後藤明生 メモランダム 2


以下は後藤明生論のために書いていた下書き、草稿、簡単な感想をまとめたものです。今から見れば未熟かつ訂正を行うべきものもかなり含まれていますが、修正に時間をかけて死蔵するよりは、ここで誰か後藤明生に興味を持つ人に読まれる方が良いと考え、公開します。意見、感想、批判などありましたら以下のアドレスにお願いします。

東條慎生
inthewall
アット(記号に変えてください)
king-postman.com


目次―刊行年月日順 
再刊されたものの括弧内は原著刊行年
特に断りのない文章はすべて2003年中に書かれたものです

『八月/愚者の時間』作品社・1980・4
『吉野大夫』中公文庫・1983・9(1981・2)(解説・三浦雅士)
『汝の隣人』河出書房新社・1983・11
『壁の中』中央公論社・1986・3
『ドストエフスキーのペテルブルグ』三省堂・1987・4
『行方不明』福武文庫・1989・9(文庫オリジナル自選短篇集)(解説・柘植光彦)
『首塚の上のアドバルーン』講談社文芸文庫・1999・10(1989・2)(解説・芳川泰久)
『小説は何処から来たか』白地社・1995・7
『日本近代文学との戦い』柳原出版・2004・4

以前のものはメモランダム1へ

後藤明生レビューへ


「吉野大夫」中公文庫
(以下はbk1に書評として投稿したものです )

土地を読む

  後藤明生中期の代表作。信濃追分の伝説「吉野大夫」という遊女の史実を捜し求める「わたし」のぐるぐると迷路をまわるような探索のさまを描く。
「わたし」は追分に山荘を持っており、夏の間に家族または一人で滞在するのだが、そのあいだに聞き知った「吉野大夫」という遊女の存在に興味を引かれ、熱心というのではなく、いくぶん気分次第で探索を行う。探索それ自体はいっこうに進まず、村の人たちとのパーティの様子や、おなじ追分の山荘族がやっている新宿の酒場で延々喋っていたりと、不真面目な探索が書かれていく。行って帰り、あたりをうろつき、とつぜん訪ねてくる山荘族と話し込んだり、蛇行する文体とあいまって、ひどく曖昧な時間感覚にややもすると呑み込まれてしまう。
「吉野大夫」を起点として、さまざまな土地の事柄が日常的な細部とともに書きこまれていく本作は、結末に至っても、問題はいっこうに前進しない。そればかりか、この小説は最後と冒頭とで、一繋ぎに接続され、一個の循環構造を構成する。

答えの出ないいくつもの疑問符が、答えられないまま、小説は閉じられる。もちろん、結果や結論だけではなく、過程を、肉化されたプロセスを書くのがいわば小説である以上それは当然なのだが、それではこの小説のプロセスとは何か。

冒頭の書き出しを見ればこの小説が何を書こうとしているか、その一端は見えてくる。

「『吉野大夫』という題で小説を書いてみようと思う」

というのが、この小説の書き出しである。本作は、小説が通常書かれている地平から、一段降りて、小説以前の小説、つまり小説を書くために情報集めをしているところが、そのまま小説であるという仕組みになっている。しかし、それは単に楽屋落ちのメタフィクションなのではなく、茫漠とした「吉野大夫」をきっかけとして、歩き回る追分の様子を、人々の関係を、書いていく。
吉野大夫をキーワードにして、さまざまなテクスト、土地、人々を遍歴し、うろつく「わたし」の動きが、小説の眼目である。
つまるところ、この小説のなかでは、「吉野大夫」が主人公なのだ。しかし、「吉野大夫」の全貌はほとんど見えてこない。「布袋楼」の「メシモリ女」(その時代追分では遊女の数が制限されていたため、多くの遊女が下女として雇われており、メシモリ女とは、その通称)であったことや、死亡日、戒名などがわかっただけであり、その存在が立ち上がってくるようなことはなにもわからない。つまり、歴史小説としては成立しない。
主人公であるのは、実在の、歴史上の「吉野大夫」ではなく、信濃追分という土地に関係する噂、墓、書物のなかに茫洋と漂うものとしての「吉野大夫」である。
結末近くで、「わたし」は、著者から借りた「食売女(めしもりおんな)」のなかに、吉野大夫のことが一行も書かれていないのを知って、こう書いている。

「そしてそのとき、これも冒頭に書いたとおり、正直いってわたしはガッカリした。しかし、同時に、わたしのこの小説が、そこから出発したのも事実なのである」

つまり、「吉野大夫」が結局のところ謎に包まれたままであるということがはっきりした時、この小説の方法が決まったといえる。だからこそ、歴史小説としてではなく、土地、人、書物をめぐる奇妙なこの小説が書かれたのだ。


「汝の隣人」河出書房新社

 長篇である。帯には連作長篇と書いてあるがそれはつまり、短篇を連ねてひとつの本にしたというほどのことだろうか。逆に、長篇連作といってしまうと、いくつかの長篇が全体としてひとつの世界を、また一繋がりの物語を描き出す場合に使いうのだろう。しかしそれは、〜部作という語とは一体どう違うのだろうか。
 それは措くとして、内容の形式についてだが、およそ十篇の短篇を所収しているこの本では、最初の二篇と後続の八篇とで、かなり色合いが変わっている。いや、三番目の「対談」という短篇もその前後のものとちょっと色合いが違うのではないだろうか。一言で言えば、全体を一つの本としてみた場合、私にはいくつかに分裂しているように見えるのだ。
 各短篇の内容を紹介しよう。
 第一の短篇「汝の隣人」。
 語り手である作家Gは後藤明生である。語られている作中人物のKとは、小島信夫である。私に確認できるのはそれだけである。あと確か、後藤の山荘の以前の所有者は平岡篤頼だったと思う。が、それ以外の頻出するイニシャルはサッパリ。
 語り手の作家Gは冒頭、サイレンの音を聞きながらKの短篇を読んでいる。そしてKの短篇の話から、追分にあるGとKの山荘の距離の話や、Gが何度も引っ越しをしながら、一度として先輩作家Kの近くに住もうという考えを持ったことが無いという、「隣人」の話が出てくる。そこにはまた、ルーツにかんする(そういえば小島信夫には「美濃」という小説がある。当初「ルーツ*前書」として連載されていた。私は未読)断想があるが、ルーツを一本の木のようにして説明するのではなく、混沌から混沌へ、過去も混沌、現在もなお混沌であるという説明法をするようになった、と書いている。それはそれで興味深いものであるが、ここではひとまず先を急ぐ。
 この短篇はひとつの主題を持っている。「隣人」である。隣人というものに対する関係である。追分にある山荘での自宅に紛れ込んでくる隣人達、ハイツにいる隣人達、Kなどの隣にいない知り合い達、そのようにして隣人達との関係をさまざまな面から考えていくのがこの短篇であると言えるだろう。語りもまた、ほとんど動かない現在時のなかに、過去のさまざま場面が挿入されていき、終結部は、冒頭とほとんど変わらない時間に戻るという、人を食った方法である。サイレンの音の鳴る間にこの小説は終っている。
 第二の短篇「N夫人の香水」。
 非常に後藤明生的、と言える短篇だろう。題名が「N夫人」でなく「N夫人の香水」というところがまたいかにも、だ。つまり、この短篇の特徴は間接性である。そしてまた、「隣人」という団地小説の書き手である後藤の面目躍如なテーマも扱っている。
粗筋をまとめることは意味がないので、扱われている事柄を書く。それは後藤明生が眼にするふたつの光景である。
 ひとつは、語り手Gが住んでいるハイツに来た救急車にまつわる出来事。
もうひとつは、語り手が以前家のテレビで見ていた、銀行立て籠もり事件の顛末。
この短篇は明確に第一の「汝の隣人」の続きであることを意識して書かれている。「汝の隣人」で聞こえていた「サイレンの音」がこの話のなかで焦点化されていることもそうだが、「隣人」への視線もまた、連続性を支えている。

 サイレンの音で始動するこの短篇は、すぐ明確に死の匂いを撒き散らすことになる。
五階の窓から手摺りに手を掛けて下を見ているGは、自らが飛び降りるべきところを先に越されたような気分になっている。それはさておき、彼は自分の部屋が繋がっている階段に救急車が来たことから、その階段に接続している十戸のうち、自分の部屋を除いたどれかの家の誰か(つまり隣人が)が運び出されてくるのだろうと思ってそれを観察している。そして、回転灯が辺りを照らし出す光景を見て、それが「いつだったかの深夜テレビの画面のようだ」と語り手は思う。そこで以前にテレビで見た銀行立て籠もり事件を記述していく。しかし、語り手が見ていたのは、一向に事態の推移しない、かわりばえのしない画面であった。ほとんど根比べのようにしてテレビを見ていた語り手だが、結局「銀行の鉄のシャッターはずっと降ろされたまま動かなかったのである」。朝になると、シャッターは半分開けられ、そこから射殺された犯人が担架に乗せられて出てくるところがテレビに映っていたのである。その場面は経緯の説明と共に何度も繰り返し放映され、語り手も繰り返しその映像を見ることになる。語り手はそこで、「それはGが予想した場面ではなかった。」と言う。そして、「予想もしなかったし、推理もしなかった」「風景の変化を待っただけである」とも述べる。これは語り手のこの短篇における位置を明示している。彼は、ベランダから階下の光景を見下ろしつつ、何か変化が起きるのを待っている。いつかの彼も、テレビの前で風景に変化が起きるのを待っていた。彼は徹底して傍観者である。そしてまた、このふたつの事件には死が関わってもいるのである。それに対し、語り手は共に決定的な場面に遭遇することはない。テレビでは、事件後の映像としてそれは反復されるのだし、階下の光景の顛末は、妻の話によって知るのである。間接性。これが語り手の性質を決定づけている。階下の住人の死を知った語り手は、ほとんど記憶にないN夫妻のことを思い出そうと努めるのだが、一向に思い出せず、四五日まえに出会ったことすら忘れている始末である。しかし、テレビの画面を眺めている時、ある光景を思い出す。それは、N夫人の後から階段を上っていく場面だった。語り手は、自分の先を行くN夫人の香水の匂いをずっとかぎ続けていたのだった、ということを思い出す。
 対象から滑り続けていく語りの象徴的な場面である。
 以降の短篇群はおもむきを変えている。三番目に「対談」という篇があるのだが、そこではある「女流作家」との対談の顛末が語られている。これはさほど重要ではないように思える。問題は、この次の短篇なのである。
 「饗宴」と題された短篇の書き出しは、「対談」を雑誌に発表した時に書かれた批評にコメントして始まっている。そこから、その批評家の顔貌や風体を思い浮かべているうち、プラトンの「饗宴」に話はスライドしていく。そして、語り手は「饗宴」の語りの入れ子構造について考えていくのである。語り手はひとまずの結論として以下のように語る。
「過去と現在を連続させた。ややこしい「また聞き」の「また聞き」式方法によって、死者であるソクラテスを生き返らせたのである」

 以降の短篇はがらりとおもむきを変える。プラトンの「饗宴」の導入により、次の「「饗宴」問答」においては誰かからの手紙に対する返事という形式になっているし、その手紙の中で架空の対話を設定し、延々と問答をしていくのである。それに対する返答もまた、架空の対話になったりしていて、もはや収拾のつかない変貌を遂げていく。それ以降話題になるのはプラトン「饗宴」についてで、九州の大学教授Tとのやりとりや、講演の様子などさまざまな相手に対してのプラトン問答が行われていくのである。また、文中にどんどん註を挟み込んだり、形式的にも模倣を行っていく。
 ところで、後藤明生がプラトンを読んだのはいつだろうか? 私が後藤明生の本のなかで最初にプラトンの名を見つけたのは、「笑いの方法」の後書きである。ゴーゴリに関しての彼の論のひとつである、悲劇を喜劇に変換する文体ということと、「饗宴」に出てくる、「喜劇と悲劇とを作る知識は同一の人に属し、術によって悲劇作家であるものはまた喜劇作家でもある」という部分との共通性を見いだしている。この文章は昭和五十六年の秋に書かれている。そして、後藤明生の「饗宴」が発表されたのは、昭和五十六年の八月である。五十六年あたりでプラトンを読んだことが、つまりこの連作の方向性を大きく逸らすことになったのだろうか。しかし、脱線逸脱はいつものことである。脱線こそが真骨頂とも言えるのである。
 まったく、いったいこの小説は何なのだろう? つまらないわけではない。後藤明生のいつもの喜劇を見いだしていく思考は面白いし、際限のない対話も混沌としていたりして面白い。しかし、途中で引用されている批評家の言葉のように、何故か面白い。だが理由は分からない。
 第三篇を区切りとして、切断があるように思われる。それでもなお、長篇とされているのは何故だろうか。


「ドストエフスキーのペテルブルグ」三省堂

 後藤明生がそれについて単著を出した三人の作家がおり、それはゴーゴリ、ドストエフスキー、カフカである。(実はプラトンについての対談本があるのだが、それは除外して)作家がある作家について、一冊の本を書くというのは相当のことだ、とどこかで読んだ覚えがある。それは後藤明生の文章だっただろうか。宇野浩二のゴーゴリ本についてだったかも知れない。つまりそれだけ後藤明生のこの作家達に対する意識というのは高い訳だ。言うまでもなく、ゴーゴリは彼の作家的出発点であり、何はなくともここから始まるのはいわば当然とも言えるのだが、ドストエフスキーやカフカは何故なのか。
 ドストエフスキーは簡単である。彼がゴーゴリのパロディから出発した作家だからだ。それ以前にも愛読していたのだろうが、後藤明生にとってドストエフスキーはゴーゴリとの関係無しにあり得ない存在であろうことは本書を読んでも分かる。以前の「笑いの方法」というゴーゴリ論ではパロディや喜劇、そして都市といった観点から論じてとても興味深い論考だったが、今回のはドストエフスキーを主に、ペテルブルグという都市、またその都市が象徴するものについて書いている。
 ドストエフスキーのペテルブルグとは何か、と後藤明生は問う。そして答える。ペテルブルグとはピョートル大帝が「ヨーロッパよりもヨーロッパ的」な都市を建設しようと言う観念が具象化された人工の街である。また、それが呼び込んだ、スラヴ=西欧の分裂を抱え込んだ、分裂=混血都市である、と。
 そして、ドストエフスキー初期の都市を描いた作品を中心に、近代の分裂と喜劇という視点を核に据え、「貧しき人びと」「分身(二重人格)」「白夜」「鰐」「夏象冬記」「罪と罰」などの作品を読んでいく。
 都市を書くとはどういうことか。それも、ロシアでペテルブルグを書くと言うことは。
 それは、つまりロシアの近代が生んだ一つの矛盾、ロシアと西洋との関係を書くと言うことに他ならないと後藤は言う。ペテルブルグとは、西欧へのコンプレックスからピョートル大帝の半ば狂気とも言えるような「ヨーロッパよりもヨーロッパ的」というスローガンのために建設された世界的にも有数の人工都市であるという。フランス語を社交界の公用語にしたりするなどの政策が実行されたロシアにおいて、西洋的知識の流入により必然的にロシアの大地から離れてしまった知識人の自己分裂を、分裂したまま喜劇として描くというのが後藤明生がドストエフスキーから読んだ「方法」である。
 さて、以上の要約のなかで何か見覚えのあることがなかっただろうか。
 《西洋的知識の流入により必然的にロシアの大地から離れてしまった知識人の自己分裂》
ここには、明治時代から始まる日本近代文学との根本的な共通性が見られる。漱石、鴎外、四迷、それぞれ、英独露といった外国文学の素養から出発した作家である。なかでも特に、四迷は、ドストエフスキーなどのロシア文学を読み、翻訳をいくつもしている。そして、四迷はドストエフスキーの分裂を模倣し、日本近代の分裂を描こうとした作家ではなかったか。後藤明生の日本文学の読み直しはここから出発する。都市小説という観点からはまた夏目漱石と永井荷風が線上に挙がる。
 「壁の中」というまだ未読の長篇は、いろいろ情報を見る限り、ロシア文学から日本文学を読み直すという視点を中心としているようだ。具体的に言えば、ドストエフスキー「地下生活者の手記(地下室の手記)」で永井荷風を読むという試みらしい。


「行方不明」福武文庫

「関係」
「行方不明」
「針目城」
「目には目」
「鰐か鯨か」

 著者自選短篇集。デビュー作の「関係」から、引用の手法が縦横に駆使されている後期作品まで。後藤作品の多様な特徴を網羅するように編まれており、著者の方法の遍歴と多様性を見るには適しているだろう。
 全体を俯瞰すると、初期作であり、内面よりは関係を方法化した「関係」。現代の都市とわれわれとの奇妙な関係を機軸に据えた「行方不明」。自分の郷里とその土地にまつわるテクストを引用することによって乾口達司に従えば、「テクスト=言葉が重層化されることによって、反対に「朝倉」(故郷=本籍地 引用者註)を内面化することの不可能性=拒絶のさまを露呈させる」ものである「針目城」。小市民的滑稽さを描きながら様々な形式の文章が引用される「目には目を」。無関係と思われるもの同士をつなげていく新しい読みを試みる「鰐か鯨か」。以下、適当にコメント。

 「関係」出版社に出入りする女性の一人称で書かれた、著者唯一の女性一人称の作品。異様に一文の長い人工的な文体と、語り手の内面をほとんど語らない硬質な語りが独特で、ここにはすでに人間の内面に焦点化するのではなく、「深み」という垂直の軸よりは、「関係」という水平の軸をつないでいく方法的実践が行われている。
冒頭の書き出しからして、この小説がどのような方法的指向のもとに書かれているかがわかるだろう。

 「西野は北村に弱みを握られていると思っている。北村はああいう男だから年の二十九歳にもなれば社会的信用などというものを考えているにちがいないが、その彼の考えているおれの社会的信用というやつを、やりようによってはゼロにたたき落とすことだってできると北村は考えているにちがいない、そんなふうに西野は思っているのだ」六頁

 入り組んだ関係を、さらに入り組ませる関係代名詞を連ねたような構文で、男と男の様子を描き、さらにそれを観察する語り手の存在を示している。語り手の語りは、特に女性的文章にしようなどとは考えてはおらず、ある程度丁寧に言葉を選んでいるものの、内容を見ないでは語り手の性別を答えることはできないような文章である。ここに求められいてるのは、女性という感性ではなく、対立しあっている男性二人とあえて関係を持つことによって、逆説的に立ち上がる女性の特権的立場にあると考えられる。この語り手の女性は(井上淳子)、紆余曲折を経ながら二人の男と関係し、その男たちの関係を支配できる位置に立っている。最終的に引用で示したような関係は維持されることになるのだが、二人の男と関係しているという、西野にとって気を落ち着かせる重要な情報を、淳子は西野に伝えない。それによって、西野という男の北村に対する恐怖は維持され、その関係もまた続くことになる。それによって西野の恐怖が相対化され、淳子に笑われている。しかし、それには彼女が二人の男生徒関係を持たねばならないと言う、受動性が刻印されている。超越的立場から笑うというのではない。諷刺とは自らの立場を鮮明にしたところでの笑いであるが、後藤明生の追求する笑いとは、そのような諷刺の不可能を認識したことに始まっている。詳細は「笑いの方法」を参照すべきであるが、つまるところ、「関係」の「笑い」というのが後藤明生の現代の把握なのである。
その意味で、後藤明生の方法的実践の端緒として、この作品は本書筆頭に掲げられていると見ていいだろう。
 また、「笑い地獄」での語り手と、今作での語り手の類似と差異が気にかかる。後藤作品の語り手の決定的な受動性の面が現れている。。今作では「女性」となり、「笑い地獄」では、乱交パーティの時に眠ったふりをして一番面白いところを見逃すという役回りとなっている。男であるということ、支配的地位を剥奪された場所にたっていること。居るようで、居ないゴーストライター。

 「行方不明」
 初期の代表作といえるであろう、中篇。シグマ研究所と呼ばれる無料の週間情報誌を発行しているところに就職した男を語り手として、不可解な事件に巻き込まれていく状況を描く。
こう書くとミステリチックな物語のようにも思えるのだろうが、ほとんど逆を行っている。この小説のなかでの最大の関心事とは、自分が関わっている事件と他人が関わっている事件との部分と全体との関係である。
どういうことか。
 事件とは、シグマという週刊誌が四週にもわたって配達されて無いという電話から始まる。元々無料でもあり、配達されないと言うこと自体がさほど問題になるわけでもないのだが、四週間ものあいだ配達されて無いということそのものは問題であり、語り手はその電話をかけてきた女性と延々話し続けるのだが、女性の事細かであるが要領を得ない報告が、結局は事件の解決になんら方途を与えるものではない。
 謎である事件というのが、今作のおよそ中心をなしている。その事件との関わりが問題でもある。作中繰り返される「部分と全体」という言葉は、もはや全体を把握することができないのだということでもある。東京タワーから何度外を見ても見つからなかったシグマ研究所を、新聞の求人広告に見つけたり、自分のつとめているところが分室であるものの、シグマ発行に関してはそれが全体であるということなど。そして、川のなかにシグマが大領に捨てられていたという事件の犯人や全体像に関しては、まったく未知のまま、研究所の企画部長に「行方不明になっているのは、ひょっとすると、君の現実なのだ」と宣告されてしまう。
 事件の全体は不明であり、語り手と事件との関わりもまた切断される。電話をかけてきた女性にとっては、そのゴミの山を川のなかに発見した一部始終が事件の全体であり、語り手に電話をかけたことで完結している。
 この不可解な関係の体積、行方不明の事件、無数に繰り出される解決されない疑問符。直接「挟み撃ち」にかかわるモチーフをいくつも内包しているがそれにとどまらず、以降放棄されてしまう綿密な構築性がみられ、奇妙な中篇として完成度は高い。

 「目には目」は初期の小市民的滑稽さを中心にして明確にフィクションを作った、奇妙な短篇。懐かしい論理の迷宮ぶりが鮮やか。こういうところは都市の人間を執拗に描いていた安部公房と交錯しているような気もする。公房の没後、明生は彼に対して何か自分なりの考えもあるとどこかで書いていたが、その具体的な内容はまだ呼んだことがないのだが、いったい明生は公房に言及しているのだろうか。しているとして、どのような?

 「針目城」は場所とテクストという手法の一つであり、また古典を現代語訳し、なおかつ小説という形式に落とし込む多重的な一篇。引用の手法が、彼にあっては小説という夢への憧憬を伴っているという点でも、典型的な明生作品といえる。

 「鰐か鯨か」
 ドストエフスキー「鰐」とメルヴィル「白鯨」とを連結させる、テクスト読み換え系ともいうべき系列のもの。架空講演の後日談という形式をとり、講演の依頼を受けた図書館員に延々「鰐」と「白鯨」の梗概をしゃべり続けるという、特異であるが明生のいつもの手法。
 メルヴィルの「白鯨」に出てくる、鯨という語を含む無数の文献からの引用を集めた部分に注目し、その原文がいったいどうなっているのか調べているうちに、そこで鯨だとメルヴィルが書いている部分は、レヴィアタン(鰐)であったり、魚であったりと、どうも話が違うことに気がつく。どうも、鯨というよりは鰐の方が多いと気がつく。そこで、メルヴィルが嘘を書いていると批判するのではなく、メルヴィルとドストエフスキーをつなげていこうとするのだが、とつぜん電話の音によって終わる。何とも人を食った終わりである。ほとんど話芸だけで構成されている気すらするのだが、このような奇妙な形でメルヴィルとドストエフスキーを連結させる眼目には目を見張るものがある。ここら辺が後藤明生を読むときの楽しみでもある。


「首塚の上のアドバルーン」講談社文芸文庫
(以下はbk1に書評として投稿したものです )

首塚とアドバルーンという取り合わせの妙が印象的なタイトルを持つ本書では、千葉幕張に越してきた「わたし」(ほぼイコール後藤明生と考えてもいい)が、家のベランダから見つけた「こんもり繁った丘」が鍵となる。
その丘の上で偶然見つけた「馬加康胤の首塚」から、話は逸れはじめ(しかし、いったい“何”から逸れたのか?)京都や「雨月物語」の舞台、新田義貞の首塚から、「太平記」「平家物語」など、さまざまな方向へと縦横に飛躍し始める。

いくらか後藤明生を読んできたものにとってはなじみの光景ではあるが、これではじめて後藤明生を読むものはなんとも困惑する以外にないのではないか。最初の二篇などは幕張の都市の光景を、あくまで「わたし」の視点から細微に描き出しており、この小説を片手に現地に行っても道に迷わないのではないかと思わせるほどである(もちろん、相当景色は変わっているはずだから、今そんなことはできないだろうが)。また、郊外の都市の変貌をも細かく捉えており、「首塚」と「アドバルーン」という取り合わせが示すような、現代都市の不思議な関係もまた、この小説の主題となる部分である。
しかし、首塚を見つけてから、一気に話は遠心的に加速する。それとともに筆法も変わり、書簡体小説に変貌するのである。

後藤明生はかなり意識的に「書く」ということを前景化して小説を書いてきた作家である。書簡体、報告調、日記などなどの形式を多用する独特のスタイルが氏の小説の特徴である。都市を歩いているときには採用されなかったこれらの形式(ただ、都市もまた“読まれる”ものであるとするなら、現在形の一人称で書かれる前半部分はやはりそれなりの必然性を持っている)は、しかし、「平家物語」「太平記」を話題にし始めるのとともに、採用されることになる。

それはひとまず「引用」を自然に行うためでもあるだろう。『挟み撃ち』のように語り手が明確に設定されている作品のなかで、延々と引用しはじめるのはやはり不自然だからだ(大西巨人の「神聖喜劇」では主人公東堂太郎の“超人的な記憶力”によってそれを解決している)。ただ、それにとどまらず、日記や書簡などの「書く」という形式が選択されているのには後藤明生の小説の方法において核心となるものがあると思う。

それは、書くことの「現在」性とでも呼べばいいだろうか? この連作短篇集の諸篇は、一作ごとに二ヶ月から半年、最長で一年の時間をおいて間歇的に書き続けられたもので、結果四年かかっている。これを読んでいると後藤明生はいったいどこまで考えてこの作品を書いたのだろうか、と思うことがある。初期の長篇「夢かたり」において、後藤明生は最初の一篇を書いてから、それをモチーフにして次のを書くというやり方で書くのが自分の連作の方法なのだと書いていたが、おそらくその方法はここでも用いられている(というか、後藤明生の連作はほとんどそうやって書かれていると思う)。書いているうちに偶然ぶつかった何かを、当初の予定とは違うということで排除するのではなく(“当初の予定”などない!)、積極的に偶然を取り入れ、「今現在」として書き続ける。

「マンションの十四階のベランダから見える、こんもりした丘の上で偶然に見つけた首塚からはじまったわたしの『平家物語』『太平記』めぐりが、めぐりめぐって、『仮名手本忠臣蔵』にたどり着いたということです。馬加康胤の首塚→新田義貞の首塚→『太平記』→瀧口寺→『平家物語』→『瀧口入道』→『平家』→『太平記』→『徒然草』→『太平記』とアミダクジ式遍歴を重ねるうちに、『仮名手本忠臣蔵』にたどり着いたという不思議なのです」208頁

作品の主な部分は、上記に羅列されたテクスト群を偶然によって遍歴し、それをまさに「読む」ということに費やされていく。つまりこの小説は「読む」ことによって成立している。おそらく上記のようなプロセスはふつう、小説のための情報集めとして行われるものだろう。が後藤明生にあっては、書かれている「現在」とはまさにその「読んでいる」プロセスそのものだ。ふつうの小説に比して、徹底して情報を開示するこの小説は、それ故独特の展開を成すのである。予定された物事を流暢につないでいく「語り」ではなく、徹底して現在的であろうとするため未完結になるしかない「読んでいる」というプロセスは、「書く」という方法でしか表現し得ないということだろう。

『吉野大夫』もまた、「小説のための情報集め」そのものを小説化していた作品だが、すべてが終わってから書き始められたそれに比べ、本書はさまざまな要素が拡散しっぱなしのようにも思える。「吉野大夫」のように、円環的に回帰しないのだ。

「現在」ということに関わるが、『太平記』と『平家物語』の読み比べから「わたし」が見出したのは、『太平記』の以下のような方法である。

「つまり、『太平記』は、「小島法師」によって書かれた同時代史ということです。完結した一時代を過去として書いた『平家物語』と違って、政治も合戦も事件もすべて「昨日」の出来事として書かれています。そのまま「今日」に連続しており、目下進行中であり、未完結である、という意味での「昨日」です」155頁

すなわち、後藤明生もまた「小島法師」と同様の方法を用いているということである。後藤明生が過去を書くときにも、歴史小説のように歴史的過去を現在として書くのではなく、回想として、つまり現在との関係において描こうとするのは、まさに上記のスタンスによってである。そしてまさに、それが現在であるがために、終わることのできないのが、後藤明生の小説なのである。

また、『平家物語』と『太平記』との首の扱いの違いから、両者の書き方の差異にまで話が及ぶなかで、その「わたし」が「読む」ということで得た発見をわれわれは読む。ここにおいて、「書く」と「読む」とが表裏一体の現象であることが見て取れる。読んでいるプロセスがそのまま書かれている本書は、「文学とは「書く」と「読む」とがメビウスの輪のように結びついているものである」とする後藤明生のその小説のマニフェストの実践として、読まれうるだろう。


「小説は何処から来たか」白地社
(以下はbk1に書評として投稿したものです)

日本文学を読み直せ
  本書は、ひとまとまりの長篇評論、といったようなものではない。かといって、ひとつの作家なり作品に対しての論考を集めた、というものでもない。本書は、これまでに後藤明生がさまざまな場所で発表してきたエッセイを、ひとつの線に従って自己引用の織物のように編み上げた書物である。
だから、これまでに後藤明生のエッセイ集なり、評論集なりを読んだことのある人は、既読の文章に多々遭遇することだろう。それはなにも本書の価値を下げるものではない。読み返し、ある流れのなかに置くことによって、後藤明生の一貫した思考を浮き上がらせるからだ。

彼は一貫して日本文学史の読み直しを迫って来た。それは二葉亭四迷まで遡るのだが、その要旨はこうだ。
二葉亭はロシア文学から出発したのだが、彼の書いた「浮雲」とツルゲーネフを訳した「あひびき」のうち、「あひびき」だけが好評をもって迎えられ、「浮雲」の価値は等閑に付されてきた。「あひびき」はその後の言文一致運動のほとんど見本となり、国木田独歩は「武蔵野」のなかで頻繁にそれを引用しているし、永井荷風にまでその影響は及んでいる。柄谷行人(「日本近代文学の起源」)によれば、外国文学との分裂のなかで書き続けた漱石や鴎外ではなく、その後の日本文学の主流は武蔵野に流れていった。つまり、ロシア文学のなかでも方法的、喜劇的なドストエフスキー、ゴーゴリではなく、人情派、抒情的、人道主義的なトルストイ、ツルゲーネフこそがロシア文学であるという流れを生み、そのロシア文学の受容のゆがみが、二葉亭四迷の「浮雲」の挫折を隠蔽してきたという。

後藤明生はそのような観点からいわゆる「日本文学」に対して徹底したオルタナティブであろうとした。「浮雲」とは、日本近代の分裂を、内海文三の自己分裂=自己解体として読み、喜劇として描こうとした作品であり、それはロシア近代の西欧=スラヴの分裂を描くドストエフスキーの作品の方法の模倣であった。日本文学はその関係を忘却しており、私小説偏重、方法の蔑視、喜劇の蔑視に流れていったという。

後藤明生にとってその関係を如実に示しているのは、志賀直哉批判と横光利一評価である。主観的な眼により作品を書いていく志賀と、新感覚派として現われ、さまざまな手法を駆使して小説を書いていった横光利一の一般的な評価の分かれ方こそが、上記の日本文学の方法蔑視の現れであるということだろう。

本書はそのような観点に立った後藤明生による、日本文学の読み直しである。
二葉亭四迷から始まって、夏目漱石、芥川龍之介、永井荷風、宇野浩二、牧野信一、横光利一、太宰治、花田清輝、武田泰淳、鮎川信夫、丸谷才一、古井由吉、始めとと終わりに小説の起源を問う章を設けている。

また、あくまで小説家であることを自覚しつつ書いている後藤明生はほとんど論考という形式ではなく、いつもエッセイ的な筆法を選ぶ。それが小説家の特権であり、運命であるということだろう。そして、特殊なのは、それを集成する時にほとんど元の文章から変えないでいることである。講演原稿、アンケートといった体裁の文章が、コトワリもなく渾然一体となって本書を構成している。そのため、どこから読みはじめても、どこで読み終えても構わないし、そもそもエッセイのような文章なので読みやすく、論旨も分かりやすい。
が、後藤明生のいつもの癖というか、具体的な論述の展開をあまりしないため、ただ結論がぽんと投げ出されているように思えることも確かである。それこそがエッセイ的な方法とも言えるのだが、物足りない気もする。しかし、後藤明生の真骨頂とは、内面を掘り下げたりなどせず、多様な形式で、ひたすらさまざまな方向に関係を繋げていく横滑りの快楽にこそあることを思えば、本書はまさに後藤明生的な書物である。


「日本近代文学との戦い」柳原出版
(本項はbk1に書評として投稿したものです)

つまらないわけではない。かといって面白いとも思えない。後藤明生の真価(私にとっての)が発揮されていないと見る。

後藤明生が最後に書いていた中絶した連作と、評論、講義録、エッセイ、随筆などを集成した遺稿集。もはや後藤明生の著作が刊行されることはないのではないかと思っていたところに、とつぜん出版されていたのに気づいて驚いた。

しかし、この連作を読んで失望感がぬぐえなかった。これは、ダメだ、と思った。どうしてだろうかと考えながら読み続けたのだが、面白くなる前に終わってしまった。以前読んだときにもじつは同じような印象があった。
理由の一つには、近代文学について書かれている内容に新味がなかったこともある。これは私が継続的に後藤明生を読んでいると言うこともあって、既知の部分が多いせいでもあるのだろう。

しかし、後藤明生の面白さというのはそれだけで尽きるわけではない。彼は文芸批評家ではなく小説家なのだ。後藤明生の「小説」の面白さがこの「〜戦い」には見いだせなかったというのが私の今のところの感想になる。

たとえば「壁の中」という上下二段組で600ページを超える大作においては、ロシア文学と日本文学との対比という「日本近代文学との戦い」でも展開されているテーマで作品が書かれている。「〜戦い」と違うのは「壁の中」の異様な迷宮性である。脱線に脱線を重ね、何が本筋で何が脇道なのかわからなくなってくる奇妙な叙述が饒舌のなかで繰り広げられ、どこへ行くのかわからない緊張感を醸しだし、意外なもの同士がある時繋げられてしまうアクロバティックな鋭い驚きが「壁の中」にはあった。小説の構造、細部がテーマに収斂することなく、自由自在に繰り広げられることによる、徹底した批評性の堅持、それがある種の緊張感そして得体の知れなさを小説に与えていたというのが私の考えである。それは「挾み撃ち」にも「吉野大夫」にも「首塚の上のアドバルーン」にもあった。

「〜戦い」ではそういった方法は採られていない。二葉亭四迷からはじめて、だいたい年代順に作家を指定し批評するという構成案が示しているように、きわめて形式的である。そして、内容もまた日本近代文学とは外国文学との「混血=分裂」であるという主張に収斂していく。

おかしい、こんなはずではなかった、と思い「壁の中」「スケープゴート」などをパラパラめくってみたが、やはり「〜戦い」はこれらの作品に比べ私には退屈だ。
これらの作品に認めることのできる共通した特徴は、相手への返答ということを過度に意識した文体だと言うことだろう。上記二作、または二段落上で提示した三作どれも、「対話性」を意識して書かれている。特に「壁の中」はドストエフスキー=バフチンのラインを援用しての対話論を展開させ、そのなかでじっさいに永井荷風を登場(!)させて話者との対談が始まってしまう。これらの作品は「対話」によるズレ、脱線を実践しつつ、その先に現れたテクストをその都度読み直し、「読む」というテクストとの「対話」行為によって出現した話題がまたもや新しいテクストを呼び寄せるという、まるでスイングバイのように、あるものからあるものへとぶつかっていくダイナミズムによって駆動されている。
そんな、出会い頭の衝突事故に嬉々として乗り込んでいく様子、渡部直己にならって言えば「子供」という性質が何より興味を惹くのだ。

「〜戦い」にはそれがない。少なくとも感じられなかった。小説と評論のバランスが評論に傾きすぎたということだろうか。「小説」としては末尾にある二つの随筆風のようなものの方が面白い。「〜戦い」にその稚気、遊び心が欠けているのが残念だ。

後藤明生のまとまった小説には、もうひとつ「この人を見よ」というのがある。今はなき文芸誌「海燕」(福武書店)に延々三年以上連載した小説で、ちょっと読んでみた限り「壁の中」の平成版という印象だった。是非これも刊行して欲しい。というか、どこか全集を出してくれ。あまりにも著作が入手しづらいのだ。

2004/07/19(月)


「壁の中」中央公論社
(以下の文章は私がブログ「壁の中」からにおいて、2004年9頃に書いていたものの転載です)

後藤明生が延々五年間文芸誌に連載し続けた1700枚の長篇小説。
二部構成で、第一部では大学講師の生活と、友人Mにむけた手紙(結局投函されていない)とが入れ替わりに書かれ、二部になるととつぜん(本当にとつぜん)、死んだ永井荷風が一部の語り手の前に現れ、ふたりだけの対話が二百ページ近く繰り広げられるという奇怪な構成。中野重治「甲乙丙丁」、小島信夫「別れる理由」と並び、誰にも読まれない大作、とは某教授の言。

とはいっても、とても面白い。後藤明生の代表作を三つ挙げろと言われれば、「挾み撃ち」と「壁の中」ははずせない、と私は思う。あとの一つは、「吉野大夫」か「蜂アカデミーへの報告」か「首塚の上のアドバルーン」あたりで迷う。一般的には谷崎賞をとった「吉野大夫」だろうか。

この小説、ほんとに変な作品で、読んでいると飲み屋で延々続けられる与太話を聞いている気分になる。繋がっているんだかいないんだか微妙なズレ具合で話題が飛んでいくし、こうでもないああでもない、でもこういうことなんじゃないのかな、という感じでどことなく曖昧に議論が進んでいってしまう。
後藤明生ファンにとっては、氏の与太話が紙幅の制限もなく自由気ままに展開されていくのを目の当たりにできる、とても幸福な作品なんじゃないか。

二回目読んでみてよくわかったのは、この作品を主導するモチーフが、自意識の問題だということ。
「壁の中」というタイトル自体、「私」という自意識を壁に見立てているのではないかと思う。

その「壁の中」、作中の言葉で言えば「贋地下室」の中にいるのが、語り手の「僕」または「わたし」である。彼はあるビルの九階にある病院の一部屋を間借りし、家具類や書棚を持ち込み、院長の翻訳の下訳なんかをしながら、大学の一コマ講師としても働き、家庭も持ち、さらに愛人までいる。家、大学、病院の一部屋、そして愛人のマンションを行ったり来るするのが、語り手の生活。
そのなかでも、自分が部屋を借りている病院の一部屋を「贋地下室」と呼んでいる。その理由を説明するために持ち出されるのが、ドストエフスキー、ゴーゴリの小説、特にドストエフスキー「地下生活者の手記」(作中引用される米川正夫訳による)である。
ゴーゴリの登場人物は皆、読者が誰もこうはなりたくないというような人物造形がなされている、と語り手は言う。八十ルーブリの外套のために爪に灯をともすような生活を送る「外套」の九等官や、鼻をなくし、鼻捜索の広告を新聞に出そうとしてある「有力な人物」に一喝され、気絶してしまう「鼻」の八等官たちには、確かに誰もなりたくはないだろう。そして、とつぜん転がり込んだ四千ルーブリの遺産とともに地下室に引きこもった地下室人は、彼の地上における姿なのだという。彼らのようにならない代わりに、地上の世界のリアリズムに唾を吐き、地下室にこもったのだ、と。「彼は、外套一枚のために死ぬ代わりに、自分の地下室に閉じこもったのである」と。

「つまり地下室の住人は、地下にとじこもった『外套』の主人公なのだ。そして彼は、自ら病人だという。キチガイだという。なまけ者だという。賢者だという。虫けらになりたくて仕方ないという。しかし虫けらにさえなれないという。そしてそれが恥辱だという。しかし恥辱こそは快感だという」(10頁)

ああはなりたくない、しかし、自分はああなれそうもない。羨ましくもあり、蔑みたくもある。むしろ、蔑んでいる当のモノにこそなりたいと思うがやはりなれない。
上の引用は、こういった自意識の行き所のない循環を端的に示している説明だと思う。ドストエフスキーの小説が青春小説として(または青年の時に一回ははまる青春期の文学として)読まれるのは、この自意識の問題を扱っているせいだろう。
または、自意識を抱えてしまったことで、逃れがたく生まれる「恥辱」がテーマだと言ってもいい。これは初期作品に特に顕著で私がドストエフスキーの初期作品が好きな理由でもある(実は後期の長篇群は二作しか読んでない)。
「貧しき人々」でも、主人公は文通相手の女性が他の男と結婚するのを見過ごすシーンや、作中ハイライトの将軍との対面シーンも恥辱の極みだし、「賭博者」ではキツイ女に惚れ込んで、何を言われても従ってしまうダメな男のダメっぷりが魅力だし、「白夜」では、いまでいうひきこもりの青年が街で出会った女に惚れてしまうのだけれど、その女が前の男と再会して主人公が結果的に振られてしまう様が痛々しくも笑えてしまう。
そのテーマの見やすい例は長篇二作目の「分身」(「二重人格」)で、これは自分がなりたくてもなれないような、出世志向の俗物の権化のような分身と主人公自身が出会ってしまうという、まさに上記引用を地でいく小説だ。

ゴーゴリの造形した人物はそのままに、その人間に内面を与えてみる。後藤流に言うなら、地下室に引きこもって地上世界に唾を吐く。そうして造形されたのがドストエフスキーの登場人物だという分析は、そのまま「ドストエフスキーの詩学」でのバフチンの分析と重なる。
後藤流のバフチンの読みなのかも知れないが、ここで二人の分析を勝手に要約すると、ドストエフスキーの小説は「自意識を小説化する形式」を用いている、ということなのではないだろうか。

●「贋地下室」

昨日のを読み返してみるといってることがバラバラで意味不明っぽい。纏めなおしてみる。

ドストエフスキー「地下生活者の手記」という作品は、ゴーゴリ「外套」の九等官が、六千ルーブリ(十年間暮らせる金)を得たことで現実世界のリアリズムから逃れるために発明した、地下室というアイデアから出発しているということ。軽蔑され、虫けらのように扱われる存在から、地下室に潜ることで彼らを逆に笑うことができるようになる。ただし、それは「汚辱にまみれた自意識」とともにである。しかも、地下室の住人は、その現実世界に唾を吐くために、六千ルーブリの金と地下室を必要としたのである。

しかし、いまはすでに誰もがみな現実世界にいながらにして現実世界を笑うことができる。「地下室」はすでに一般化した。六千ルーブリも地下室もいらない。つまり、これは「外套」の主人公が九等官のままで九等官の自分を笑うことができる。それが現代だと語り手は言うのである。

語り手が手紙を書き、本を読むあるビルの九階にある一部屋はここで「贋地下室」と呼ばれている。この時代、地下室の知識が一般のモノとなった時代における「地下室」、つまりそれが「空中に飛び出した地下の延長」つまり「贋地下室」。それがこの小説の前提となる設定ということらしい。

だから「地下室」の住人のように大金を持って引きこもれるわけではなく、語り手は大学講師としてふつうに働きに出るし、愛人の家にも行くし、家庭にも帰るわけだ。それが「贋地下室」の住人のあり方なのだ。


しかし、こうまとめてみても「壁の中」の序盤を単に要約しただけで、「贋地下室」がいったい何なのかがいまだによくわからない。現代版「地下生活者の手記」といえばそれまでだが、ではそれはどういうことなのか。「地下室」が一般化した時代においてドストエフスキーのパロディをやるとはどういうことか。


●自意識と恥辱

自意識なるモノが珍しくもなくなった時代と言うことだろうか。たぶんそれは分裂の消滅と言うことかも知れない。ドストエフスキーが青春として消費されることは、「自意識の分裂」なんて大人になればたいしたことのない問題だということになる。
その分裂をなかったことにしてしまうという趨勢に対して、ここで後藤明生はつねに批判の目を光らせている。知識人であるところの大学講師、その職業に就いている語り手の男は、明らかに自意識という「壁の中」にいる存在である。地下室の住人が、内省の繰り返しによって分裂していたように、意識の分裂を抱え込んだ人間である。で、昨日の最後に戻る。

つまり、意識の分裂という事態を小説として書くために要請されたのがドストエフスキー、「地下生活者の手記」なのではないか。しかし語り手は地下室の住人ではない。地下室の住人の言葉を読む「贋地下室」の住人なのである。

これは二つの小説、「地下生活者の手記」と「壁の中」の差異にかかわる。「地下生活者の手記」では、主人公の男はある恥辱の経験に遭ったことが、地下へ潜る契機になってたと思うのだけれど、「壁の中」では、そういった契機、「贋地下室」に潜らねばならない理由は薄い。逆に、「贋地下室」の住人は、ゴーゴリ「外套」、「鼻」カフカ「判決」ドストエフスキー「地下生活者の手記」などなど、恥辱、屈辱の経験を描いた作品を特に多く引用しているように見える。これは文学作品に限らず、ギリシャ神話でも、醜男とされたヘパイストス、聖書からは陰部を見られたノアなど、どれも屈辱の経験にかかわっていないだろうか。思い返せば語り手自身も、「ゼンキョートー」の連中のダンスにある屈辱的なショックを受ける体験を語っている。

恥辱と自意識。「壁の中」からそういったモチーフを読みとることができるのではないか、と言いたかっただけなのだが、無闇に長くなってしまった。今ちょうど脱線の極みという感じでギリシャ神話からオイディプス王の話にまたずれたところを読んでいたから、それが面白いという話をしたかったのに。

まあたぶん、この恥辱と自意識というのは、ロシア文学と日本近代文学とがともに、外国文学との関係の中で形成されたこととかかわってくるような気もするけれど、第二部を読んでからまた考えよう。

(恥辱、外国文学、日本近代文学というと、漱石がイギリス留学中のエピソードが思い浮かぶ。イギリスでは外を歩く人が皆大柄の人間であるのに、向こうから来る男は自分みたいに小男だ。しかしよく見ると、それは鏡に映った自分の姿だったという。しかしこの話、有名だけど典拠は何なんだろう)

●個人主義者荷風

やっと読み終わる。後半部分は永井荷風を架空の対談者に仕立てて、本人の前で永井荷風にまつわるさまざまな謎を追っていくという奇抜なもの。その荷風の謎、というのも多岐に渡り、かなり細かいところに踏み込んだ議論になっている。とはいっても議論が難解なわけではなくて、永井荷風を読み込んでいなくても追っていける。ただ、荷風がどういう作家なのかというちょっとした知識はあった方が良いかも知れない。まあ、私も「?東綺譚」くらいしか読んでいないのでたいしたことを知っているわけではない。それでも基本的に議論を追うのに苦労しないのは、その膨大な引用のせいもある。

後半部分で対話を行うのは前述の通り、荷風と、それまでの第一部で語り手であった「わたし」または「僕」である。この語り手の男は荷風と対話するために相当な準備をしているらしく、紙片を挟んだ「断腸亭日乗」全七巻をことあるごとにひっくり返して引用する。この「断腸亭日乗」が後半における主要テキストとなっていて、それに「墨東綺譚」や幾つもの小説を重ね合わせ、照らし合わせ、荷風という明治育ちの作家の輪郭を、後藤なりのやりかたで分析していく。

そこで重視されるのは荷風が昭和という時代の世相から距離をとり、しきりに批判していることだ。荷風というと、芸者街をうろつき、江戸の作家(為永春水?)らを愛し、フランス文学を愛し、おのれの趣味を堅持した孤高の作家というイメージがとりあえずある。その孤高の個人主義は、家族との関係をほとんど断ち切り、義絶した弟宅でなくなったという理由で母の葬儀にも参列しない、ときわめて徹底したものだった。と、ここで作中引用されている鮎川信夫の荷風評をちょっと長くなるが孫引きしてみる。

「当時の私が、荷風の文学、あるいはその人間にひかれるようになったのは、荷風が「家庭の幸福」から徹底的に疎外された文学者であったことが、おそらく作用しているであろうと思う。(中略)私が『墨東綺譚』を読んだ頃は、荷風の日記のことは知らなかった。しかし時勢に背反し孤立しても常に自己の道を歩きつづけようとする一徹な個人主義の耽美の精神は、その作品からでも充分に感得することができた。(中略)それは、個人主義的な強い自我の主張というよりは、享楽に徹底した人間の、のっぴきならない、生き方として、そこに在ったのである。/荷風はそのような生き方を、永年にわたって、意識的につくり上げてきた。おそらく、それは「家庭の幸福」から疎外された文学者にしてはじめて可能な、といえるような性質のものであった。(中略)荷風が戦争期のナショナリズムと無縁でありえたのは、あるいはこのような家族に対する厳しい態度と軌を一にしているのではないか、と私は思う。日本人のナショナリズムは、一心同体的な家族意識とつながっていたから、それを断ち切れる人間でないかぎり、戦争期のナショナリズムと全く無縁の位置に立つことは容易ではなかったはずである」(「戦中〈荷風日記〉私観」)

個人主義を貫くにはそういった断ち切り、断絶が必要であったという。金を貯め「偏奇館」を立ててそこにひきこもり、日本や時勢に唾を吐く。この姿、前に書いた、ドストエフスキー「地下生活者の手記」の地下室人の姿に重なってこないだろうか? 現実世界のリアリズムに唾を吐くために、六千ルーブリの金で地下室にひきこもった地下室人と。

●近代文学の分裂

この小説(というより後藤明生)が一貫して喚起しようとしているのは、日本近代が「分裂」であったということである。ロシア文学それもドストエフスキーを特に持ち出して示そうとしているのは、ロシアの知識人がヨーロッパの知識を吸収したためにロシア的なモノから切り離されてしまった、バラバラな人間であったという認識である。
日本もまた、近代文学のはじまりにおいて、西洋と日本とのあいだに引き裂かれていたというのが、後藤明生の年来の論である。二葉亭四迷はロシア文学の翻訳をし、「浮雲」ではドストエフスキー、ゴンチャロフなどのロシア作家の文体、構成を踏襲している。漱石は英国、鴎外はドイツと、明治の錚々たる顔ぶれが、外国文学との密接な関係の元にその文学を立ち上げているというのは、すでに文学史的常識に属するだろう。

そして、その文脈に上記の荷風の姿を接続する。前半で執拗に追っていたドストエフスキー「地下生活者の手記」の主人公の姿に荷風を重ね合わせ、彼ら(地下室人も、漱石も鴎外も二葉亭も正宗白鳥も!)は近代という時代のなかで、西洋と日本とのあいだで引き裂かれたバラバラ人間だったのだ、と正宗白鳥の分類を用いて「総括」する。一応、これが「壁の中」という作品の「結末」である。ラスト数ページの展開である。

そうやって作中での議論を落とし所に落とし込んで、小説としては一応の終わりを迎えることになる。ただ、このラスト、いかにもとってつけた風である。というか、正宗白鳥が出て来たあたりからの展開はそれまでとはちがい、俄然急展開の様相を呈する。その後半五十ページくらいで西洋と日本との関係にまとまりをつけ、一気に総括してしまう。とってつけたような終わりといったが、脱線に脱線を重ねている小説のなかで、まともに結末をつけようとすればおそらく、どうやってもとってつけた風にならざるをえないのだろう。むしろ、この終わり方はこの小説がいつ終わってもいい作品、またはいつまでも終わらない小説であることを露わにしているのだと思う。

上記の「結末」にしても、これが果たして「結論」と呼べるかどうか。むしろ、これが出発点そのものではないか。「壁の中」の書き方とは、とりあえず上記のような結末=テーマを把持しつつ、それをいかに脱線し、迂回し、細部を浮かび上がらせるかということに賭けられてはいないか。上記のような結末くらい、後藤明生はエッセイのなかで何度も繰り返しており、読者としては耳にタコである。そして、それでも後藤明生の小説が面白いのは、それが小説として奇妙な運動を持っているからではないか。バラバラ人間をテーマにしたことは、「壁の中」というタイトルに率直に示されてもいる。これは「地下室」の読み替えであり、つまりは現代の言い換えでもある。バラバラ人間たる先祖を持つ昭和現代人はことごとく、そのバラバラを受け継いでおり、そのバラバラがもはやもう単純な西洋と日本という対立軸では捉えきれないほど分裂してしまったこと、それが「壁の中」というタイトルに示されている。


●方法論?

「壁の中」の構成は、現代という時代(全共闘の終焉を意識している)におけるバラバラ人間(語り手の三カ所の家)のあり方を、後藤明生式の日常描写で描き、ドストエフスキー「悪霊」や聖書などにおける「父と子」の関係を昭和現代人と明治人荷風との関係にスライドさせて形づくられている。

この小説はこのスライド、関係の変奏、脱線の仕方、連繋の異様なふくらみによって支えられている。たとえば本作の「意図」つまり、上記のごとき「日本近代文学の分裂」というようなテーマを、論文にして纏めることはそれほど難しくはないだろう。むしろ、作中の言葉を適宜拾えばそれなりのまとまりはできるだろうと思う。

しかし、この小説のもっとちがった企み、または読者つまり私がこれを面白いと思う理由はいったい何か、を問い始めると途端に難しくなる。テーマはむしろ簡潔である。では作品のこの異様な迷宮性は何か?

それをたとえば主題の単一性に小説を従属させないため、つまり、物語に単一の寓意、教訓を読みとるような単純化をできうる限り避けるため、というような説明も可能だろう。先日なくなった種村季弘氏が「笑い地獄」文庫版の解説に書いているように、後藤明生がロマン派的な作家(太宰、壇、牧野)に“逆接”していることは確かだ。「壁の中」の永井荷風もその逆接の素材として現れていると思う。後藤明生のパロディの仕方というのは、およそつねにそういった契機を持っている。自身が軍国少年であったことを回想しつつ、それを距離をとって眺めて滑稽なものとして描き出そうとする初期の傑作群(笑い地獄、挾み撃ち等)がそうであるように、ロマン的な視点をあえて措定し、それを客観視するという構造がよく用いられる。後藤明生の言い方でいえば、それが「楕円」の世界である。そして後藤明生はその楕円を構成するために、自身が良く批判する当の「円」を片方に付置するのではないか。

それを小説の方法論として用いると、「壁の中」になる。つまりこうだ。ある簡潔なテーマを立てておいて、それを横目に見ながら縦横無尽に飛び回る。棒にくくりつけられた羽虫みたいに飛び回る。その軌跡が「壁の中」という小説となる。ここでその棒とは、ロシアとスラブの分裂に悩まされたドストエフスキーと、そのドストエフスキーを読み日本と西洋とに引き裂かれた二葉亭にはじまる日本近代文学という問題を具体化した、語り手が起居している病院ビルの九階である。この九階をメインにしつつ、語り手は色んなところに飛び回る。大学、家、愛人の家、聖書を買いに銀座まで。そしてこの九階で永井荷風と対話する。

小説は単なる後藤明生のテーマの敷衍でもなく、絵解きでもない。論文でもないし、エッセイでもない。形式も文体も構成も違えながらいかにバラバラなものを抱え込むかという試みにも見える後藤明生の小説は、そうやってある種の単一性に回収されることに抗っていたといえる。

ただ、しかし、本当にそう要約してしまって良いものだろうか。単一性に回収されることへの抵抗、という言葉で後藤明生の脱線を説明できるものだろうか。それこそ安易な単純化だろう。後期の後藤明生の小説については、もうちょっと違う見方もあるのだが、まだ考えなくてはならない。

●正宗白鳥と内村鑑三、そして西洋の三角関係

「壁の中」の終盤で、正宗白鳥が出てくる。正宗白鳥が出るあたりというのは、小説としてけりをつけるために超特急で議論が展開していくようになっていった部分で、かなり急いでいるのが目に見える(作中、対話相手の荷風に「新幹線式」か、などと言われている)。そこで出てくるのが、「壁の中」の中心的課題である「日本と西洋」の問題である。そこでとりあげられるのが、正宗白鳥のキリスト教との関係である。

正宗白鳥は若い頃に内村鑑三に心酔し、十九歳でキリスト教に入信したが、四年の後棄教した。しかし、それから六十年ほど後、白鳥八十四歳の死の床で、突如キリスト教に回心したというのである。そして語り手は白鳥が書いたエッセイなどを引用し、白鳥のキリスト教には<殉教>が欠かせぬらしいことを丹念に追っていくのである。そして、結論のように、白鳥とキリスト教の関係を以下のようにまとめている。


「聖書とキリスト教を中に挟んで、ニキビ面の中学生が互いに競争している。聖書に対して果たしてどちらがよりマジメであり、より忠実であったか。どちらがより良心的で、真の愛を抱いておったか。白鳥センセイは、その秤として、<殉教>を挙げたわけです。/要するに、白鳥センセイにとって<聖書><キリスト教>は、<舶来のマドンナ>なんですよ。そのマドンナに田舎のニキビ中学生が憧れ、こがれた。ところがマドンナ様は、どうやら<殉教>を強要されるらしい。しかし自分は、もともとホリュウの質だ。子供の時分から胃腸が弱い。とても<殉教>の苦難には耐え切れそうもない。さて、どうしたものか。仕方がない。マドンナ様への敬愛と思慕は絶ち難いが、ここは耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、イサギヨク諦めよう。しかしこれは決してマドンナ様への<裏切り>でもなければ<心変り>でもない。いや、反対に、マドンナ様への純粋な愛を守るためだ。そしてこの誠心はマドンナ様にいつかは通じるはずである。いや、もし仮に通じなくとも、時分は自己欺瞞の罪だけは犯したくない。と、まあ、これが白鳥センセイの<棄教><転向>の論理です。/ところが、内村鑑三の存在が気になって仕方がない。(中略)あの男、<殉教>出来もしないくせに、マドンナ様への愛情をしゃあしゃあとまくしたてているとは、何たることか。何たる厚顔、何たる無恥ぞ! マドンナ様! 彼は嘘つき男です。あんな男の誓文、恋文を決して信用なさってはいけません。あの男はあなたのために<殉教>する勇気など本当は持っていないのです」(「壁の中」550〜551ページ)


後藤明生にかかると、内村鑑三と正宗白鳥がマドンナに憧れるニキビ面の中学生になってしまう。彼らのキリスト教経験については私は全く知らないので、この要約、喩えが果たしてどれほど正当なのかはわからない。しかし、これはかなり傑作な話じゃないだろうか。こういうユーモラスな視点というのがやはり後藤明生独特の魅力で、後半部分の妙な必死さが感じられる・感じさせる部分はもう、真骨頂だ。


●太宰とヘパイストスの哀れな滑稽さ

作中ではほかにも、こういう部分が多々存在する。醜男で知られているはずのギリシャ神話の神・ヘパイストスが、なまじ美の女神アフロディテと結婚したために、妻の浮気に悩まされていることを、こんこんとゼウスに説き聞かせるところもそうだ。哀れな男の弁明である。少し脱線するが、この部分はこのあとに「東洋の島国」の「太宰治という作家」が書いた「懶惰の歌留多」の話になってしまう。なぜかというと、この作にヘパイストスがローマ名であるところのヴァルカンが、美男子として出てくるからだ。

そして太宰の墓には若い女性が群がっているということを語ったあと、ヘパイストス風の語り手はこう語る。


「もし仮に、わたしが彼女たちの前に姿をあらわし、「私を信じなさい」といっても、彼女たちは信じない。あのヴァルカンは贋物です、本物はこの足の曲がった醜男の鍛冶屋なのですと、いくらわたしが繰り返しいったところで、彼女たちは信じますまい。だからこそ彼女たちは、ダザイの墓石のまわりに群がり、その彫まれた文字にサクランボを詰め込んでいるのでしょうから! つまり、彼女たちにとっては、すでにダザイがヴァルカン様なのです!」(「壁の中」267-268P)


醜男のはずのヘパイストスが、女性にもてる作家に美男子であると書かれた、というとても微妙な関係。ただ、ここでヘパイストス(風の語り手)は僻むわけではなく、地球上に美男子のヴァルカンを祀る国が一つくらいはあってもいい、ダザイにはむしろ感謝していると言ったりする。ただそれでも、やっぱり自分は不幸なのではないかとヘパイストスは考える。

ここのくだり、後藤明生のユーモラスな眼差しが典型的に現れている部分だと思う。哀れな男の滑稽さとでも言おうか。そういうものへの注視が、後藤明生のユーモアの一つだ。ヘパイストスのくだりを特に持ってきたのは、ここでは、ヘパイストスが自ら語る(のを装った語り手が語る)哀れな身の上話の途中で、とつぜんダザイの話が始まるというのは上記した通りだけれど、そこでダザイの「懶惰の歌留多」の話から、とつぜん、太宰の芥川賞落選話になるのである。つまり、哀れな男の身の上話に挾まれた、もうひとりの哀れな男のエピソード! 滑稽さ倍増計画である。

この哀れさと滑稽さというのが後藤明生の面白いところで、これがちょっと前にも書いた恥辱と自意識のテーマに繋がっている。恥辱と自意識、または「汚辱にまみれた自意識」、これが「壁の中」前半のライトモチーフになっているというのも書いた。この自意識を滑稽さとともに描き出すこと。それがおそらくは後藤明生のひとつのテーマではあるだろう。それはもちろん、ここでは触れないが「赤と黒の記憶」以来の、後藤明生自身の体験に根ざしてはいるのだろう。そして後藤は、その恥辱の自意識を方法的に喜劇化しようと試みた。

それがヘパイストスと太宰治である。さらにその方法の起源がゴーゴリであり、ドストエフスキーであり、カフカである。後藤明生のドストエフスキー論「ドストエフスキーのペテルブルグ」は、「壁の中」で扱っているテーマを論文、エッセイの形で書いていて、非常に参考になるのだが、そこには以下のように書かれている。


「(ゴーゴリ「外套」では)もちろん「語る」のは九等官自身ではない。いわゆる「内面」のモノローグもない。彼はただ、「他者の言葉」によって外部から「語られる」存在であって、彼自身の言葉をほとんど全面的に放棄している。あるいは、掠奪されている、といってもよいが、とにかく、彼の「自意識」は空洞である。もちろん、その空洞は、作者ゴーゴリがそれを無視したためであるが、おそらくドストエフスキーは、その空洞を言葉で埋め尽くそうとしたのである。
 自分の言葉を放棄した、あるいは掠奪された九等官に、喋って喋って喋るまくらせること。『外套』の主人公の、無視され空洞化された自意識をあぶり出し、中年の孤独な万年九等官を「自尊心」と「屈辱感」との分裂病患者に異化すること。これがドストエフスキーの『外套』に対する批評であり、「外套」の「読み換え」であり、そのパロディー化の基本ではないかと思う」(「ドストエフスキーのペテルブルグ」59-60P)


ここでは「中年の孤独な万年九等官」となっている(「貧しき人びと」)が、これはそのまま「地下生活者の手記」にあてはまる。ここで言う異化とは、そのまま喜劇化と言い換えて構わないだろう。「地下生活者の手記」は、恥辱にまみれた自意識、または、恥辱によって生まれた自意識の絶え間ない循環構造を、言葉で埋め尽くし、喜劇化したといえる。おそらく、後藤明生の「壁の中」の目論見もこの路線に沿っている。


●自意識の喜劇化

しかしそれは「地下生活者の手記」のようにはならない。現代人の分裂というものが、ドストエフスキーの時代とはちがって、より複雑になってしまったからだ。そこで後藤明生は「父と子」、つまり、昭和現代人と明治人というかたちで、先代の「分裂」を明示することによって、現在の「分裂」に目を向けさせようとしている。「われは明治の児」の子なりけり、というわけだ。

そして荷風と白鳥は、分裂しながらも自らの分裂は言い立てず、相手(白鳥ならば内村鑑三)こそが分裂した、矛盾した人間だと言い立て、自らの純粋さを強弁するのである。しかし、その振る舞いこそが分裂したバラバラ人間のバラバラたるゆえんであると語り手は言う。


「もっとも、中には、最後まで自覚症状を持てないバラバラ人間もいるそうです。つまり自分がバラバラ人間であることを意識しないバラバラ人間ということになりますが、それは本当は意識出来ないのではなくて、ある種の強迫観念のせいらしいですね。
 簡単にいえば、それは<バラバラ>はよくない、という強迫観念があり、その裏返しとして、自分だけは<バラバラ>ではないというナルシズムに満足を求めるらしい」(「壁の中」563P)


似たような文言が「ドストエフスキーのペテルブルグ」にもあった。これはルネ・ジラール「地下室の批評家」の引用らしいが、以下である。


「ロマン主義者は自分自身の分裂を認めず、そして認めないことによって、それを悪化させる。彼は自分が完全に唯一不可分のものであると思いたがる。そこで、彼は二つに分かれた自己の存在から一つを選び出す。いわゆるロマン主義の時代では、それは一般に理想的な崇高な半身であるが、今日ではむしろ卑小な半身である。そして彼はこの半身を自己全体として通用させようと努める。自尊心は自分の周囲に現実全体を集め、統一できることを証明しようとする」(104P)


そういったロマン主義を批判し、ナルシズムを挫折させることが、後藤明生の試みの一つだと思う。前半部分の日常描写でも、自分自身を滑稽なものと見る眼差しが働いている。その眼差しがこの小説の方法を要請するのである。「壁の中」の小説形式のバラバラぶりは、つまりはそういうことだろうと思う。


●「壁の中」から

そして、明治の児の子の昭和現代人が「バラバラ人間」であり、われわれがさらにその彼らの子である以上、われわれも分裂した「バラバラ人間」であることから逃れられない。バラバラ人間とは、西洋と日本とに引き裂かれた近代知識人のことであり、また決して逃れることの出来ない恥辱としての自意識を持った、人間すべてのことだろう。そして、「壁の中」で作中の語り手が延々と正体不明の人物に手紙を書きつづっていたように、自意識が生んだ滑稽なる言葉を書き連ねるというわけだ。


「八月/愚者の時間」作品社
(以下の文章は私がブログ「壁の中」からにおいて、2004年9月頃に書いていたものの転載です)

●後藤明生の朝倉

この作品集は、前半と後半で分けられていて、それぞれ趣のちがう短篇が並べられているのが特色。前半には別荘のある追分や、ナナという飼い猫を扱った私小説的な短篇。ここのところ後半に集められている短篇を読み返していたのだけれど、こちらは、後藤明生の本籍地である九州福岡県の朝倉という場所について書かれた短篇といえる。

九州朝倉という土地は後藤明生の本籍地でありながら、後藤自身は一度もそこに住んだことがないという。後藤の父の地元だけれど、彼の両親は結婚後朝鮮の永興に渡り、そこで後藤は生まれた。本籍地は内地のままということが、なにやらよりどころともなっていたらしい。


「植民地暮らしの日本人にとって、本籍地は日本人であることの証明だった。その所番地は現住所以上のものだったと思う。わたしは朝倉の地をまだ見たことのない小学生だった。しかし目の前に朝鮮人がいる以上、自分が日本人であることを忘れることは出来なかった。そしてそのためには朝倉を忘れることは出来なかったのである」179


敗戦後父の地元に帰らなかったのは、父規矩次と祖母が朝鮮の地で死んだため、母の地元に帰ってきたから。

そのせいか、後藤明生は父の故郷、朝倉に妙なこだわりを持っている。祖母の繰り返し教えたことによると、「秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ」という百人一首に有名な天智天皇の歌だが、この「秋の田」とは父の生まれた土地、恵蘇宿のことだということで、それが後藤の記憶に強く残っている。恵蘇宿をなまってヨソンシュクというのがヨソンシュク風らしい。そして、それが後藤の本籍地だ。戸籍では「恵蘇宿」の部分を略して、福岡県朝倉町、となる。天智天皇の母、斉明天皇はその朝倉で死に、その死を悼んで天智天皇は木丸殿を建て、そこで歌ったのが上記の歌だと祖母は言ったそうだ。

後藤にとって九州朝倉の地、というのは、父、祖母、百人一首などがからまりあった、不思議な土地なのだ。この「不思議」というのは後藤明生のおそらくキモといっていい感覚で、ほとんどの作品が何かしら「不思議」さを核にしているんではないかと思う。特に彼の場所に対する感覚はこれに領されていると思われるほどだ。一時期の疑問符を多用した文体や、それ以降の「夢」という言葉が表題になっている作品がわかりやすい例だろう。これはまたあとで。

そこで広島へ行く用事ができたとき、その前に福岡朝倉まで行ってみようと思い立ち、そこへ行ってきたことを書いたのが、後半の短篇群だ。

これらの短篇を読み返したのは、後藤明生の後期の特徴的な小説手法のひとつ「引用」が大々的に開始される時期の作品だからだ。

●引用が始まる

後半の短篇群は五つあり、一番最初の「愚者の時間」は、九州での友人Tから、筑前邪馬台国説を論じた本を送られたことから書き出されている。自分の筑前「帰省」と、友人Tの思い出などを語りながら、植民地暮らしの人間が筑前に馴染みきれないことを描いている。そのTもまた筑前に馴染みきれなかったひとりだったのだけれど、それが筑前邪馬台国説を語り出す、というその不思議さに戸惑う様子が印象的だ。自分もまた彼と同じかも知れない、いややはりちがう、という述懐がある。


「チクゼン仲間のTが、筑前邪馬台国説を夢中で喋っていることが不思議だったのである。いったい何が、彼を夢中にさせてしまったのだろう、と思った」P162


植民地帰りの人間が、筑前ことば(チクゼンをチクジェンとなまるのだが、それが難しいらしい)になじめず、バカにされるというエピソードは繰り返し出てくる。「チクゼン仲間」とは、土地の訛りを習得できなかった同士ということだ。これは「挾み撃ち」でも出てくるし、「四十歳のオブローモフ」でも出てくる。ここでは、そこに筑前の友人Tをおき、以降の朝倉連作の枕にしている。

次が「綾の鼓」と「恋木社(ゴウノキシャ)」の二篇で、タイトルは謡曲「綾鼓」にちなんでいる(実は、書かれた順を確認すると、「愚者の時間」はこの二篇のあとに書かれている。「恋木社」と「愚者の時間」は同じ月に出た雑誌にそれぞれ発表されたのだけれど、内容から見てそうだろうと思う)。

「恋木社」というのは、「綾鼓」のなかで、綾で張った鳴らない鼓を掛けた木のあとのことで、それが社になっているものらしい。二篇を通じて、朝倉にまつわる謡曲「綾鼓」が出て来る。もともと謡曲が出て来たのは、それが後藤明生の父親が「紅葉狩」と「鞍馬天狗」を子供時分の後藤に手解きしていた(というか、読書指導)ことが、彼の記憶に残っているからである。福岡に帰省した際、同級生の古賀と竹井という友人と一緒に宴会をやっているとき、とつぜん「綾鼓」が出て来た。古賀がいま始めたところなのだという。そしてそれが朝倉を舞台にしたものだと知る(「綾の鼓」の最後で、語り手が「綾鼓」を読み、なぜそれを自分に教えてくれなかったのか得心するシーンがあるのだが、何度読んでもどうして語り手が納得しているかが私にはわからない。何か致命的に読み落としていると思う)。

「恋木社」は後日譚というか、「綾の鼓」の続きで、古賀兄が死んだという話を受け、未亡人が東京でやっている酒場の話や、祖母の墓の在処を覚えていないと言うような話が出て来る。ちょっと興味を惹かれたのは、「綾鼓」を三島由紀夫が書いているという話。「近代能楽集」に入っているという。そしてその次に「雨月物語」の「吉備津の釜」の話が出て来る。両方とも復讐譚であるということで繋がっているふたつだけれど、それはまた後回しに。

この二篇は上記のように、福岡への帰省と謡曲「綾鼓」、そして自らの朝倉への微妙な関係とがテーマとなっていて、初期の「三部作」(と中公文庫の帯には書いてあった)「夢かたり」「行き帰り」「嘘のような日常」と似た作風に見える。決して帰属し得ない本籍地の不思議さが、ちがうものにスライドして語り手の目の前に現れる。ここでは父の謡曲がそうで、「鞍馬天狗」の本を買い求めた語り手は、「わたしは父の遺品を買ったような気がしたのである」と思う。


「ただ、いまここにこうして『鞍馬天狗』があることだけで充分だった。それだけで充分に不思議だった。そして、その不思議さだけが現実だったのである。」P172

父の記憶が、こうやって目の前の「鞍馬天狗」の本にスライドする。それが不思議に思えると語り手は考える。おそらく、この感覚がこの次から始まる「引用」を駆動しているのではないか。不思議、謎、疑問符に駆られて、語り手は読みはじめる。

このあとに置かれている「針目城」「麻デ良城」(デは“低”の字のにんべんがない字)と続く短篇は、まるっきり上記のものと作風が変わってしまう。短篇の内容のほとんどが、何かを読むことに費やされるようになるのだ。

●テクスト遍歴への移行

「針目城」は


「針目城といっても誰も知らないと思う。実はわたしも、『筑前国続風土記』ではじめて知ったのである」
と書き出されている。ここでもうすでに、前三作とは小説の書かれ方が異なっていることがわかる。「綾の鼓」などでは、九州筑前への帰省を主として、そこにさまざまなテクストが重なっていくという仕方であった。天智天皇の歌、謡曲等が、本籍地「朝倉」にかかわるものとして入り込んでは来ていても、主として書かれていたのは帰省の状況であり、語り手の本籍地への複雑な感情であった。

「綾の鼓」「恋木社」に続いて書かれたと思われる「愚者の時間」では、前二作の内容を引き継ぎつつ、「帰省」のあと、帰宅してからのことが書かれている。内容については前記したので繰り返さないが、この作品の最後で、語り手は貝原益軒「筑前国続風土記」を読み始める。小説はそこでとつぜん終わる。

回り道をするが、「愚者の時間」から非常に後藤明生らしい部分をちょっと引用する。

「いまのような使い捨ての時代に、何が何でも反抗したいという気持ちはなかった。実際、誰が反抗してみたところで、時代の方では痛くも痒くもないだろうと思う。また、どうしても時代というものが気に入らなくて、死ぬということも人間には出来る。そして事実、そういう腹の立て方をして死んだ人もいるにはいるが、わたしが思うのは、変化ということである。今の時代が気に入ろうが気に入るまいが、いつまたどう変化するやらわかったものではない。これは、よし悪しの問題ではない。好き嫌いの問題でもない」147-148

何が起きるかわからない時代に生きること、そこに悲哀と滑稽さを滲ませる後藤明生らしい認識だが、それより、文中の「死んだ人」とは、三島由紀夫だろうか?

話を戻して、「愚者の時間」では「筑前国続風土記」を引用して、「笑いの衝動だけは生き残っていくような気がした」と、カフカの「審判」みたいな結句で閉じられる。なぜここで笑いが出てくるのか、それがとても気になる。というのは、ここで後藤明生が笑う理由がわからないからだ。「筑前国続風土記」を読みながら、筑前邪馬台国説を唱えるTのことを思い出しているのだが、そこでとつぜん「後藤又兵衛」という名が出て来る。Tが「お前は後藤又兵衛を探しよるとやろう」と言った気がする、と非常に曖昧なかたちで後藤又兵衛の名が現れ、そのうち語り手は「わたしはすでに後藤又兵衛を探しながら読んでいるような気がする」といい出す。ここらへんの展開がかなり飲み込めない。それまで後藤又兵衛の話など誰もしていないし、なぜ「筑前国続風土記」に後藤又兵衛の記述を見て笑うのだろうか。
後藤又兵衛自身についてはここに簡単な説明があり、黒田騒動の黒田長政とも関わりがあったらしいことがわかった。そして、黒田騒動を扱った森鴎外の歴史ものに「栗山大膳」があり、これを扱ったのが「針目城」の次に置かれている「麻デ良城」(までらじょう)である。「筑前国続風土記」を軸に、「愚者の時間」「針目城」「麻デ良城」と続いていることになる。ただやはり、「笑いの衝動」はよくわからない。

それはいいとして、「針目城」は「愚者の時間」を引き継ぎ、「筑前国続風土記」の話題に始終している。「針目城」という城にかんするごく短い記述に面白味を感じた語り手が、その部分を現代語訳して作中に挿入している。引用するだけではなく、翻訳まで行っているのだ。この一篇が「愚者の時間」から異なっているのは、そういった引用術の氾濫ぶりにある。

そして、それまでの連作では本籍地へのこだわりが作品を領していた(あとがきに、「愚者の時間」を書くことで、朝倉=亡父の呪縛から解放されたとある)のに、「針目城」「麻デ良城」では、語り手は楽しげにテクスト探索にふけっている。

「麻デ良城」になると、森鴎外「歴史小説と歴史其の儘」を読んだら実は以外に短い文章だったという驚きから、鴎外の「栗山大膳」に話が変わり、そこに出てくる「左右良」(まてら)が、「針目城」と関わりの深い城であることがわかり、さらにこの左右良(まてら)、または「麻デ良」(までら)という山の名前を「日本書紀」に発見し、そこで天皇をも脅かす山の神の存在に不思議を感じ、また鴎外の「栗山大膳」に戻り、「筑前国続風土記」の益軒が書いた「黒田家譜」を読んでみようと思う、という、アミダクジ式とのちに後藤自身が呼ぶ独特のテクスト遍歴のありさまが描かれている。までら、という名前の響きに引き寄せられ、フィクションや歴史書をもまじえたさまざまなテクストを渉猟していく、後期後藤明生の最大の特徴がはっきりと示されている。

その意味で、「綾の鼓」「恋木社」「愚者の時間」「針目城」「麻デ良城」と続く一連の朝倉連作は、「挾み撃ち」的な引用と、テクスト遍歴型の代表作「吉野大夫」「首塚の上のアドバルーン」などの引用との狭間に位置する重要な作品群だろうと思う。

端的に言えば「挾み撃ち」の引用というのは、模倣を願いながらも叶わないという構図になっていて、自身の姿に重ね合わせつつ、その差異を際立たせる効果をもたらしている。「挾み撃ち」でゴーゴリ、荷風、鴎外と呼び出される作家たちは、なろうとしてもなれない憧れの存在である。しかし、「麻デ良城」での鴎外や益軒、「吉野大夫」に出てくる様々な書物は、模倣することをそれほど願ってはおらず、ほとんど謎を解くために渉猟されるフィールドだというのが、私の考えだ。【参考→「首塚の上のアドバルーン」「吉野大夫」】

最後に、私が興味を持っているのは、「恋木社」から「愚者の時間」へ、そして「針目城」へ転換する、そのプロセスである。亡父=朝倉から、朝倉=筑前仲間、そして「筑前国続風土記」にシフトしていくのがこの連作だと思うのだが、その転換は何なのか、ということ。
たとえば乾口達司氏は(「日本近代文学との戦い」の編者でもある)ここで、ある説を提示しているが、私には首肯できない部分が多々ある。それをきちんと考えることが、近頃の目標でもあり、読み直しを続けている理由である。


前回のエントリで乾口達司氏の論へリンクを張るのを忘れていた(さっき修正した)。
リンクしたのは下の後藤明生論。

後藤明生と「敗戦体験」-同化と拒絶のはざまで-

乾口達司氏は近畿大で学び、後藤明生から直接教えを受けた学生だったらしい。オフィシャルサイトによると、さいきん花田清輝についての本を出したとのこと。
上記論文は後藤明生自身から書かないかと言われ書いたものとここにある。

後期後藤明生の引用について総体的な指摘があり、参考必須の後藤論だと思う。模倣と批評という後藤明生のスローガンを、後藤明生のいわばふたつの故郷、永興、九州朝倉という土地への同化と拒絶という図式にずらして把握しており、説得的な論になっている。後藤明生という小説家の全体を見通すにはいい。しかし、ここで述べられている論にはあまり賛同できない。
理由を幾つか端的に挙げると、

1.「赤と黒の記憶」というごく初期の作品から後藤明生全体を捉えようとしている点で、作家の作品の変遷を無視している。
2.土地を複数のテクストによって重層化している、と乾口氏は論じているが、土地とテクストの関係はおそらくもっと違ったものだと思う。
3.「同化の希求にもかかわらず、テクスト=言葉が重層化されることによって、反対に「朝倉」を内面化することの不可能性=拒絶のさまを露呈させること」と、「愚者の時間」等の朝倉連作を論じているが、連作における引用の氾濫はもはやその図式すら破壊せしめていると私は考える。
4.「吉野大夫」「壁の中」「首塚の上のアドバルーン」「しんとく問答」までをも、3の図式で整理しているが、これは乱暴な図式化でしかない。

乾口氏の「同化と拒絶」という指摘が妥当するのはせいぜい「挾み撃ち」までであり、「吉野大夫」以降のテクスト遍歴型の作品で行われている引用を、その図式によって整理することは出来ないと言うのが、私の考えだ。

初期作品、特に「母親への一通の長い手紙」などの短篇における引用については芳川泰久氏の「書くことの戦場」が非常に面白い議論を展開している。ドゥルーズの、特に「カフカ」を援用しての議論には追いつけない部分もあるが、上記の乾口氏のように主題的にではなく、作品のメカニズムにそって読み解いて行くさまはとても面白い。渡部直己氏の「かくも繊細なる横暴」には、後期の引用について、偶然ととつぜんの観点から、生きることそのものの偶発性において、あらゆる材料を「等価の糧」として紡いでいく、という見方をしていて、これもまた非常に面白かった。

私が考えているのは、渡部氏が言ったことに近いのだけれど、引用を引用として限定してしまうと、おそらく、後藤明生の引用は捉えきれないのではないかと言うこと。たとえば、「首塚の上のアドバルーン」の序盤とそれ以降の形式の差を含んだ形で読まねばならないのではないか、と。


このページのTOPへ

後藤明生レビューへ