたと言われていたものだ。鍾馗の手にした小さな刀を抜き取り、頭にのせた小さな兜を片手で押さえ、部屋の中を飛んで跳ねた。百人斬りの豪傑となって、息をあえがせたものである。
 二つの品物を選んでいると、不意に顔も知らない父の姿が自分の中に重なってきた。父もこうして選んだのだ。こうして時間をかけ、父は買い物をしたのだ。……
 ドアの音がした。娘である。
「ワーッ、真っ赤な顔! また飲んできた!」と、妻はすかさず声を入れる。
「世の中、バカばっかりなんだもん。酒でも飲まなきゃ生きていかれないよ」
 娘のやり返す声がソファーに伸ばした足の先で聞こえた。
「おい、豆大福食わないか?」と声をかける。ようやく揃った家族の数が弱い胃袋を励ましていた。
「群林堂?」と、娘が聞き返す。
「いや」
「なあんだ」と、娘は豆大福にのってこない。
「今日はパパのお母さんの命日なんだって。お線香上げて、仏サンからいただいてきなさい」と、妻が口を出す。
 仏壇の部屋に娘が消えた。鐘の音がする。豆大福の包みを持って現われた娘は、足を横に投げ出して座った。
 食卓の上の開いた包みにみんなの手が伸びる。箸を置いて息子が伸べた右手を妻が軽く叩いた。
「駄目、お線香を上げてから」
 息子が立ち、鐘の音がまた響く。
「これ、いくら?」
 モグモグと口を動かしながら娘がたずねた。
「百円」
「高いなァ」
「高くて、まずい」と、息子が追い討ちをかけた。まだ豆大福をつかんだばかりである。
「せっかくパパが買ってきたのに、そんなこと言うもんじゃないよ」
 口の中の豆大福を飲み込むと、一拍遅れで妻が言った。
「群林堂にはかなわないよ。あれは芸術品だもん」と、夫は手の中の豆大福を眺めながら言う。
 いかにも日本的な、隠し味のような豆の姿だ。群林堂はこうではない。無人の岩礁のアワビのように黒豆が溢れ、汐の味を吸い込んだ豆は甘味をたらした餡の味と口中で交わる。辛と甘、陰と陽――二極のバランスそのものとなって舌の上に広がるのだ。値段は何と、一個八十円という安さである。
 はじめて食べたのは、東京に出てきて間もないころだった。娘が買ってきたのだ。専門学校に通っていたころの間借り先の近くに店があり、たまたま買ったのが最初だという。
 一年前の夏休み、護国寺のあたりを散歩していると、十人ほどの人間が列を作っていた。マンションの一階に店が並び、一番左側の店の中から列は伸びている。看板の文字は『群林堂』だった。
 ああ、ここかと、早速列に並んでしまう。
 列が進むにつれ、店の中が見えてくる。店頭にいるのは、オニイチャン一人だった。木箱に並ぶ豆大福がなくなると、オニイチャンは後ろの仕事場に引っ込んでいく。空の箱と引き替えに、できたての豆大福が並んだ箱を両手で抱えて戻ってくると、ショーケースの上に置き、客の注文に応えるのだ。
 包装をする前に、オニイチャンは必ずショーケースのガラス戸を開け、豆大福の木箱をしまってガラス戸を閉めた。ショーケースには諸々の和菓子が出番を待っているのだが、お呼びはほとんどないようだった。
 包装が終わり、銭をもらうと、次の客のために再びガラス戸が開き、木箱が取り出される。豆大福が主流ならば、出しっ放しにしておく方がはるかに能率的なはずだった。だが、オニイチャンは、そうしない。豆大福の柔らかさを守るために、包装の短い時間、少しでも空気にふれないようにショーケースへの出し入れを繰り返していくのだった。……
 手の先の粉を払い、娘が立った。プッシュホンを持って、娘は自分の部屋のふすまを開ける。
「アッ、忘れてた。お姉ちゃん!」と、妻が呼び止める。
「何さ」
「電話代、二万円も取られたんだよ。今月から、下宿代値上げするからね。一万円の値上げだよ」
「何言ってんのさ! 六万円も払ってんだよ! みんなから公平にお金取ってよ! 働かない人が一人いるでしょう! 働かせてよ!」
 息子が立ち上がる。ベルトの金具に手がいった。腰から抜いたベルトを振り上げ、姉に向かって飛びかかっていく。
 姉の手からプッシュホンが落ち、けたたましい音をたてた。部屋に逃げ込む姉を追いかけ、弟の体が飛び込んでいく。
 親二人が後を追った。部屋の隅に追いつめられ、姉は膝を突いて弟を見上げていた。振り上げられたベルトに備え、姉の片手は頭をかばい、もう一つの手はベルトに向かって突き出ている。
「何さ! 何すんのさ!」
 声はふるえ、目はおびえていた。
 振り上げたベルトは、襲いかかるのをためらっている。仲裁の手を待つように、ベルトは宙でゆれていた。
「やめろ!」
 息子を羽交い締めにすると、息子の体が腕の中でゆれた。力を抜いたゆれである。
「離せよォ!」と、声だけは張り上げている。
 手をほどくと、息子はベルトを引きずりながらふすまの外に出ていった。落ちたプッシュホンを蹴飛ばして息子の足は玄関へ向かう。妻は息子を追いかけた。
「こんな時間に、どこにいくの?」
「どこでもいいだろう」
「よくないわよ。ママもパパも心配するでしょう」
「勝手に心配しろ」
 二人の体は見えないが、二人のやりとりは聞こえてくる。
 カーペットの上の受話器に手をやる。伸びた線がバネのように元に戻った。数字の並ぶボタンのわきに受話器を置くと、赤いランプが消えた。両手でプッシュホンを取り上げ、電話台に戻す。モノにはたちまち平常がよみがえるが、心の中の赤いランプはすぐには消えてくれなかった。息子の美談で締め括ろうとしていた一日、不意に訪れたカタストロフィーである。
 ドアの閉まる音がした。戸棚の陰から現われたのは、眉間に皺を寄せた妻の顔である。
「破局だ。慥柄家の破局だよ」
 妻の眉間に追い討ちをかけると、妻はたちまち皺を伸ばし、笑いながら言い返す。
「大げさ、大げさ。パパは一人っ子だから、すぐ深刻になるのよ。わたしなんか、兄弟姉妹五人もいたんだもん、喧嘩なんか日常茶飯事だったのよ。ワーッ、十一時過ぎたァ! 寝なくちゃァ!」
 今日のニュースを文字で並べたボードの前で、キャスターがまとめをしている。今日ねえ、天安門でねえ――今日ねえ、リクルートがねえ――そんなふうにはしゃべらないが、まあ似たようなものである。この世の表相(*ママ)をボキボキと外し、骨踊りを見せているのだ。
 ♪バラバラバラバラ
 囃子唄のようなキャスターの饒舌に50CCの音が重なる。
 ♪バラバラバラバラ
 外れながら遠ざかっていく50CCの唄に耳を傾けながら唇を動かした。
「どこにいったんだろう?」
「じきに帰ってくるわよ」
 事もなげに言ってのける妻の声が寝室から聞こえる。プッシュホンには遅れを取った平常だが、妻は天晴なモノだった。モノである体一つがマットを抱え、マットを敷く。敷布団をのせ、シーツをかぶせる。枕を置き、タオルケットを広げ、掛布団を掛ける。たちまち寝室を仕上げていく体の動きを妻の心は追いかけているようだ。ともかく、先ずは動くことだ。
 胃潰瘍の薬を二粒、口に含む。流しに立ち、コップを持った。水を注ぐ。蛇口を止め、コップの水で薬を喉へ通してやる。
 洗面所のノブをひねり、今度は歯ブラシ。チューブを押し、口に入れた歯ブラシを上下に動かす。
 薬にしろ、歯ブラシにしろ、自分一人の口の中の小さな動きである。布団の上げ下げ、食事の準備、洗濯機もまわせば、風呂水も入れ、月収三十万の仕事もこなしてしまう妻の動きにはかなわない。
 食卓の上に小さな鏡台を置き、妻はクリームを顔に塗りつけていた。白いガーゼで皮膚をこする。明るい肌色をガーゼは吸いこみ、皮膚はくすんでいた。
 目を逸らし、煙草に火をつける。療養所に入っていたころ、消灯前の一本をくわえながら、まだ残っている煙草の数を数えるのが楽しみだった。ああ、明日もこの煙草を吸えるんだなあと思いながら、ゆっくりと一本を味わったものである。病人とはいえ、二十歳を越えたばかりの若さだった。明日は煙草の形を借りてまぎれもなく存在していたのだ。
 結婚し、子どもが生まれ、祖母が死んだ。葬儀も終わり、人々が引きあげていった夜、明かりを消した寝室でいつものように寝煙草を飲んでいると、ああ、今日も煙草を飲めたなあという思いが湧き上がってきた。次の夜も、そしてまた次の夜も、同じ感慨が襲ってくるのである。長い間の習慣だった寝煙草は一週間目にやめてしまった。……
 二本目を口にくわえ、短くなった一本目の火を移す。二本どころか、もう一本を吸わなければ、寝床にいくことができなくなったこのごろの自分である。闇の中での寝煙草はやめ、心の中の暗い感慨は追い払ったが、感慨は体の隅々にまつわりついているのである。ああ、今日も煙草を飲めたなあ。明日はもう、この世の人でないかもしれない。ならば飲め、末期の煙草をたっぷりと飲め。――言葉でそうは思わぬが、体がそう思っている。
 テレビのスイッチを妻が消した。静けさが闇のように立ち込め、煙草の先から言葉がゆらゆらと上りはじめる。
 二本目をあわててもみ消し、トイレに立った。一日の毒を流すように小便をするが、どっこい毒は流れてくれない。細い小便が便器の水を力なく叩き、小さな泡をたてた。水の色を黄色く染める威力はなく、陰茎は毒を溜めてうずいていた。
 うずきを流そうと力を入れる。したたるだけの小便は、水の上で泡もたてない。
 残尿感のつたわる陰茎をしまい、ハンドルを押した。渦を巻いて落ちていく水の勢いが憎らしい。
 トイレを出る。目の先の電話台からプッシュホンの姿が消え、娘の部屋の閉じたふすまに電話線がはさまれていた。
 戻ってくる少しの日常がうずきをやわらげる。電話台のかたわらの椅子の上に、いつものようにシャツとズボン、そして靴下を脱ぎ捨てると、下になったパジャマを引っ張った。
 パジャマを着て、いつものように居間の電気のスイッチを消し、寝室に入る。いつものようにふすまを閉めると、いつものように妻もパジャマに着替えるところだ。枕元の電気スタンドがいつものように妻を下から照らしていた。シミーズの上から、いつもは妻の尻に掌を当てる。「だめ」と妻の手に払われるのが、日曜から金曜までの六日間のならわしだ。
 ♪バラバラバラバラ
 消えていった50CCの音が耳の奥によみがえってくる。仏壇の視線が背中をつかみ、一日の出来事が髪をつかむ。尻に向かって、いつものように手は出なかった。
 逃げ込むように布団に入り、眼鏡を外した。一日をたたむように、眼鏡のつるをたたむ。目をつぶり、胸の上で合掌した。
 受話器に向かった笑い声が娘の部屋から聞こえてくる。笑い声は踊っていた。
 ♪バラバラバラバラ
 勝手に笑え! 娘は娘、息子は息子、妻は妻だ。
 電気スタンドのスイッチを消す音がした。つぶった目の中の闇が深まる。
「カタッ」
 妻が外す入れ歯の音だった。
 ほろ見ろ。化粧や入れ歯、自分にまつわる異物を除き、妻もやっぱり、妻自身に戻っていくのだ。
 戻ろう。戻ってこい。外れていった二十二人の自分たちよ。踊って踊って踊り続けた骨踊りの一日は終わったのだ。
 ♪バラバラバラバラ
 宙を舞い、二十二人が戻ってくる。自分がゆったりと広がっていく。このまま永遠に眠りたいものだ。……


 了


編者注記(東條)
表記はすべて原稿通りのままとしました。表記ミスと思われるものについては(*)で注釈しました。
校正協力・ガザミ

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