一揆
向井 豊昭


      一
 村は飢えていた。
 ぎっしりと垂穂がそよぎ、三年ぶりの豊作を喜ぶ村人達は、祭の中ではしゃいでいる。
 軒につらなる真赤な造花の花々――鎮守の森を彩る数多の幟――笛や太鼓の音に浮きうきと山車は進み、花笠は乱舞する――
 だが、一皮剥けば、村はやはり飢えていた。
 暗い、じめじめとした土間の土――瘡のように道は続き、崩れかかった土嚢が川のほとりに沿っている――
 それら土の姿は、父母の、そのまた父母の、そして、そのまた……と、連綿と遡ることのできる昔から、絶えず飢え続けてきたのだ。
 豊かに稔った稲の輝やきは、幻影のようなものに過ぎない。牙を剥く御上の徴税は、この稔りをはるかな都市へ奪っていくだろう。そして、地べたは望んできた。本当の稔り、本当の輝やき、本当の命を胎み、産みだすことを――土下座で曲がった百姓達の足が、地べたへ向かって逞しく勃起し、激しく、何ものかを射精することを、おそらく地べたは望み続けてきたのだろう。
 土の願いも知らぬ気に、喜平は一人、草の上に寐(*ママ)転んでいた。風に乗って流れてくる祭囃子にも、彼の耳は感じようとしない。暮れていく秋の空を、ぼんやりと眺めるのだった。
 なつかしい故郷の山が、一年前と変らぬ姿で彼の視界の中にあった。なだらかな山なみの間にもっくりと聳える山は、死者の霊が集まると言われ、近郷在住の村人達は御山と称して畏敬している。
 太陽は、その御山の頂きに没しはじめ、夕焼けが空を深めていた。それは、繰り返し襲ってくる凶作の中で飢え死にした人々の血の叫びにも似ていた。だが、喜平の目は、相変らずぼんやりとしたまま、焦点のない視線をどこへともなくめぐらすだけだった。
 いつの間にか、太陽は落ちきった。空腹が喜平の心をうながし、彼は動物のようにむっくりと起きあがった。
 
「早く、江戸さ行きてえな。」
「弥作、同じこと何回も繰返すなじゃ。」
「ホッ、何回でも聞かせてやる。早く、江戸さ行きてえな――吉原とは言わん、品川あたりの岡場所で、女郎衆のぬくい身体を、早く、思いきり抱いてみてえもんだ。」
 取入れを待つガランとした穀倉の中で、赤い衣裳をだらしなくまとった四、五人の若者が、かなり酔ってとぐろを巻いていた。
 村の若者の寄合い場所ともなっている若屋と呼ばれるこの穀倉は、どこの村にもある。
 隣村の若屋で一人の若者が死んでから、もう二十年ほどにもなろうか――亭主の留守をあずかっていた村で評判の美しい女房に、夜這いをしかけたその若者は、女房に短刀で切りつけられ、血だるまとなって若屋へ転がり込んできたのだ。
 彼は絶命し、女房は藩主から、貞婦と讃えられた。そして、いつの間にか夜這いの習慣は衰え、娘と若者との抱擁も、婚姻を意味するものでなくてはならなくなっていたのだ。
 若者達は、性の吐け口に飢えていた。
「弥作はいいな。おらの親父は頑固者だから、どうしても江戸さ出稼ぎに出してくれん。江戸さ行くのは、ろくでなしになりに行くことだと、頭から決めてかかるんだ。」
「出稼ぎしねえば喰えんくせして、年寄りは痩せ我慢するからな。そんな年寄り、恐れることはねえ――娘もろくに抱けん、こんな村にいて、何の楽しみあるべえ。おらは、何とかして、一生、江戸さ住みつきてえと思ってるんだ。」
 酒で赤い顔を、ますます赤く力ませて弥作が言うと、若者達は口々に叫んだ。
「娘の話は止めれ!」
「おら、もう我慢ならねえ!」
「娘、引っぱりに出かけるべ!」
「引っぱるべ!」
 
 長々と田圃を横切って、喜平はやっと並木道へ出ていた。黒くかぶさる松の枝葉の間からは星が輝やいている。だが、美しい≠ニ立ち止まることはおろか、微かに感じる心さえも喜平は失っていた。
 人にとって、遠いものは美しいものであるべきなのだ。そして、喜平が見た遠い江戸は何だったろう――
 駕籠かき、大名、非人、富札、穢多、川開き……
「助けてけれえ!」と、その時、女の叫び声が喜平の耳に響いた。
 彼の向かっていく方向で、いくつかの人影が、もつれるように木立の中に入って行く。
 喜平は、無表情に歩いて行った。
「何してる! 口さ早くふてしてしまえ!」
聞いた声だな≠ニ喜平は思った。だが、それだけのことだ。彼は相変らず、表情も変えずに通りすぎようとしていた。
 その時だ。犬のような速さで、子供が彼方から走ってきたのは――
「とせ! とせ!」
 姉の名を呼びながら、爲蔵の小さな身体は幹の蔭に見えなくなり、呶鳴り声がたちまち返ってきた。
「この餓鬼! ここまで追ってきたんか!」
「おら家のとせさ、何する!」
 爲蔵は負けてはいない。松の木立を震わすように、疳高く言葉を発する。
 震わすようにだった。震わしはしない。幹はどっしりと現場を囲み、遮二無二飛びついていった爲蔵は、首すじを掴まれて泣きだした。
 いつの間にか道に立ち止まっていた喜平の心を、泣き声はしぶきのようにサッと濡した。
「止めろ。」
 草を踏みしめて喜平は進むと、短かく言った。
「だ、だれだ!?」
 若者達はとせから手を離すと、酒臭い息を吐きながらよろよろと寄ってきた。
「お、おめえは喜平!」
喜平!
 爲蔵の首すじを掴んだまま、仲間の背後から邪魔者をうかがっていた弥作の心は、不意に猛々しさを失した。彼は爲蔵を手から放すと、転がるように道へ走った。
「オッ、弥作!」と喜平は叫んだ。
 一隊は、あわてて、弥作に続いて逃げて行った。
 晴着の裾をしきりに合わせながら、とせはしゃくりあげていた。その首につかまりながら、爲蔵も泣いている。二人は、いつまでたっても泣き止まず、喜平はどうしていいのか戸惑っていた。だが、思いきって、とせの肩に手をかけた。
「さあ、立つべ。」
 忘れていたふるさとの言葉が、知己のようになつかしく口から出ていた。
 三人は、黙って歩きだした。
 秋の夜風がさわやかに身に沁みる。まだ鳴り止めぬ太鼓の音が、夜風に乗って心地よく喜平の心を叩く……
 かって、彼の心に飛んだ蝉のように健康なのぞみは、その短かい夏をとうに終えていた。そして、抜け殻のように動かなくなった彼を、幼ない爲蔵の一途な泣き声は、一つの行為へと動かした。
 とるにたらない出来事のようでも、今、しっとりと浸されていく乾いた心の変化に、彼はふっと気づくのだった。
 だが、弥作の醜い後姿を思い浮かべると、心はたちまち元に戻る……
 
 あれから二年がたつ――
 風、雨、半鐘、氾濫する大川……
 一夜明けて、村人達は血走った目で立ちつくしていた。
 將棋(*ママ)倒しとなった青い命。泥の中で溺死した、それらははてしない稲のむくろ……
 あの時の弥作の姿が、まざまざと喜平にはよみがえってくる。
「おらは負けん。」と、弥作は低く叫んだ。
 広い額には生気がみなぎり、濡れた目が輝やいていた。
「おらのような百姓にも、望みっちゅうものはある。花が咲き、実を結ぶ、稲の命が百姓の望みでねえか――今年が駄目なら来年、来年が駄目なら再来年――おらは、どこまでも、望み捨てねえぞ――」
 若竹のような弥作の言葉に弾かれて、喜平の心で飛び起きるものがあった。
「弥作!」と彼は叫び、二人は抱き合って泣いた……
 
「おじちゃん、おら家さ寄ってかねえか。おら家の栗餅、うめえぞ。」
 いつの間にか村に入り、三人はとせの家の前にさしかかっていたのだ。
 ケロリと恐怖を忘れた爲蔵のあどけない声に、喜平は胸が刺されるようだった。
 おじちゃん――そんな年ではないが、確かに喜平の心は、若者の心ではなかったからだ。
「なあ、おじちゃん、来いじゃ。」と、爲蔵は喜平の袖を引張る。
「何も御馳走ねえけど、祭だもん、酒くらいあるべ。寄ってって……」と、とせは何故か躊い(*ママ)がちに言った。
 喜平は、顔を曇らせて答えた。
「有難う。けど、今日はこのまま帰る。」
「そんなら、あした来てくれるけえ。」と爲蔵。
「……」
「げんまんするべ。」
 爲蔵の小さな指に招かれて、喜平は澁々げんまんをした。
 とせは複雑な心を抱いて、二人の指を見つめていた。
「指切りげんまん、針千本。死んでも生きても米百俵!」
 大人の心を知らぬ無邪気な声に、とせの八重歯が、ふと、夜目にも白く光った。
 喜平は、すたすたと去って行った。
 八重歯の白さに疼きながら、彼の顔はまだ曇っていた。とせが見せた躊いの意味を、彼には読みとることができたからだ。
 父無し子であるということ、ただそれだけのことでもって、喜平はどれだけ、冷たい視線を浴びてきたことだろう。
 性解放の道徳は、貞節を旨とする封建道徳に浸蝕され、父無し子は、村の恥として扱われるようになっている。そして、喜平は、その一人だったのだ。
 暗い心で家へ向かいながら、それでも、とせや爲蔵と交した二言三言が、喜平を少しは快活にさせていた。江戸から戻って五日もたつというのに、彼は、まだ人と口をきいてはいなかったからだ。いや、きこうとしなかったのだ。
 
「喜平! まあ、何用あって帰ってきた!?」
 あの日、疑いと、喜びの交錯した目つきで母が彼を迎えた時、たくわえた言葉が、煙のように消えていくのを、喜平はぼんやりと感じていた。
 何一つ変らぬ村の風景――鬱然とした家々――
 戸をくぐれば、変ったものは母だった。一年足らずの間に、母はめっきり老いていた。
 何をめあてに一生を過すというのだろう。生きることの意味とは何なのだろう――
 都の生活に疲れはてた喜平が遠く想った村は、辿りつく時、所詮、村でしかなかったのだ。かって村から想った江戸が、決して美しくはなかったと同じように……
 
 寐つかれなかった。爲蔵の寐顔を見ると、とせはますますいらだってくる。昨夜の出来事などきれいに忘れて、爲蔵は眠っている。まるで、あるものは眠りだけ、眠りだけが永遠のように……
爲蔵、誰さも言うんでねえぞ
 喜平の後姿を見送りながら、約束させた口止めが、無用のもののように思えてくる。ホッとしながらも、自分に芽生えた感情が、自分固有のものであることを噛みしめて、とせはいらだつのだった。
 自分だけのもの。自分だけの……忽然と現われた自分の姿は、川面に映るそれのように定まらず、彼女は戸惑っていた。
 とせは、昨夜の喜平の姿を思い出していた。
 泣き崩れる彼女の肩に手をかけた喜平は、松のように逞ましく感じられた。江戸へ飛び出す以前、村人から蔑まれ、俯向いて歩いていた彼の面影を、どうしても感じることはできなかった。
 だが、喜平は、所詮、父無し子なのだ。それは、何故と問うことを許さず、絶対的に悪だった。
 彼女は床から脱けた。
 裏へ出ると、秋の冷気が彼女の頭脳を静めるように漂っていた。
 虫が鳴いている。
 鳴き声の洪水の中から、何か違うものの声がしたようだった。
 とせは、耳を疑った。
そんなはずねえ。いくら、げんまんしたからって……
 だが、「とせ。」と、声は低く、又も聞こえてきた。
「喜平。」
 胸の鼓動をありありと感じながら、とせは呼び返した。すぐ目の前の豆畑から、むっくりと影が立った。
 とせは、ゆっくりと彼に近づいた。喜平は動かなかった。豆の葉から夜露が飛び散り、とせの踝を濡らした。
 彼女は立ち止まった。男の匂が肌にふれるほど間近く、喜平の顔が、僅かに高くそこにあった。
 彼女は、思いきり快活そうに言った。
「げんまん忘れんで、よく来たのう。けど、遅すぎた。爲蔵は寐てしまったい。」
 喜平は黙っていた。とせも黙った。どちらからともなく、二人はしゃがんだ。
 豆の葉がきつく匂った。それは毒消しのように、とせの心をすがすがしくさせた。
 長い時間がたったようだが、それほどでもなかった。喜平は口を開いた。
「あしたの晩も、会えるべえか。」
 ひどく、真面目な言い方だった。とせは噴きだしそうになって言った。
「会ったばかりで、もうあしたの話するなんて止めてけれ。今、楽しければいいでねえか。」
「楽しいけえ?」
「おめえ、楽しくねえのけえ?」と、彼女は目を丸くして喜平の顔をのぞき込んだ。
「楽しい。けども、おら、やっぱりあしたが気になってならねえ。今は、夢みたいなもんでねえべか。朝になってみれば、おら達を待ってるのは辛い仕事だべえさ……百姓は百姓でしかねえ。江戸さ行っても、どこさ行っても、百姓は百姓なんだじゃ……」
それに、おら、父無し子だし……≠ニ、続いて出かかる言葉を押さえて、喜平は心の底へ沈んでいった。
「おら、難かしい話はわかんねえ。そんなことさ頭使って、年柄年中暮すなんて、阿呆臭えでねえか。おら、嬉しい時は、素直に笑いてえ。」
 八重歯が白く光り、抱きしめたい衝動が突き上げてくるのを、喜平はじっとこらえていた。
おら、嫁もらう柄ではねえ。そんなこと、とうにわかっていたことでねえか。村でも、江戸でも、おら、何回となく、惚れた娘を諦めたでねえか……嫁もらう柄でもねえのに、ここでとせを抱いて、赤児胎ませたらどうなる……父無し子のおらが、父無し子作るようなこと、してはならねえ。父無し子は、おら一代でたくさんだじゃ……
 苦い数々の思い出に締めつけられながら、喜平は悄然と立った。
「もう、帰るのけえ。」
「あすの仕事にさしつかえるべ。行って寐る。」
 喜平は闇の中を駈け出して行った。
 不意に走り去った喜平を、とせはあっけにとられて見送っていたが、やがて、言い知れぬ淋しさが彼女へまつわりついていった。昨夜の雄々しい彼の存在は、今は、赤とんぼのように物哀しい。そして、その物哀しい存在が、とせにはいとしくてならなかった。
 彼女は頭をたれて畠を出た。莚囲いの厠が、すぐそこにある。むくっと人が中から現われ、とせは仰天した。それは、父の友助だった。恐ろしい顔つきが、夜目にもはっきりとわかった。
「あれは誰だ。」
「……」
「言えんか。なら、おらが言ってやる。喜平だべ――厠さ起きてきたら、何やら畠で声がする。おめえの床は空だし、厠も空だし、いい男に想われたか、それとも、悪い虫ではねえべかと様子うかがったら……とんでもねえ。喜平でねえか。村を捨てて出た江戸の奉公にも我慢できねえ、あんな意気地なしの父無し子を相手にするなんて、おら、二度と許さんぞ。」
「……」
「こらっ! わかったのか、わかんねえのか! 黙りこくってねえで返事しろ!」
 友助は、気短かにとせの返事を強いた。
 とせは黙ってしゃくりあげていた。悲しい時には悲しむばかりの、彼女も又、女の一人であったからだ。
 
 その頃、若屋では酒宴がたけなわだった。祭のなおらいなのだ。
 弥作は、浮かぬ顔つきで隅にいた。言い知れぬ負目が彼の心に重たくかぶさり、その負目をおおい捨てようと、しきりに考えを編み続けるのだが、考えは粗雑な莚のように隙間だらけで、すっきりと編み上がろうとはしない。
 村のことだ。喜平が帰ったことはその日の内に伝わっていた。だが、突然あの場で彼に出会うまで、弥作にとって喜平は、埋葬された過去でしかなかった。噂は弥作の内部で、火玉のように淡く喜平をよみがえらせたに過ぎなかった。それがどうだろう。今は、激流のように喜平が渦巻くのだ。
おらと喜平は、餓鬼のころからの友達だった。父無し子と喜平は嘲けられたが、おらだけは喜平と遊んだもんだ。遊ぶんでねえという大人の入れ知恵は、おらには効き目なかった。おらは喜平を好きで、喜平はおらを好き――好きだということに芝垣なんかありはしねえ……でも、それは過ぎたことだ。喜平が村を出て行った時、おらと喜平の交わりは終った……
 彼と交した、最後の日の会話の一つ一つを、弥作はゆっくりと思い出していた。
 
「弥作、おら、江戸さ行く……」
「江戸? 江戸のどこさ出稼ぎに行く?」
「出稼ぎでねえ。一季居だけの奉公だども、真面目につとめれば、そのまま奉公続けさせてもらえるだ……江戸から商いに来る山一さんに頼んでおったら、呉服橋の南部屋という店に下男で入ることに決まったんじゃ……」
 野菊をくわえながら、うっとりと語る喜平に向かって、弥作は腹立たしく言った。
「おめえ、村を見捨てるんだな。」
「弥作、わかってくれ……一人前の人間ではねえおらたち土百姓……その村人達からさえ蔑まれて暮すのは我慢ならねえ……」
「そんな言いわけ聞きてえんでねえ。おらが言いてえのは、おめえには望みが爪垢ほどもねえってことだ。」
「おらが、何の望みもなく江戸へ出る? 本当にそう思っとるんか――」と、喜平は、きついまなざしで弥作を見つめた。
「思っとる。おめえの望みには、きびしさがねえ。おら、そう感じるんだが、違うけえ……黄金色の稲を夢見て汗水たらす、百姓のきびしい望みを持って、おめえ江戸さ行くんでねえべ……江戸は綺麗だ。江戸は美しいとこだって、うっとりと甘い夢見て、おめえ村を出て行くんだべえ……」
 そう言いながら、弥作は喜平の言葉を待っていた。
弥作、おらはやるぞ! 江戸さ行っても、百姓の根性忘れることはねえ!
 喜平が、そうやって両の手を差し出してくれたなら、弥作は黙って彼にうなずいただろう。だが、弥作の吐いた言葉は、落ち葉のように喜平の内部を吹き抜け、喜平は恍惚と江戸を想うようだった。
 
皮肉なもんよ。そのおらが、江戸さ行くって浮き浮きしてるんだからな……フン、あの時はあの時、今は今でねえか……おらと喜平の交わりは終ったんだ。今、何をしようと、恥じることはねえ……道は一本と限らん……道のはてには海もあり、崖もあるべえ。おらがふっと別の道へ曲がったからって……でも、でも……
 駄目だった。考えは古びた藁のように、ブツリと切れてしまう。どうしても、弁解はできない。弥作はいらだたしさで一杯になった。
 仲間の卑猥な話が声高に響く……弥作の頭は、ますますもつれた。
 彼は、ガバと席を立った。
「オッ、弥作、どこさ行く。」
「娘ひっぱりに行くのか。」
「いやいや、昨晩の弥作はどうだ。一目散に先を切って逃げだしたでねえか――腰抜けになってしまった弥作に、娘など、もうひっぱれるわけはねえ……」
「弥作! 座れ! ここさ来て飲め!」
 一人が立って、外へ出る弥作を追おうとしたが、酒に酔って腰がいうことをきかない。たちまち足がもつれて、その場にひっくり返った。
 何かわめいたが、大方は、それに気づこうともしない。むんむんとした酒気の中に、わめきは呑み込まれてしまった。
 
 畠を突っきり道へ出ると、喜平は大きく息を吸った。そして、歩きだした。
 昨夜の出来事といい、今夜の逢引きといい、それは動きを忘れた喜平にとって大事件であった。たて続けの二つの行為は、喜平に、或る力を芽生えさせたようだった。
 しかし、彼は、それに気づきはしなかった。彼はやはり、行為を手放した男、打ちひしがれた若者の心をもてあましているのだ。
 死んでいったいくつかの恋に並んで、新しい墓標を彼は又、自分の内部に建てなければならないのだろうか……
 月はなかった。だが、彼自身が一つの影であるように、喜平は茫漠とした心で歩いていた。
「喜平でねえか。」
 突然、声がして、喜平はギクリと立ち止まった。道端に腰をおろしたまま、彼を見上げる者がいたのだ。
 闇の中をすかして見ると、それは庄屋の土川安衛門だった。
 役人根性をふりかざし、悪徳を重ねる庄屋もある中で、安衛門は村人の人望を一身に集めていた。
 二十才を過ぎて間もなく父の死に逢い、若くして家督を継いだ彼は、何故か妻を迎えようとせず、やがて母もこの世を去るや、きびしく勧める者もないままに、四十の年を越えてまだ独身の身であった。
 欠点と言えば、それが村人から見た唯一の欠点かもしれない。だが、村人達は、それさえも善意に解釈して、役職に精出す余り、嫁を迎える暇もないのだと感謝していた。
 喜平が、まだ幼い頃から、安衛門は、道で行き会うと、決まって優しい言葉をかける。誰彼となく、そう振舞う安衛門だったが、小さな子供にまで声をかけるのは特別なことだった。
「江戸には、懲りたとみえるのう。」
 安衛門は、再び声をかけた。
 喜平は、自分の全てを見通されているような感じがして、ドギマギとした。
 安衛門は、喜平から目を外した。そして、すぐ足元から夜の中へ広がっていく稲田へ、じっと目をやった。
 何かを考え込むように、彼は打ち沈んでいる。まだ村人はわからぬが、秋祭りの最中に、代官所への出頭の達しが届いていたのだ。
 それが何を意味するものなのか、安衛門は、恐れをもって考え込んでいた。そして、今、喜平と出会ったことで、長い間くすぶり続けるもう一つの苦しみが頭をもたげはじめたのを、喜平は勿論、理解することはできなかった。
 安衛門の様子に疑いを持ちながら、喜平は、そっとその場を去るのだった。
 
 祭のなおらいから脱け出た弥作が、喜平と出会ったのはその後だった。弥作も又、影となって迷い歩き、そして、その彼方から、同じように一つの影が迷ってきたのだ。
 二つの影の感覚は次第に近づき、重なるほどの近さになった時、ギクリと、影は相互に立ち止まった。
 二人は、黙って田圃へ歩きだした。
 畔に腰をおろすと、抱き合って泣いた日の記憶が灯のようによみがえり、暗い夜の中で豊熟の最後を急ぐ稲のひろがりを照しだすようだった。
「変ったなあ、おめえ……」と、喜平はしみじみ言った。
 母が、しきりに話かける村の消息の中で、喜平は、弥作の所業を耳にしていた。
 飲酒、女、賭博、喧嘩に明け暮れ、勘当同然で、出稼ぎに行こうとしている彼の消息を知っていたからこそ、昨晩の弥作が、喜平の心に一層暗くうつったのだ。
「弥作のように思いきったことはできん……」と、喜平は又、言葉を続けた。「本当に、娘でも一思いに抱ければよいだろうに……」
 自嘲するような喜平の言葉に、弥作も又、自嘲を込めて言い返した。
「おら、自分の生き方を変えたんじゃ。おら一人がどんなに力んでも、どうなるもんでもねえ……百姓が馬のようなもんなら、一層、本当に馬になってやれ――働き、喰い、種つけに嘶く馬になってやれ――おら、そう心に決めた……ところがな、種つけだけはうまくいかん。嫁にしてくれるべ?≠ニ、娘どもは、アレをこわがるべ……仕方ねえから、おらは、江戸さ、種つけ楽しみに行こうと思ってるんだじゃ。」
 弥作の言葉は、喜平の胸をきりきりと刺すようだった。
 喜平は言った。
「弥作、おら、おめえに説教できる柄ではねえが、おめえ、間違ってるんでねえか……おめえの勝手な種つけが、おらのような父無し子を産ませることになったら、どうする。おめえ、それで平気なのか……」
「おらは馬じゃ。馬に何の罪がある。人間の目で馬を見るなんて止めてけれ。」
「本気で言うのか!」
「本気よ。おめえも、めそめそしねえで、楽しく暮す分別をした方がいいべえ。父無し子だ、百姓だと、いつ迄、そうやって甘えてるんだ。」
「!」
 喜平は、物をも言わず立ち上がると、拳を振り上げて、弥作のこめかみへ打ちおろしていた。
「ウッ。」と、弥作は低く呻いて身体を崩した。倒れる身体を支えようと手を出したが、そこには運悪く堰が流れている。飛沫を上げて、彼の上半身は頭から落ちた。
 喜平は、わなわなと慄えながら、その場に突っ立っていた。
 弥作は、ゆっくりと堰から身を上げ、喜平の前に立った。泥と水にまみれながら、顔はかすかに笑っていた。
 彼は言った。
「喜平、その拳を忘れるんでねえ。」
 喜平は、まだ握りしめたままの拳を、自分の目の前にかざしながら、茫然とそれに見とれた。
 涙が、次第に溢れていった。
 ぐいと、拳で涙を拭うと。彼は走りだした。
おらには、拳がある! おらは、今こそ、ブチこわしてやる! 古い暮らしの一つ一つを、ブチこわしてやる!
 
 二つの裸体がもつれるたびに、藁の音がその下で軋った。男も女も声はない。何千回と繰り返した習慣を今夜も積み重ねて、二人は深い眠りへ入っていくのだ。
 稲刈りが始まると、もうこんな余裕もなくなる。時を惜しむように、行爲は長く続いていった。
 汗がじわじわと身体に滲みだし、低く、何かを叫びあうと、二つの裸体は動かなくなった。
 女は、うっすらと目を開けた。男の顔が目の上にある。ぐったりとした彼の首を、女はきつく抱いた。
おらを揉んで疲れただ……おらを揉んで……おらを……
 満足げな女の腕に応えて、男は、女の首すじを軽く○(啜?)った。
 眠るために、それは必要な習慣だった。そして、例え牛馬のようにであれ、生きていくために、二人は深く眠らねばならなかったのだ。
 その時、寐間を仕切って下げている荒莚が、いきなりサッとめくられた。裸体を隠すゆとりはなく、二人は床の上に飛び起きると、互いの身体で、互いを隠そうと抱きあった。
 入って来たのは、喜平だった。
「気が狂ったか!」と、母は叫んだ。
 富四郎は、顔をこわばらせて喜平を見つめた。
 喜平は拳を振りあげて襲いかかった。富四郎は、その腕を掴んだ。四十を越えた者とは思われぬ強い力だった。
 長い組みあいの後、喜平は下になった。組み敷かれながら、彼は大声を張り上げて叫んだ。
「殴り殺してやる!」
 熱いしずくが、ポタリと喜平の額に落ち、こめかみを伝わって流れた。富四郎の涙だった。叫びは途絶え喜平はぐったりと動かなかった。
 母はおろおろと着物をまといながら、富四郎にも手渡した。彼は、それを引っかけると、喜平の身体からおり、その場に座った。
「喜平、そんなに、おら達が憎いか。」
「憎い。」と、喜平は大の字に倒れたまま、短かく言った。
 
 富四郎が、喜平の母、はるの入婿となったのは、喜平が、はるの胎内で五ヶ月の命を息づかせていた時であった。誰のタネとも黙して語らぬ彼女に、両親はあわただしく、隣村から富四郎をあてがったのだ。
 顔も知らず、妊娠さえも知らずに婿となった富四郎は、そのまま亭主として落ちついた。
 村人達は、そんな富四郎を嘲けった。ヨソ者の富四郎のことだ。嘲けりは尋常のものではなかった。
 喜平が父無し子であることは公然たる事実であり、物心ついた時から、喜平も又、辱めを受けて生きねばならなかった。
 
「お父も、お母も、腰抜けだ! 燃えかすだ! 灰だ!」
 倒れた喜平は、むくりと上半身を起こすと、顔を掻きむしって鋭く言った。
灰? そうじゃ、おら達夫婦は灰なんじゃ……土百姓の四男坊でしかねえおらが、格式も違う旦那嫁の娘と燃えあがったばかりに、添い遂げることもできずに灰となってしもうた。はるも、おらと同じ……おら達は、灰の姿で夫婦となっただ……けど、灰にだって、ぬくもりというものはあるだ。僅かに残ったぬくもりを絶やさんように、おら達は乏しい紙を交わしてきたんじゃ。これでも、これでも、愛というものはあったんじゃ……
 富四郎は、そう言いたかった。言いたかったが黙っていた。はるも同じ気持であった。何を言おうと、灰であることに変りはなかったからだ。
「おらのような男を、なぜ産んだ! なぜ間引きしてくれなかった! おめえ達、三人もの命を間引きして、なぜ、おらだけしてくれなかった!」
 喜平は、たたみかけてくる。
 富四郎は、やはり心の中で答えていた。
間引き、間引きと口走るが、命を葬る苦しみを、喜平はわかっちゃいねえ。柔らかな首に荒縄巻きつけ、力込めて引く時の残酷な愛は、わかるはずねえだ……灰の子供は、灰でしかねえ――そう思えば、生かすことこそ不憫でならねえ……地獄の思いで間引きしただ……おらは、地獄へ行く身よ、地獄へ行く身よと耐えながら暮してきた苦しみは、底知れぬもんじゃ……
喜平だけは産みたかったんじゃ……≠ニ、はるも又、口には出さず言葉を発していた。
喜平は、灰の子供じゃねえ。おらの若さを燃え上がらせ胎んだ炎の子じゃ――そう思って、おら、泣いて富四郎に頼んだだ。産ませてくれろってな……富四郎はうなずいてくれた。人に嘲けられながら、おらと一緒に喜平を育ててくれただ……
 何を言っても言葉は返らず、喜平は気力を失い座っていた。やり場を失して、拳はとうに開ききり、己れの膝を、指はギリギリと這うのだった。
 
 
      二
 刈り入れは終った。
 脱穀、米搗、年具(*ママ)米や小作米の納入と、多忙な季節の中で、村はとりわけ落ちつかぬ日々を送りながら、不安な面持ちで農閑期を迎えた。秋祭りの数日後、代官所に出頭した安衛門が、近郷一帯の庄屋ともども、見分の達しを受けて戻ったからなのだ。
 村境や、川筋などの、新しく耕やすことのできる空地を調べるため、実地を見分するというのが名目であったが、領主の意図は明らかに他にあった。
 どこの村境にも、どちらの地内に属するか分らぬまま荒れはてた地所は確かにある。川筋には、いつとはなく堆積した土砂や塵埃の上に葦が繁る空地もある。百姓は、それら悪条件の土地を、骨身を惜しまず、ひそかに耕やしては、一かどの田に仕上げていた。年具米として巻きあげられていく検地帳面上の土地だけでは、貧しい百姓達は暮らしをたてることができない。彼等は禁制と知りながら、隠田を開発せねばならなかったのだ。それが法に触れる以上、摘発するための見地は合法的なことではあった。だが、代官はそうは言わなかった。実情は承知の上で、検地ではない。空地の有無を見分して、あれば開発の計画をたてるのだと言う。
 今年は豊作だったとはいえ、ここ数年続いた凶作のために、村は完全に疲弊していた。刈り株だけが寒々と広がる田圃の風景は、まるでそのことを象徴するかのようであった。隠田の摘発によって、租税は新しくかぶさってくるだろう。そして、その納入は、百姓の餓死を意味するものであった。
 
 夕方だった。とせは、機を織っていた。家には誰もいない。爲蔵は遊びから帰らず、父母は、寺からまだ戻らない。見分への郡内の対策を決定する最後の庄屋大会へ、遠路はるばると出かけた土川安衛門の報告を待とうと、寺の境内を選んで村人はつめかけているのだ。
 出来事の重大さは、とせにもよくわかっていた。ここ二ヶ月の間というもの、誰の顔にも笑いはなく、ひそひそと語りあう姿が、田畑や道端、至る所で見受けられた。世の中のことには無頓着な十六娘とはいえ、鋭敏な若い心に、このことが響かぬはずはない。しかし、それにも増して彼女の心を占めていたのは、喜平のことだった。
 あれから、二度と来なくなった喜平の姿は、どこにも見かけることはなかった。江戸へ戻った噂も聞かぬが、戻らぬとも言いきれない。見分の話でごった返す村の中で、喜平一人の動行(*ママ)など、口にする者があるはずないからだ。
「オーイ! 待ってけれ!」
「早く来い! おめえも寺さ行くんだべ。」
「村の一大事だ。気にかかってならんわ。」
 戸外で若者の声がする。
そうだ。寺さ行けば、喜平の姿に会えるかもしらん。
 父、友助の気難かしい顔が、目にちらついた。喜平のことは、あれ以来、何も言わぬが、やはり、絶えず見張られているような気がしてならない。
 とせは、しばらく思案にくれた。
姿、ちらりと見つけて、戻ってくればいいべ……ほんのちらり……
 彼女は、そっと立ち上がった。
 
 既に見分を終った郡外の村々からは、役人の理不尽な所業が、風のように素早く伝わっていた。反別を測定する間竿には十二尺二分の目盛りを打ちながら、実際は十一尺六寸だというのである。太閤検地は方六尺三寸をもって一歩としたが、徳川の代になるや、それを方六尺一歩と縮尺した。数の上での地積を増量するならば、租税率は変らずとも、実質的には租税の増収となるのである。今、不当なる間竿で測定を許すならば、方六尺一分とは名ばかりで、方五尺八寸をもって一歩に算定されるという結果になってしまうのだ。しかも、未開地の見分と言いながら、検地済みの田さえ、手当たり次第に竿を当てるというではないか。
 度重なる代官所への、更には藩主への歎願も全く効果はなかった。それは、見分に名を借りたこの悪辣な検地が、正しく城の意思であることを現わ(*ママ)にするものであった。
 郡外の村々では、莫大な賄賂を見分役人に贈り、検地の手をゆるめてもらった例もあるという。郡内に役人の足がのびるのは、既に明日に迫っている。そして、その手はじめはこの村なのだ。
 賄賂は、出来ない相談だった。その金銭を用立てるには、背負い切れぬほどの借財を必要とする。それを承知でやった村は、恐らく、悲愴な決断を必要としただろう。
 村人達は境内にふくれあがり、重たい雰囲気で静まり返っていた。その中には、富四郎もいた。はるも、喜平も、弥作もいた。
「弥作、おめえ、江戸さ行かなかったのか。」
 弥作を見出した喜平は、嬉しさに溢れながら、人群れを掻き分けて近寄り、彼の肩を掴んだ。
 弥作は、緊張した顔つきで答えた。
「この大事な時に、村を捨ててどうして行ける。おめえに殴られ、堰さ首を突込んだ時、おらの腐った魂は水の中で洗われただ……あれから間もなく見分の話だべ。おらの骨節は、疼いて疼いて、どうにもならねえ……それより、おめえこそ、よくここさ来る気になったな。」
「拳忘れるでねえと言われたども、拳のやり場に困って、おら随分悩んだだ。家の中さ閉じ込もってばかりいたけど、今日の寄り合い聞けば、拳向ける時は今でしかねえような気がしてのう。」
 言いながら喜平は、あれ以来二ヶ月の自分の心が、次第に豊かになっていくのを感じていた。あの時、父母に振り上げた拳は、結局、本当の敵に何等の一撃をも与えず、何に対して、どのように戦えばよいのか、全く分からぬ喜平ではあった。しかし、今、敵を感じて駈けつけた彼の前で、弥作も又、戦いの意思をたぎらせている。それは、かけがえない友の存在を意識させ、喜平の孤独を解き放つのだった。
 だが、多くの村人――とりわけ、老いた者達は、生気を失して彼の周囲にいた。戦う意欲は湧きあがらず不平不満にどんよりと澱むその顔々は、同じ憂いに打ちひしがれている……そして、そんな人々にさえ、喜平は、生まれてはじめての深い親しみを感ずるのだった。何故なら、彼等は憂いているから……打ちひしがれているから……
 
 ざわざわと人群れが背後からゆれ、一條の通路が鐘楼へ向かって開かれた。庄屋の安衛門が帰ってきたのだ。
 旅姿もとかず、まっすぐに寺へとやってきた安衛門は、鐘楼に上るや、ごくりと生唾をのみこんだ。人々は息を止めて、彼の言葉を待った。彼は、じっと目をつむり、思いきったように言った。
「見分を、受けよう。」
 予期した言葉であった。それ以外に、どんな方法があるのだろう。幾度、庄屋大会を開こうが、決定的な対策などあろうはずがないのだ、と村人達は思いながら、やはり嘆息の声を洩らさずにはいられなかった。
「魂は、どこさ行った!」
 突然、高く響いた声があった。叫びながら、髪を振り乱して人群れを掻きわけ、鐘楼へ向かう者がある。それは、はるだった。
 鐘楼上に辿りつくと、はるは、いきなり安衛門の胸倉を掴んだ。
「富四郎カカ! 何するだ!」と、かたわらに控えていた組頭が、あわてて中に分け入った。
 安衛門は、黙って首を横に振った。組頭は手を引込めた。
 喰いつくようなすさまじさで、はるは、安衛門へ言葉を投げつけた。
「見分を受けるじゃと!? 鋤鍬とって反対すべえと、何故言うことができねえ! 百姓でもなく、侍でもねえ、庄屋なんていうもんは蝙蝠のような身分だ。親父が死んだら苗字帯刀かなぐり捨て、土にまみれて働くと言ったのは、どこの誰だったい! 若いころの根性なくして、おめえ、すっかり老いぼれてしまっただな! 聞くに堪えねえ嘲けり受けて、おめえのタネを育ててきたおら、やっぱり馬鹿者じゃったのけえ! 嘘偽りもねえ裸の姿で燃えたてた命の火を絶やしたくねえばっかりに、どれだけの苦労をして喜平を育ててきたか、おめえなんかに分ってたまるか! おめえや、おらが死んだ後でも、火ダネ絶やさずに燃えてくれろと心で願って喜平を育ててきたに、喜平の腰抜けは、おめえに似たんじゃな!」
 境内は、水を打ったように静まり返っていた。安衛門は、苦痛に歪んだ顔をそむけず、はるの言葉を浴びていた。
 一気に言い終ると、はるは、肩で深く息をした。興奮がおさまったのだろうか、安衛門から手を放すと、彼女はしんみりと語り続けた。
「喜平の腰抜けは、喜平一人のせいでもねえのう……父無し子は人でねえような、そんな村に何故してしまったんじゃろう……操じゃ、操を大切にせいという侍の言葉をおしいただいて、村は根こそぎ変ってしまったでねえか。その侍はどうじゃ――次から次と女房を持ち、平気な顔してるでねえか――」
 言いながら、はるは、再び激昂していくのだった。
「手前に都合のいいことばかりするのが侍じゃ! いつ迄、おら達は、言いなり放題になってるんじゃ!」
 いつの間にか、彼女は、力強く鐘楼の手すりを握りしめ、群衆に叫んでいた――
「やい、若い者ら! ろくな夜這いもできんで、よくここさ集まってきたな! 娘ひっぱるってことはな、遊びでねえだ。男と女の、抜き差しならねえ、まるごとの抱きあいなんじゃ! それがどうじゃ――おめえら、妾や女郎と乳くりあう、腑抜けな根性でしかひっぱれねえでねえか! 娘どもも娘どもじゃ――嫁にしてくれるべえか、くれねえべえかって、おどおどしおって、惚れた男に飛びつきもせん――おら達はのう、命というものがあるだ。明日はわからん、命というものがのう――出し惜しみせんで、生きとる内に、思いきり使えばよいでねえか――どうじゃ、おらの言葉、少しは骨身に沁み通ったか! 沁み通るめえ――おめえ達には、骨も身もねえ! あるはずがねえ!」
「あるだ! 骨も身もあるだ!」
 澄き通った娘の声が、谺のように一隅より跳ね返り、群衆を縫って、声の主は鐘楼へ飛びあがった。それは、とせだった。
「喜平! 喜平はどこにおる! おるなら、ここさ来てけれ! おらを抱いてけれ!」
 人々の塊りの中から、一つの顔を探そうとして、とせは鐘楼を駈けめぐった。
 喜平の心は、限りない衝撃を受けていた。衝撃は、胸底深く、母への愛を突き刺すと共に、父、安衛門に対する憎しみを、はてしなく湧きあがらせるのだった。愛憎にたぎる彼の心を、とせの叫びは揺さぶった。
 喜平の内部で、鍬のように振りあげられるものがあった。そして、彼の肩には、二つの手が掛けられていた。一つは、年輪のように皺を刻み込み、一つは、草のように若々しい毛を甲に息吹かせていた。富四郎と弥作の、その手は、優しく喜平の肩を押し、喜平の内部の鍬は振られた。
「おらは、腰抜けでねえ!」
 鐘楼上で、ひしと抱きあう二人を見つめながら、弥作は叫んだ。
「見ろっ! あの若い火を――おら達は、黙ってあれを見るだけなのか! 川原さ行くべえ! 若い心燃やして、篝火たくべえ! 見分役人を迎え撃つべえ! 庄屋様の老いぼれた心にも、燃えきれなかった若さがきっと眠っているに違いねえ――それさ、火をつけてやるのは、おら達若者でねえか!」
 そう言うと、彼は、山門めがけて走りだした。五、六名の若者がそれに続くと、それが誘い水であるかのように、群衆は激流となって川原へ流れて行った。
 安衛門の顔はひきつっていた。ひきつりながら、どこかで笑っていた。嘲けりの笑いではない。彼の待ち焦がれた時の訪れが、嬉しかったのだ。
 
 庄屋の職を相続してから二十年――彼は職の矛盾に苦しみながら勤め続けてきた。役人であり、百姓であり、村の代表者であり、村の敵ともなる庄屋職は、辞そうと思っても、自分一人の考えだけでは、如何ともなしがたかったのだ。
 世襲制度のこの職をかさにきて、不正をはたらくことに堪えかね、村方騒動は各所に起こり、庄屋の選挙制度をかちとった村もあったが、人徳のある安衛門のこととで、選挙制度を提案しても村人は応じなかった。村は彼を必要とし、彼は村への尽力を心に決めた。
 訴願の一つ一つで走り廻り、ひもじい家には、我が家の穀倉を開いて与えた。
 しかし、彼の力には限界がある。世の中を変えるためには、一人一人の力の結集が、何よりも必要なのだと、彼には思われてならなかった。そして、百姓は、牛馬のように黙々としていた。
 今回の見分のことで、数度開かれた郡内の庄屋大会に於いて、安衛門は熱心に、最悪の時には非常手段をとってでも反対すべきことを説いた。
 型通りの陳情では、型通りに却下されることは、今迄の例よりみて明らかであったし、そして、事実はその通りだった。抵抗は、一村だけでは駄目なのだ。一郡だけでも力は足りない。藩内全村に呼びかけて、全ての百姓の力を結集せねばと説くのだが、同意を得られぬまま、見分は郡外の各地で始められてしまった。
 仕方ない。力不足であろうとも、郡内が一つにまとまろう。その間に、見分を終えた村々にも応援を頼もうではないか。この機会をのがせば、百姓は、又もやずるずると、愚かに生きていくだけだろう――彼は主張し抜いた――しかし、御領主様のお達しだから……≠ニ、口を開けば庄屋達は言う。
 最後の最後まで主張した彼の意見が通らぬ以上、彼も又、見分を決意せねばならなかった。一村の孤立した戦いで多くの犠牲者を出し、犬死とすることは避けたかった。いつか、大きな目覚めの時が訪れるまで、命はたくわえておかねばならないと彼は思ったからだ。
 
 喚声をあげる群衆の流れを、はるは茫然と見つめていた。罵倒から彼女は覚め、安衛門の踏みだす一歩を信じて、熱い視線を向け直すのだった。
 因襲のしがらみの中で、彼が続けた独身生活がどんなにきびしい抵抗であったかと思いやりながら、あてがわれた富四郎との腑甲斐ない半生を、彼女は恥じていた。
 はるの視線を受けながら、皺でたるんだその顔の中に、安衛門は遠い日の面影を重ねていた。かっての愛の記憶は、もはや彼の心に、ありのままの色彩で呼び戻すことはできなかった。月日によって漂白された過去の、ほんのりとした漂い(?)の中に座し、仏のように生きてきた自分の姿に彼は気づいた。
 彼は老いたのだ。そして、彼の眼前で身を寄せる喜平ととせに、若い日々は受けつがれたのだ。
 山門の彼方には、暮れかけた空に御山が聳えている。毎年六月の地蔵盆の縁日には、使者が集まるといわれるその山に、村人は胸をしめらせて参詣する。
御先祖様に申訳ない。土百姓身分の娘などと、どうか結婚してくれるな……≠ニ安衛門を口説き落し、格式の中で鶴のように痩せ細っていった母――身分制度の罠に悪掻きながら、さり気なく死んでいった父――更には、間引きされた小さな命――飢えて死んだ村人達――それら死者の霊は、愛着深い土に同化し、その土が山となって隆起したかのように、はるかな高みから、安衛門の決断を迫るのだった。
 見なれた風景の中から、御山はむくむくと動きだし、怪物のように彼の眼前に近づくのを安衛門は感じた。
 死が、これほど間近いものだとは、ついぞ思ってもみなかった安衛門だった。逃げだしたかった。何処迄も! だが、彼は、きびしい心でそれをこらえた。
おら一人が罪を負えば、村の衆は助かるじゃろう……先の見えた一揆だが、せっかく目覚めた今日の出来事を眠らせてはならねえ。小さな村の目覚めじゃが、一番鶏から二番鶏、二番鶏から三番鶏と、鳴き声が村から村、時代から時代へ伝わっていかんと、誰が言いきれるじゃろう……今、死なねえば、おらの一度きりの命を役立てることはできねえのだ……
 こんもりと茂る鎮守の森――取り入れを終えた田圃の広がり――小さな萱葺きの屋根――それら日常の風景の中に、いつの間にか御山は調和し、一枚の浮世絵のように、見慣れた親しさが舞い戻っていた。そして安衛門自身も、その風景を彩って点在していた。決して添え物ではない、抜き差しならなく描き込まれた一つの存在となっていたのだ。
 彼は、撞木に手をやった。士気を鼓舞するように、乱打の鐘は鳴り響いた。
 
 朝が来た。噂を聞きつけた近隣の村々からは、竹槍や棒切れ、鋤、鍬、鎌などを手にした百姓達が、夜を徹して駈けつけ、みるみる内に、その数は五百名を越えていた。
 事の意外さに驚いた見分役の一行は、代官所からの応援を得て、川原の対岸に陣取り、村の出方を待っていた。安衛門は、見分の中止を訴願する最後の一書を認め、単身、川を渡って見分役に手渡した。
 騒ぎは城に急報された。以後の見分は無期延期、一揆の首謀者一名を召捕えん旨の命令が、早馬によって達したのは、その日の夕方だった。
 疲弊した封建経済の中で、各藩の落ち度を狙ってはお家改易を強いる幕府の耳に、この騒ぎは入れてはならぬことだった。領主として、事件は内密にすまさねばならぬ。しかし、このまま打ち捨てておくことは、権威に関わることだった。例え一名でも、罪人として突き出させることは、藩主の体面を保つことだったのだ。
 既に、死を覚悟して安衛門は、達しを受けるや、縄を受けんといざり出た。
「庄屋様! 行っちゃならねえ! おらが行く!」
 弥作の頭には血がたぎり、彼は、前後の見境いもなく、狂ったように安衛門をさえぎった。
「一揆を起こしたのは、おらだ! 庄屋様の言葉を押し切って村の衆を従え、山門を出たのはおらでごぜえます! お役人様! おらさ、縄をかけてくだせえまし!」
「自惚れるな、弥作!」と、安衛門は大喝した。「一揆は、おめえ一人の力でできたもんでねえ。鋤鍬握る百姓の、一千本の手が見分を喰い止めたんじゃ!」
 彼は、そう言うと、群衆を見廻した。親しい顔があり、見も知らぬ顔がある。村々の庄屋の言葉に逆って駈けつけた、その見知らぬ顔々は、古い知己のようになつかしく感じられた。
 折から、太陽は、広々と続く田圃の彼方――祖先の霊が谺する御山の頂上に落ちかからんとしていた。空は赤く燃え、子供達の歌うわらべ唄が、彼等を預かる寺の方角から聞こえてきた。
  まっかっかっかっ おっかけろ
  でっかなほうずき おらのもの
  まっかなほうずき おらのもの
  まっかっかっかっ おっかけろ
 弥作の肩を抱きながら、安衛門は群衆に言った。
「皆の衆……土の根性を、あの子供達に間違いなく伝えてくれろよ。心の土を荒らしたまま、みじめに一生を終らんように……生きとる内に、今日のような一鍬打ちおろして、おら達は、幼ない命へ百姓の魂をゆずっていかねばならんのじゃ……江戸さ出稼ぎに行く者もあるべえ……そのまま居ついてしまう者もあるべえ……年々、江戸の人口は増える一方――都はますます華やかになり、村は、いつまでたっても変りはしねえ……だがのう……江戸さ出る者も、村さ残る者も忘れんでくれろ……日照りにひび割れ、嵐にえぐられ、歯を喰いしばって命育てる、無言の地べたの声だけは忘れんでくれろ……地べたの村、地べたの都を作ってくれろよ……」
「!」
 喜平は、涙でぐちゃぐちゃに頬を濡らし、嗚咽を押さえて飛びだした。そして、安衛門の膝にしがみつくと、堪えかねたように、大声を発して泣きだした。
「友助!」と、安衛門は、村人の中に目をやって、とせの父を呼んだ。
 すべてを予期したように、友助は、ゆっくりと歩み寄り、心の底から言った。
「御安心くだせえまし……とせは、喜平と一緒にさせてもれえますじゃ。鐘楼で、とせが叫んだ時から、おらの心は変っていましただ。何もかも、変ってしめえましただ……」
 別離の時を堪える人々の片隅で、とせは、変ったのはおとうだけでねえ……おとうだけでねえ……≠ニ、心の中で繰り返していた。
 はるもいた。自分の存在が、決して無意味なものではなかったことを自覚しながら――
 はるだけではない。富四郎も――富四郎だけではない。百姓の一人一人が――それを自覚しながら、そこにいた。
 既に太陽は落ちていた。高張提燈の列が、死の花道のように安衛門を待っている。
 縄を打とうと、役人は彼をうながした。彼は、襟を正して正座した。

(初出 「手」四号 一九六六年四月)


入力ノート
原則として手書き原本の表記をできるだけ再現する字形を(*ママ)として残した。変則的な送り仮名も修正していない。
例 輝やき 呟やき 耕やす 気難かしい
  「將棋」→「将棋」、「寐」→「寝」、「狹」「挾」→「狭」「挟」
等々。

判読困難箇所は(?)で表記。

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