エスペラント誌「La Movado」より向井豊昭関連記事


はじめに。
本記事はエスペラント誌「La Movado」に掲載された向井豊昭の記事及び関連する記事を間宮緑氏により翻訳していただいたものです。その際、峰芳隆氏による注と校正を経て、ここに掲載しております。両氏に感謝します。

(※は間宮緑氏による注)
(☆は峰芳隆氏による注)


1975/12  n-ro 298

El nia Kajero
(※コーナー名。直訳で「私たちのノートより」)
Krizantemo (※クリザンテーモ。菊の意。ジャーナリスト菊島和子さんのエスペラント名)

・アイヌの文化

 最近、日本の少数民族であるアイヌの伝承文化のうち二つの舞踊が国指定無形文化財の候補にノミネートされた。

 日本は単一民族の国である、としばしば無自覚的に言われるが、意識的に見れば、それが間違いであることはすぐにわかる。現代の日本は、日本民族という一民族の「器」ではなく、ヤマト民族(日本人の大多数)と、ヨーロッパ民族とモンゴル民族の混血からなるアイヌ民族の、二つの民族を擁しているからだ。アイヌ民族のうち、およそ一万五千人は現在北海道に居住し、その他はソビエト連邦の東端に居住している。

(※「器」… ujo は器・容れ物の意。国としての日本は Japanio の他に Japanujo という言い方もある。Japanoj(日本人)+ ujo(器)の合成で、日本人を入れる器、すなわち日本国という意味。これはエスペラントの一般的な語彙で、例えばイタリアは Italio とも Italujo ともいえる。+ ujo の形は、語彙として「民」が先行し、民が収まる「国」があるというザメンホフの考えに基づく。現在では Japanio, Italio 等の + io 形が国を表す語として一般的。)

 アイヌ民族の文化とヤマト民族の文化は、前者が狩猟民族なのに対し後者は農耕民族だから明らかに異なっているのだが、現在すでにアイヌはヤマト民族との混血が進んでおり、純粋なアイヌは少数しか見つけられないほどだ。

 また惜しむらくは、アイヌの言語が文字を持たないので、その文化はいま消滅へと向かう下り坂にある。しかしそれは、京都の古い寺院や、歌舞伎などのように、まさに保存すべき日本文化の一部ではないだろうか?

 少数民族の問題は外国だけの問題ではなく、われわれの国、日本にもあるのだ。

・植物人間

 何も見ず、何も聞かず、何も感じず、何も考えない……しかし注射によって栄養を取り、制御機械により呼吸をし、そのために確かにその身体は生きている。

 もしあなた自身が「植物人間」と呼ばれるそのような状態に陥ったら、あなたはどうしたいと思うだろうか? 意識を失ったまま機械によって呼吸をし、生きながらえることを望むだろうか? それとも死を望むだろうか? 死を望むならば、それはたやすい……装置のスイッチを一押しして切ればよいのだ。だが誰がそれを実行しなければならないのだろうか?

 ある植物化した若い女性の両親が、神の与えた運命に従い彼女が安らかに死ぬことができるようにと、娘の機械による生命維持を停止する許可を裁判所に求めたというアメリカでの出来事を新聞各紙が報じた際、日本では前述の議論が紙上で起こったが、多くの人の意見は「私は安らかに死なせてほしい」というものだった。

 件のアメリカの裁判所は、彼女はいま生きているのだから誰のどんな意見があるにせよ生き続けなければならず、医師らは彼女の回復のため努めねばならないとの判断を下した。それは同時に、彼女の両親がこれからも精神的・肉体的苦痛に苛まれ続けなければならないということでもある。

 このような問題は、裁判所で判断できるものではなく、倫理的、宗教的、あるいは哲学的な課題だ。しかし……仮にある宗教者が、彼女を神のもとへ従わせよと言い、両親が機械を停止させていたら、その宗教者と両親とは「殺人犯」として罪に問われたに違いない。またその反対に、仮に裁判所が彼女を死なせよと命じていたら、大衆は裁判官たちを、温かな血が通っていないと言って責め立てなかっただろうか? たとえあなたが遺言状にそうしてくれとしたためたとしても、その実行者はきっと……。
(※ここでの vi は英語の you のような総称人称ではない。エスペラントでの総称人称は oni 。)

 この近代化された世界で、死の権利というものは一顧だにされていない。植物人間の問題については社会による何らかの配慮が必要だ。そうでなければ、医療の進歩がある意味では人類を不幸にしかねないからだ。


 1976/04 n-ro 302

Babilejo
(※コーナー名。直訳で「雑談所」)

 第298号の“El nia Kajero”で、クリザンテーモ氏が、アイヌ文化について記事を書いておられました。氏が少数民族の問題を取り上げたことに対して拍手を送ります。私たちの日本では、この重要な問題についてほとんど気に留められずにいますから。ですが氏はいくつかの事実について誤った記述をしています。最も重大な誤りは、日本人はヤマトとアイヌの二つの民族から成っている、としたことです。氏は、アイヌと同じく北海道の一角に暮らしているギリヤークとオロッコを見落としています。さらに、沖縄民族や、日本に帰化した、あるいはさせられた、中国人と朝鮮人のことを失念しています。(【編注】エスペラント語の koreo には、英語などと同様に、「朝鮮人・韓国人」の区別はない。また、現在の日本語では「ギリヤーク」は「ニヴフ」、「オロッコ」は「ウィルタ」と表記するのが一般的。)
 少数民族の問題は、ユダヤ人であるザメンホフの子等である、われわれエスペランティストにとって、最も重要な問題です。少数民族の人々は私たちの周りに暮らしていないでしょうか? あなた(※読者に向けて)は彼らの胸の内を考えてみていますか? 彼らのために行動を起こしていますか?

向井豊昭


                                                                1976/10 n-ro 308

El nia Kajero
竹内義一

・日本の朝鮮人同志たちによる新しい潮流

 この件に関しては、私は創始者たちの第一歩を見たにすぎないので、報告し批評するにはやや早すぎるかもしれないが、試みたい。

 日本に住む朝鮮人エスペランティストたちが、在日コリョ・エスペラント協会(☆エスペラント名は,Korea Esperanto-Asocio en Japanujo。日本名は,在日コリョ・エスペラント協会。朝鮮・韓国人は,いずれもkoreoで,英語と同様に区別なし)という独自の組織を発足させたことを聞いた。彼らによれば、この組織は、出自が「南」か「北」かによらずすべての在日朝鮮人エスペランティストから構成されたものでありたいとのことだ。彼らは、エスペラントによる具体的な活動の成果によって、常に誠実に祖国における運動に貢献したいと望んでいる。彼らはエスペラントを日本にいる同胞たちの生活環境に広く浸透させることを目的としており、また実際に日本人と朝鮮人のエスペランティストたちの友好の第一線を築くことを切望している。

 先の世界大戦の戦前、戦中は、エスペラント運動への朝鮮人たちの参加は、ほとんどの場合、参加すること自体が、朝鮮人を使用言語さえも日本人に同化しようとする日本政府による植民地化政策への抗議、抵抗でありえた。では、在日朝鮮人エスペランティストたちによるこの新たな潮流の台頭は、とりわけ現在の彼らの祖国の情勢に関連して、何を意味するだろうか? 彼らの祖国は、いまだに暴力的に分断され、いくつかの深刻な問題を抱えているが、そのように述べながら、私のペンがいろんな意味で重くきしむのが、読者にはお分かりだろう。こうしたことは朝鮮人自身の課題であるが、私はその独自の組織の始動に際し、厳密な独立性に基づくその組織が、平和かつ幸福に暮らす市民たちの人道的な願いを常に取り入れてほしいと願ってやまない。

 この仕事の創始者たちの一人が私に語ってくれたところによると、在日コリョ・エスペラント協会は、大阪にある朝鮮小学校の少年少女たちに、彼らのスケッチや作文を "Grajnoj en Vento" (次の章を参照)のネットワークを用いて国際的に交換することを呼びかけようと考えているそうだ。最初の仕事として、未成熟な急進的な叫びよりもずっと説得力がある、すばらしい案だと私には思える。

 ベトナムから米軍が撤退した後もアジアにはきな臭さが漂う一方で、私たちにとって必要なのは、戦闘機の包囲網解散よりも、むしろ、人間の生活環境であろう。協会の成功を祈る。

・Grajnoj en Vento
(※プロジェクト名。「風に運ばれる穀物の種」の意)

 1953年に平凡社が世界中の子供たちのペンから生まれた文集のシリーズを刊行したことは、すでに昔話となっている。このシリーズの本は完全に品切れであり、私たちの先人たちによるこの栄えある仕事は時を追うごとに人々の記憶の彼方へと消えてゆくだろう。しかし、当時あのシリーズのために燃えた火は、とあるスイスの町で今もなおパチパチと火花を放っている。そう、Granoj en Vento のことだ。一年に三度、お互いに交換する目的で子供たち自らが編集する児童向け文集を独創的な形で制作している、様々な国の学校のクラスからなるグループである。グループの指導役で、すでに壮年となったスイスの教師であり、かつて平凡社の企画の協力者だった Marcel Erbetta は、十五年以上もの間、一度も中断せず、この役目を負ってきた。なんという尊敬すべき根気強さだろう。(※意訳すれば「頭が下がるような根気強さである」。)

 同志教師たちとその日本の組織には、文化交流の実現と世界の子供たちの間に友情を築くことをねらった、教育分野でのこの独自のエスペラント実践に注目を願いたい。

☆1958年,エスペランチストの協力で,完成した平凡社の『世界の子ども』全15巻


1976/12 n-ro 310

Babilejo
・"Grajnoj en Vento" について

 第308号の “El nia Kajero” で竹内氏が、世界の児童文化のために働いているグループ “Grajnoj en Vento” を称賛しておられました。長い期間にわたって続けてきた彼らの努力を私は疑いません。しかし、私が GeV のメンバーであったときに経験したある出来事を紹介しなければなりません。

 数年前に私は「三里塚少年行動隊」のメンバーである一人の少年の作文を翻訳しました。当時、三里塚での闘争は熾烈で、親たちとともに空港建設のための農地取り上げと戦う少年行動隊の存在は、民衆の手で教育史に残すべき事柄であると私は考えていました。

 私はその翻訳文を、翻訳された私の生徒たちの作文と一緒に送りましたが、GeV の編集者はGeV が政治に関して中立の立場であることを理由に、その(※少年行動隊の少年の作文の)翻訳文を没にしました。まったく、中立性とやらは! もし「ベトナムのダーちゃん」がその叫びを GeV に送ったとしても、この編集者は、私の翻訳文の場合と同様、きっと没にしていたでしょう。

 GeV 誌上の世界の子供たちの作文は、平和な子供の生活を描き出しています。遊んで、食べて、旅をして。作文の世界では、子供たちはそんなふうに生きています。それが現実の生活でしょうか? その世界の子供たちは幸福でしょうか? 子供たちは政治の外で生きているのでしょうか? まったく、エスペラントの中立性とやらは! 私は GeV に別れを告げました。

向井豊昭


1977/02 n-ro 312

Babilejo

La Movado 第310号に掲載の、Grajnoj en Vento について書かれた向井豊昭氏の記事を通読しました。何よりもまず、エスペラント界の重大な特徴――時にエスペラント運動の実社会への適合を不能にしてしまう「中立性」について、正しく注意を促してくださったことを氏に感謝いたします。GeV が、特に政治の問題について、そうした「中立性」に従って編纂されていることは事実です。ですから、GeVが三里塚の少年少女たちの文集を拒んだということもありうるわけです。氏がエスペラント界のいわゆる「中立性」の後退的な側面を批判するならば、私も氏の側に立ちます。なぜなら、本当の意味での中立性というものは、けっしてエスペランティストたちの自覚に基づいた行動を窒息させはしないからです。

 しかし、そうとはいえ、私は GeV への協力から身を引くことはできません。第一に私は、教師同志たちが、かつて平凡社の『世界の子ども』シリーズを生み出した、子供たちに現実的に自分の生活を書かせるという運動の伝統を受け継いでいると信じます。第二に、GeV の創始者は、主観的にせよ、『世界の子ども』シリーズが残した方針に則って、様々な国の少年少女たちが友達になることを善意から望んでいます。第三に、GeV は社会制度の違いを越えて、十数か国の教師と生徒が実際に共に活動している、活発な団体です。

 現在私の町では、社会の中で「幸福」でない、身体障害を持つ少年少女たちが、GeV に寄稿しています。GeV 誌上で、彼らはその生活の中での苦しい経験を訴えています。私たちの会の他の教師は、いぬいとみこの反戦小説の翻訳を始め、その翻訳文を GeV のすべての協力者に配布しました。ハンガリーの女性教師は、それを戯曲にし、彼女の学校で上演しました。その上演の写真は、私たちの会の展示を飾っています。残念ながら、向井氏は、雑誌の編纂についてのみ注意を向けられ、氏も直接深い交流ができた、共に活動する仲間たちや彼らの生徒たちには注意を向けておられないように思われます。

 エスペラント運動の原理に対する氏の几帳面な態度は尊敬しますが、しかしながら、特にエスペランティスト同士の国際協力については、もう少し辛抱強くなられることを願います。私の意見では、私たちに必要なのは「別れを告げる」ことではなく、自分のフィールドで善意でエスペラントを実践しているが、いわゆる「中立性」に固執するエスペランティストたちを、活動の成果によって真摯に説得してゆくことだと思うのです。

竹内義一


1977/04 n-ro 314

Babilejo

 La Movado 第312号の Babilejo において「教師同志たちが、かつて平凡社の『世界の子ども』シリーズを生み出した、子供たちに現実的に自分の生活を書かせるという運動の伝統を受け継いでいる」と竹内氏が書いておられました。しかし、複数の教師たちは、その本質をまったく受け継がず、ただ表面ばかりを受け継いでいると私は思っています。竹内氏は身体障害を持つ少年少女たちの作文について書いておられましたが、彼らは、自分の生活を深く見つめる「生活綴り方」の伝統を受け継いでいる日本人です。この日本の作文教育の伝統を持たない外国の少年少女たちが書く作文は、私たちを少しも感動させることがありません。

 その他に、竹内氏は、私が雑誌の編纂についてのみ注意を向け、直接深い交流ができた、共に活動する仲間たちや彼らの生徒たちには注意を向けていない、と書いておられます。そこで、私が経験したエピソードを一つご紹介します。

 数年前、私は様々な問題についての小冊子を発行し、それらを外国にいる数十人の教師に寄贈しました。しかし、私が受け取ったのはたった数通の返信だけで、一つを除いては、私が贈った小冊子について何の印象も感想も書かれてはいませんでした。あるとき北海道新聞の記者が私のもとを訪れ、小冊子の反響について尋ねました。そのとき私は彼に答えることができませんでした。そして私がエスペランティストのひとりであることを恥じたのでした。

向井豊昭


1978/02 n-ro 324

活動(あるいは 行動すること)について

向井豊昭

われらの且つ讀み、且つ議論を鬪はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亞の年に劣らず。
われらは何を爲すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘ V   NARÓD! ’と叫び出づるものなし。
(※以上は詩・石川啄木「はてしなき議論の後」の原文)

 数年前に私は鶴岡図書館で、この石川啄木の「はてしなき議論の後」という詩と感動的な出会いをした。鶴岡図書館にはエスペランティストであった斎藤秀一の遺品が保存されているのだが、その遺品の一つである日記帳に、斎藤は1932年、ローマ字の日本語でこの詩を転記したのだ。詩は、斎藤がローマ字運動を理由に警察署に連行された九月十三日から十八日までの欄を埋めている。彼は、日本語の文字がローマ字化することを願い続けた。ローマ字は書くにも読むにも大変易しいため、ローマ字化が民衆の文化を発展させるだろうと考えたからだ。この民衆文化の発展についての彼の考えは、日本の国家が弾圧したマルクスレーニン主義に基づいていた。

 その欄に、斎藤は自身の闘争の決意としてただこの詩だけを書いた。そして彼はその決意通りに、最初の連行が原因で小学校の准訓導の職を失いながらも、日本の国家を相手に闘争を続けたのだった。

 その後も斎藤は繰り返し連行されたが、彼は自身の手でそれぞれ謄写版の雑誌『文字と言語』を日本語で、『ラティニーゴ』(※ latinigoローマ字化の意)をエスペラントで発行し始めた。最終号には外国の仲間たちが記事を送り、斎藤はソビエト連邦の E. Drezen や中国の Ĵelezo(葉籟士)と連絡を取り合った。

 この活動のために斎藤はとうとう治安維持法により起訴された。獄中で病に冒されたが、そのために釈放され帰宅した。しかし間もなく病のため亡くなった。1940年九月五日、三十七歳でのことだった。

 斎藤は曹洞宗の僧侶の子であり、彼自身も僧侶だった。曹洞宗の開祖、道元曰く「信心から行う仏事として、ただ舌を動かし、声を上げることは、はなはだむなしいことである」。
(※道元「弁道話」ただしたをうごかし、こゑをあぐるを、佛事功徳とおもへる、いとはかなし。)

――冒頭の詩は「El la japana moderna poezio (※日本現代詩集)」から宮本正男氏の翻訳文を引用した。
(☆このエスペラント訳の一部には間違いがある,との指摘が間宮氏からあり)
(※↑テキスト原文、冒頭の石川啄木の詩のエスペラント訳のこと)


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