一つとせ ひどいぞ リストラ 人でなし
「パパ、遅いなア」 雪がまたつぶやいたさ。一人娘なんだよね。テレビには、毎夜おなじみの久米宏が映ってるよ。いつもなら、遅いって言えない時間帯なんだけどさ、今日は誕生日のパーティーやることになってるんだよね。今から四十年前の今日、パパが生まれたの。夜だったそうよ。そのせいか、パパの性格、暗いんだよね。同じ四十年前の今日、おいら、毬子も生まれました。真昼だったんだって。数時間早い、姉さん女房っていうわけなんです。真昼のような性格だって他人サマからはよく言われるけど、真昼にふさわしく生きようって、健気に生きてきただけなんだよね。顔で笑って心で泣いてって奴さ。もしかしたらパパの性格も、性格なんてもんじゃなく、夜の誕生にふさわしく生きようって心がけてきただけなのかもしれないよね。聞いてみよう。 聞こうにも、当の本人、いないんだよね。何度も携帯にかけてみたけど、つながってくれないの。 テーブルの真ん中の花瓶には、薄紅色の花をつけた山茶花の枝が投げ込まれてます。この花、おいらのほっぺとおんなじだよって言いたいけど、おいら、四十歳になったんだよね。ホラは、吹かない。 この山茶花、さっき、この賃借マンションの表の植え込みから、チョキンチョキンって鋏を使っていただいてきたものなんだ。いや、盗んだってことになるのかな? おいらの連れ合い、法学部出身だから聞いたら分かるかもしれないけど、聞かない方がいいんだよね。答えられなかったら、かわいそうじゃん。彼、司法試験を何度も滑ってさ、おいらの勤めてた印刷会社に就職したんだもん。 山茶花のかたわらにはデコレーションケーキの箱が並び、それを囲んだお皿の上では、フライドチキンも、えびの天ぷらも、冷えた姿をさらしてます。肉じゃがも、おでんも、みんな冷えちゃってるよ。みんな、おいらの手作りなんだぞ! 自慢するほどの料理じゃないよね。でも、おいら、忙しい時間の中で作ったんだぜ。パソコンで内職してんだ。今日は早起きして午前中で仕事を片付け、午後からは料理に専念したっていうわけ。 グ〜。 ウフッ、雪のおなかが鳴ってるよ。 グ〜。 チョー豪快に鳴ったのはおいらのおなか。 「ワハハハハ」って二人で笑ったら、玄関のドアに吊るした鈴が忍び泣くように音をたてたさ。陰気だねえ。パパのお帰りだよ。 廊下の明かりをつけ、雪が玄関に走ってく。 「パパ、お酒クサーイ!」 雪の声が雷のようにとどろいた。おいらだって雷だよ。ブラウスの袖をまくり上げ、おいらは肩を揺さぶらせて玄関へ行ったさ。 「バッキャロー! 今、何時だと思ってんだよ!」 パパったら、玄関に立ったまま、じっとおいらを見つめるんだよね。思い詰めた目。おいらにプロポーズした時の目とおんなじじゃん。 あのころを語るには、パパよりも、純ちゃんって言った方がいいな。純一郎でもなければ純太郎でもない。彼の名前はただの純。小泉純一郎みたいに、ハッタリをかまして生きるには夾雑物が必要なんだけど、一も郎も混じってない無垢の純なのです。 あれ? 惚れてるのかな? 恥ずかし〜い。 たった今、「バッキャロー!」って怒鳴っちゃったんだけどさ、プロポーズされたころは、確かに純ちゃんをバカにしてたんだよね。この毬子だけじゃない。会社中の人にバカにされてたさ。 純ちゃんたらね、喜怒と楽は、まあ顔に出ないんだよね。哀、哀、哀――哀一筋の表情なの。そこを見込まれ、純ちゃんたら、苦情処理係にされて、平謝りの仕事を仰せつけられるようになったんだよね。哀一筋で謝られたら、許さないわけにいかないじゃん。菓子折りを持って、純ちゃんは出かけてくんだよね。四十になったっていうのに、今でも彼の仕事、変わんないの。 今まで最大の苦情って言ったら、毬子がプロポーズされるきっかけになった表紙の一件じゃないかな。皇室の写真集の印刷があってね、その表紙、皇居のお立ち台で手を振る一族の写真だったの。それを間違って裏返しに印刷しちゃったんだよ。天皇陛下も、美智子サマも、皇太子殿下も、雅子サマも、みんな左ギッチョになって、左の手を振ってしまったんだよね。問屋に送られた段階でそれが発見されたんだもん。出版社から電話を受けて怒鳴りまくられた純ちゃん――電話からはじき出てくる相手の罵声と、ペコペコといつもより深く頭を下げる彼の様子から、ただ事ではないということだけは伝わってきたわ。 電話が終わり、受話器を置くと、純ちゃんは両手を膝の上にのせ、姿勢を正して、禅坊主のように動かないんだよね。泰然自若――小憎らしいったらありゃしない。あいつを何とかビックリさせようって、毬子、実験してみたくなっちゃったの。席を離れ、そっと純ちゃんに近づいたさ 「ワッ!」 声と一緒に、椅子に座った純ちゃんの背中を両手で押してやったわ。 強すぎたんだよね。純ちゃんの上半身が前のめりになり、机の縁に鳩尾がぶつかったの。 「ウッ」 思わずうめいた純ちゃんだけど、反応はそれで終わり。姿勢は元に戻り、毬子は振り向いてもらえないの。 毬子、純ちゃんの背中に手をかけたさ。顔をのぞき込み、しなを作って謝ったわ。 「おどかして、ごめんなさいね。おなかぶつけて、痛くなかった?」 「大丈夫です」って、無表情な顔で純ちゃんは答えたわ。 心の中では、純ちゃん、微笑んでたのよね。純ちゃんに変化をもたらそうとした毬子の実験は、変化も変化、数日後には思いがけない彼からのプロポーズとなっていったんだもん。 「いつまでにらめっこしてるのさ。パパ、泣いてるじゃん。ママ、許してあげなよ」 おいらの体を雪の手が揺さぶっていた。よく見ると、玄関に立つ純ちゃんの両頬には、涙の筋が伝わってるね。ア、純ちゃんだって。この使い分け、難しいよね。今はパパなのか、純ちゃんなのか? それともパパ純とでも言えばいいのか? 泣かせたおわびに、純ちゃんって言ってしまおう。 「純ちゃん、怒ってごめんね」 「毬ちゃん、ぼくが悪いんだよ」 毬ちゃん? いつもはママって呼ばれてるのに、久しぶりに聞く言葉だよね。「純ちゃん」って呼び、「毬ちゃん」って返ってくる。「ワッ」と純ちゃんの背中を押せば、プロポーズの言葉は返ってくる。こちらから投げかけない限り、返ってくるものは何もないんだよね。 まだ雪が小学校に入る前、純ちゃん、毬ちゃん、雪の三人で、東武東上線の走る上板橋まで散歩に出かけたことがあったわ。線路に沿って歩いていると電車が走ってきてね、そしたら雪、電車に向かって手を振ったの。純ちゃんも、毬ちゃんも、一緒になって手を振ったんだけどさ、振っても振っても、電車の中の人は知らんぷり――最後の車輌になって、それも通り過ぎようとしたとき、一番後ろの車掌室にいた車掌さんが気づいてくれたんだよね。車掌さんの手が振られ、こちら三人「ワーイ」って、声を一つにしながら手を振り続けたさ。 手って、言葉だったんだよね。おしゃべりなんかいらないんだ。小説だっていらないよ。ベケットのペンで、小説はもうとっくに刺し殺されてしまってるんだもん。見損なわないでおくれ。この毬ちゃん、大学はね、文学部の出身なんだよ。 フン、起承転結が何なのさ。人生、そんなにうまく承になったり、転になったりするもんじゃないよ。結っていうのはね、太陽が爆発し、宇宙ががらんどうになる日のことなのさ。キーボードの操作で文字を連ね、結を呼び込もうなんて、不遜もいいとこだよ。小説なんかとっとと消え失せろ! 消え失せたら、出版社は困るだろうねえ。印刷会社も困るよ。ワープロを使う下請けの毬ちゃんも困るし、純ちゃんは勿論困るよね。自分史を書きましょうとかっていう白いページの本が売られてるようだけど、本という本がああなったらどうなるんだろう? 白、白、白の雪の世界――雪って、お金払って手にするもんだったかなァ? ア、北海道のどこかのふるさと小包で、小さな雪だるまの商品があったよね。ウーン、この世は何でも金もうけになっちゃうんだ。 「愛し合おう。雪を売るな!」 雪を抱き上げ、純ちゃんに近づく。三人で頬を擦り寄せ合おうとすると、雪はバタバタ足を動かして、毬ちゃんの腕を嫌ったさ。 「売らないよ。雪は絶対、売りません。純ちゃんと毬ちゃんが力をあわせて守ります」 「ねえ、自分たちだけちゃんをつけて、どうして雪だけ呼び捨てなのさ。子どもだと思って、雪のこと、バカにしてるんでしょ?」 思わぬ言葉に力が抜ける。雪を離し、彼女に言った。 「あのねえ、雪は空から降ってくるでしょう?」 「……」 「雪ちゃんが降ってくるって言う?」 「降ってくる雪と、わたしとは、違うじゃん」 「違わないの。おんなじなの。雪は東京に雪が降った日、雪と一緒に、パパとママのところに降ってきたのよ」 「その話、何回も聞いたよ。パパの名前の純は純白の雪の純のことで、毬子の毬は雪玉のような純白の毬のことで、わたしは雪の降る日、雪の精のように二人のもとにやってきたんだよね」 「分かってるじゃん」 「分かってなんかないよ。わたしはパパのセーシと、ママのランシが一緒になってできたんだも〜ん」 「ワオー! うら若き性科学者よ、その言葉、どこから仕入れてきたのさ」 「学校で習ったんだもん」 「学校で?」 「そうだよ。セーキョーイクの時間に習ったんだよ」 「バカな学校だねえ。余計なこと、してもらいたくないよ」 「文句があったら先生に言ってよ。ママったら、参観日にも来ないくせしてさ」 「ママの忙しいの、知ってるでしょ? 印刷のお仕事はね、期限があって、その期限がとっても短いのよ。今日のお昼に頼まれて、明日の朝までになんていう、とんでもないお仕事もあるのよ」 「分かってるよ」 「分かっていません」 「分かっています」 「パパのことも、分かってもらいたいな。二人がそこに立ちふさがっていたら、パパ、上がることができないじゃないか」 滅入ったパパの声がした。パパの声は、いつでも滅入ってるんだけどさ。 ア、純ちゃんからパパに変わっちゃった。呼び名は、こうして揺れてるんだよね。人も揺れ、ベランダの洗濯物も揺れ、並木の枝も揺れ、満員電車も揺れ、パチンコ屋の幟も揺れ、赤提灯も揺れ、痴漢の手も揺れる。この前、電車の中で痴漢にお尻を触られてさァ、この毬子サマ、手首をつかんで引きずってやろうって思ったんだけどさ、こちらの手も揺れるんだよね。いや、震えるって言うのかな? 仕方ないから次の駅でホームに降り、車輌をずらして乗ったんだよね。とにかく、この毬子サマにも、ためらいっていうものはあったのさ。チキショー! ア、毬ちゃんから毬子サマに変わっちゃった。この変化、多分、何かの論文のテーマになりそうだけど、おいらは学者なんかじゃないもんね。この問題は誰かにまかせるよ。まかせられないのは、今日のパーティーの進行なのです。 「パーティー駅へ向かって、出発!」 雪の腰を後ろからつかみ、汽車を作る。靴を脱いだパパに向かって、「パパは、わたしの後ろ」って言ったら、パパは鞄とプレゼントの包みを廊下に置いて、わたしの腰をつかんださ。ア、わたしだって。いいや、もう一々断らないよ。こんがらかるかもしれないけど、ボケ防止だと思って、頭の体操しておくれ。今、わたしの関心はね、パパのプレゼントにあるの。わたしのプレゼントより大きいんだもん。 まあ、いいや。後回し、後回し。プレゼントより、出発が先だもんね。 「シュッシュッポッポ」 わたしの掛け声に、みんなは合わせる。 「シュッシュッポッポ」 これは勿論、パパの声。 「シュッシュッポッポ」 癪なことに、雪の声は、わたしの上をいくんだよね。負けるもんかって、わたしの声も大きくなったわ。 ごちそうの並ぶパーティー駅が近づいてきます。下車をしたわたしたちは、駅のベンチに座りました。いや、ベンチではない。テーブルを囲む椅子です。何だ、この筆法の変換って、「パパのセーシとママのランシが」って変換した雪とおんなじことなんだよ。 「雪、ごめんね」 「ママ、ごめんね」 ああ、何て素直な子なんだろう。この世は天国――さあ、パーティーやるぞって、ワインのコルク抜きに手をかけたら、「おれには謝ってくれないのかな?」って、パパが言いました。 「何を謝るの? お酒飲んで、こんなに遅く帰ってきて、謝ってもらいたいのはこっちの方じゃん」 「玄関でさ、ママと雪が言い争いするもんだから、おれの大事な問題が吹き飛んでしまったんだよ」 「ああ、そう、悪かったわね。大事な問題って何? 二号のこと? 三号のこと? 四合飲んでへべれけになりたかったけど、一合飲んでパーティーに間に合わせたってこと? 間に合ってなんかいないわよ!」 「間に合ってますって、言われたんだ。あなたは、もういりませんって、部長に言われたんだよ」 「リ、ス、ト、ラ?」 「うん」 「いつからよ!?」 「今日で終わりなんだって」 「今日通告して、今日で終わりなの?」 「うん」 「そ、そんなバカな! 純なあなたにペコペコと人に頭を下げる役目を押しつけて、ハイ、今日で終わりですだなんて、そんな責任のないやり方は許せません。おいらはね、責任っていうものを屁とも思わないニンゲンが許せないの!」 「毬ちゃんの責任感の強さは、よく分かってるよ」 「ありがとう。純ちゃんのプロポーズを受けたのも、おいらの責任感のなせる業だもんね」 「え? その話、初めて聞くよ」 「おいらね、純ちゃんが好きだったから結婚したわけじゃないのよ。純ちゃんの背中を押して、机に鳩尾をぶつけさせてしまった時、おいら、純ちゃんをからかってみただけなの。この無表情な人、どうしてビックリさせられるのか実験してみたかっただけなのよ。でも純ちゃん、おいらが純ちゃんに好意を持ってるって誤解してしまったでしょう。もう、引っ込みつかないじゃん。おいら、責任とって、純ちゃんと結婚したのよ。おいらでさえ、責任のとり方を知ってるのに、会社のやり方は許せないよ。おいら、辞めた後も会社から仕事を分けてもらってきたけどさ、もう、こんな会社の仕事はしないよ。絶縁だァ!」 純ちゃんたら、うなだれてます。体がこわばって、ピクリともしないんだよね。おいらの言葉、過ぎたのかな? 雪の体が椅子から離れる。リビングから出てくよ。愛のない結婚から自分が生まれてきたなんて、たまんないよね。 「冗談よ!」 純ちゃんの肩を叩きながら、雪にも届くような大きな声で言ってやる。本当は、冗談なんかじゃないんだよね。でもさ、マコトの言葉とも言い難い。呼び名だけじゃなく、言葉そのものが揺れてるんだよね。人も揺れ、ベランダの洗濯物も揺れ、並木の枝も揺れ――ア、これはもう、さっき使っちゃった。使い古しのものを並べたガレージセールは、文学じゃないんだよね。でもさァ、おいら、どっちかって言えば、ガレージセールの方がいいなァ。 「冗談、冗談、冗談よ!」 ガレージセールの呼び込みに、純ちゃんたら、一向に反応しないよ。やっぱ、新品の言葉の方がいいのかな? よし、思い切って言ってしまおう。 「I LOVE YOU」 純ちゃんの肩にしなだれかかり、耳もとでささやく。こわばった体がほぐれてくさ。と、その時、雪がリビングに戻ってきたんだよね。 「アーア、せっかく二人が仲良くなるようなプレゼント用意したのに、もう仲良くなっちゃってる」 そう言う雪の手には、細長い小さな包みがありました。手を突き出して、おいらは言ったわ。 「もらう、もらう。もっと仲良くなりたいもん。ねえ、純ちゃん」 純ちゃんの顔には、微笑がただよってたわ。彼の微笑は、爆笑のことなんだよね。 プレゼントの包みをはがしてみると、箱が出てきました。『強力ボンド』っていう文字が目に飛び込み、おいら、「アハハハハ」って笑っちゃった。 純ちゃんの微笑は消え、眉根には皺が寄ってます。ボンドの意味を考え込んでるようね。ポント一つ、彼の肩を叩き、おいらは笑いながら言いました。 「このボンドでさ、パパとママがいつまでもくっついてなさいっていうことなんだよ。ねえ、雪、そうでしょ?」 拍手をしながら、雪は言いました。 「ママって、頭がいいねえ」 「どうせ、パパは頭が悪いよ」 パパのつぶやきです。元の木阿彌じゃん。 「パパ、プレゼントありがとうでしょ?」 たしなめると、パパは素直にに言いました。 「雪、ありがとう。パパ、このボンドで雪とくっついていたいなァ」 「キンシンソーカンはダメなんだよ、パパ」って、雪はピシャリと言ったもんね。 グ〜。 雪のおなかの音みたい。雪がゴシック体なら、おいらは何体の音を出せばいいんだろう? ゴシック体ではすまないよね。じゃあ何体? 何ポイント? 行き詰ってきたぞ。音より先に、おなかをあやしてやることだ。えびの天ぷらを指でつまみ口の中にほうり込むと、むしゃむしゃと口を動かしながらケーキの箱のふたを取り、ワインのコルクを抜いた。 四十本のろうそくをパパはケーキに立ててるよ。雪はボトルのふたをひねり、ダイエットコーラを自分のコップに注ぎはじめたさ。 コップの中で泡がはじける。誘惑に負けず、雪はコップに口をつけないんだよねえ。おいらに似ないね。おいら、反面教師っていうわけだ。 ろうそくの火がともる。パパを祝い、ママを祝い、三人の歌は終わったよ。後はもうパクパク、グイグイ――おいらに迷いはないもんね。雪にも迷いはないようだけど、リストラの純ちゃんは、まったくペースが上がらないんだよね。お酒が入って帰ってきたっていったってさ、コックリもしないで、ただつくねんと座ってるんだから、こっちもたまんないよね。 「ねえ、純ちゃん、くよくよするんじゃないよ。おいら、パソコンの仕事を増やして、何とかするからさ」 「……」 「純ちゃんには、特技があると思うよ。あれだけお客に罵られてもへこたれない頑強な精神は、特技以外の何ものでもないよ」 「……」 「そうだ。純ちゃん、カウンセラーになればいいんだよ。カウンセラーって、ひたすら悩みを聞いてあげるんだっていうじゃない。あれだけの怒りを聞いてきたんだもん。あれって、カウンセリングやってたんだよ」 「……」 「ねえ、世のため、人のためになると思うよ。純ちゃん、弁護士になって、世のため、人のために尽くすっていう理想を持ってたんだよね?」 「……」 「理想は捨てちゃダメだよ。一つとせ、ひどいぞリストラ、人でなし――このトンチンカンな世の中で、家族を抱えて人一倍苦しむ同世代のために、お役に立つようなカウンセリングをしようよ。そのためなら、おいら、全てを捧げるよ。いや、全ては無理――むしゃむしゃっておいらの肉まで食べさせて上げるわけにはいかないけどさ、三度の食事は食べさせてあげる」 「晩酌は?」って、ようやく一言、言葉が返ってきたわ。 「OKだよ」 「でもなあ、カウンセラーって、資格がいるんじゃないかな?」 「資格? そんなもの、どうでもいいよ。そうそう、おいらね、ついこの前に読んだ『We』っていう雑誌にさ、精神科医のお話が載っててさ」 おいらは席を立ち、書棚の中から10月号を引き抜いた。 「これ、これ。シンポジウムの記録なの。竹下小夜子っていう沖縄のお医者さんの発言の一部よ。いい? 読むわよ。『現場の人間としてやってきますと、女性への援助支援という点では、臨床の専門知識がこんなのだったらないほうがまし≠ニいうのも多いわけです。例えば摂食障害、昔は拒食症というと母親の悪口のオンパレードです。目の前で親がなだめてもすかしても脅してもみるみる痩せていく。親は半狂乱になります。そういうときに、母親のせいでこうなった≠ネどという専門知識がないほうが、当人の回復も支援もよほど容易になるんですね。心理学的な専門知識を持っていない小児科の専門医のほうが嘆き悲しむ母親に共感と思いやりを持って受け止めてくれて、母親も自分の気持ちを理解して受け止めてくれるドクターにちょっと気持ちを支えられるような感じで、辛い事は辛いけど、もう一度気を取り直して長い目で見守っていこうという気持ちになれるかもしれません』ね?」 「それは、よく分かる。教科書で問題は解決しないよね。でも、教科書からはみ出たモグリのカウンセラーを、どこで雇ってくれる?」 「ここでやるのよ」 「ここで?」 「そう、アットホームなこの場所で――ホームページ作って、おいら、じゃんじゃん宣伝するよ。儲からなくたっていいんだ。へそくりもあるからさ。一、二年は食いつないでけるよ。進め、四〇代身の上相談所!」 「四〇代身の上相談所? そのネーミングはダサイよ。なあ、雪」 「ウーン、雪、よく分かんないけど、このデコレーションケーキみたいにおいしそうな方がいいな」 パンと一つ、両手を叩き合わせておいらは言った。 「いい考えだ。デコレーションケーキみたいに、ゴテゴテと言葉を並べ立てよう。40代バンバンザイアットホームカウンセリングコーポレーション。ねえ、いいじゃない」 「舌を噛んじゃうよ」って、雪が言う。 「舌を噛みそうになったらね、デコレーションケーキを食べればいいんだよ」 包丁を取りにキッチンへ行く。純ちゃんの声が背中に向かって飛んできたさ。 「コーポレーションっていったら、法人だよ。登録が必要だよ」 「したらいいじゃん。法学部だもの、お得意でしょ?」 「モグリのカウンセラーで法人の許可もらうなんて、ペテンだよ。ペテンは物語の十八番だから、手続きは文学部のお前さんにまかせるよ」 「ママ、ハイジもペテンなの?」 包丁を持って戻ってきたおいらに、雪ったら、心配そうに尋ねたさ。『アルプスの少女ハイジ』は、小学三年の彼女の愛読書なんだよね。 「やい、純。物語がペテンとは何だ! 子どもの心を傷つけるようなことを言わないでおくれ!」 純に言われる通りなんだけどさ、言われる通りってのはむかつくんだよね。 包丁の切っ先がのびる。いくら何でも、夫の胸は刺しません。おなかも刺しません。阿部定の真似もしません。突き刺したのは、デコレーションケーキの真ん真ん中――立てた包丁をグイと手元に倒すと、弾力のあるスポンジケーキの質感が包丁の柄を通して伝わってきたさ。 倒した包丁を立て直し、ケーキを百二十度回転する。えぐれたクリームを刃につけたまま、再び包丁を手元に倒した。三分の一がこれで切り離されたっていうわけだよね。 倒した包丁を立て直し、ケーキを百二十度回転する。えぐれたクリームを刃につけたまま、三度包丁を手元に倒した。これで三等分っていうわけなのさ。 一つをつかむ。クリームよりはるかに厚いスポンジケーキがおいらの目を和ませるんだよね。 「見な。綺麗な卵色だねえ。中身が問題なんだよ、中身が――飾りはどうだっていいんだ。コーポレーションでも、カッポレしようでもいいんだよ」 スポンジケーキにガブリと食いつく。けなされたクリームが恨みをはらすように、鼻の頭、口のまわりにくっついたさ。ティッシュでグイっと拭ってやる。 「雪も純ちゃんも、こうして手づかみで食べてみな。気分がいいよ」 こわごわと、雪が手をのばす。微笑をたたえた純ちゃんの手ものびてきたよ。のばしながら、純ちゃん、言ったもんね。「40代バンバンザイアットホームカウンセリングコーポレーションのオープンパーティーだね」 「わたしのプレゼント、いらなかったね」 いたずらっぽい目で雪が言う。 「ア、パパとプレゼント交換するの忘れた!」
〈了〉 (打ち込み作業担当 柿崎憲)
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