東條慎生
雨の日


 右手に傘を、彼女はさして、じっとそこに佇んでいる。丘の上の小さな道。雨の中に霞む家と空。どこからか聞こえる、走る車のエンジンと、タイヤの砕いた水たまり。坂を下った道の遠い先には、茶色い川が激しい音を立てて流れている。下流の方では線路が川と垂直に交差していて、橋脚の上では曇った音を立てて走り抜ける電車が木々の間から少しだけ見えた。丘の斜面を覆う木の群れはこの坂の上にまで押し寄せている。奥は暗くて見通せないが、一段と高くそびえている枯れた大樹だけは、老衰にもかかわらず強い圧迫を感じさせた。霧にも似た水滴の中に音や景色が埋もれていく。木から落ちた葉が、水に押されて側溝の中に消えてゆく。
 水に滲んだアスファルト、裸足で彼女はそこに立つ。本来暖かい色をしているはずの足は、水に熱を奪われて、青と白の入り交じった石像のようになっている。傘の外から入り込んでくる雨粒が、彼女の足や腕にまとわりついて水のベールを下ろす。肌の色はだんだん薄くなっていくように見えた。傘の中で彼女の体は翳っていて、眼はおろか顔や口さえ見えやしない。雨が少し強くなった気がした。大地と空を繋ぐようにも見える細い糸の群れが、檻のように僕らを囲っている。
 ふいに彼女は、腕をのばして傘をくれた。傘の中に入った僕は、内にこもった雨音に吸い込まれそうに思った。そして彼女は全身を雨にさらす。腕には肩や頭から流れ落ちてくる雨が、肘を伝って手から滴り落ちていく。腰までのびた黒い髪が、雨を吸って重く湿って、更に黒く鈍く光る。頬も青白く、水が涙のように流れている。本当に涙なのだろうか、それとも雨だろうか。どこを見ているのかは分からないが、何かを見つめているようなうつろな眼には、ただ暗闇だけが浮かんでいる。雨粒が、彼女の顔に打ち付けている。彼女の体には雨粒だけがうろついている。
 髪に落ちた雨粒は、山の木々の中からしみ出して一つの流れを形作る川を模倣するように、様々な線を描いて流れてゆく。今にも落ちそうなほどに重い髪の毛の先からは、ぽつりぽつりと時を刻む氷柱のように雫が落ちていく。湿って一つの束になった髪の中には、地下水のように豊かな流れがあるのだろう。その横の、耳から首を伝って描かれる流れは左右対称に二つあり、片方は背中の方へ流れていき、片方は肩の窪みを経て胸元へと流れ込んでいく。胸元への流れには、眉や鼻の谷間を縫って顎から滝となって落ちてくる大きな川が合流して、肋骨の間をつなぐ胸の骨を流れる大河になった。腹やへそを下って来た流れは、足の付け根から二つに分かれていく。両足を伝っていくそれはもはや一つの大きな流れとはならず、バラバラにまとわりつく蔦のようになって一気に流れ落ちる。踝を通って踵へ通じるものもあれば、足の甲を経て指先から地面に行くものもある。大きな流れの中にない、腕や脇腹の数多の水滴たちはゆらりと揺れたように見えた瞬間、一気に他の水滴を巻き込んで生き急ぐように流れ落ちる。
 この景色を僕は、傘を持って見つめていた。雨に煙る世界は、どこか遠近感が狂っているように見えた。雨のカーテンがかぶさったあの高いビルは、本当は五十メートル先にある気がした。ビルと彼女とが、まるで同じ遠さのものに見えてくる。
 やがて大きな雨粒が一つ、空からゆっくりと降りてきた。水滴の表面には、まわりのあらゆる景色が映り込み、世界を丸ごと抱え込んでいた。灰色に覆われた空と、霞んでいるビルや坂の下にある濁流の川、車が流れる道路とか電車が走る線路、あたりに並んでいる民家やアパート、それに森や林や大きな枯木だって映っている。僕や彼女もその一つの雨粒、一滴の水の中に入り込んでいる。それが空から空気の中を降りてくる間に、水面に映り込んでいるだけのはずの世界が虚像と実像を裏返し、ついには僕たちと世界を閉じこめる。鏡の中との二つの世界。世界と世界の結節点が、空からそっと降りてきた。
 彼女の肩を、その水滴は確かに撃った。肩に落ちた水滴は、彼女の肌の色を虫眼鏡で覗いた時のように大きく鮮やかにした。それが肩から流れ出したあと、そこには空白があった。空白、ではなく林の暗がり、つまりは彼女の背後にあるはずの景色が見えていた。その雨粒の流れ下った道筋には、すべて同じように林が見える。肩から胸へと流れているあの大きな川の流域に、傷痕のようにそれは写っていた。もう一つ、水滴が落ちる。彼女の腕には深緑の葉が割り込んだ。もう一滴、それは彼女の頬を、顎を、胸を、足を、脛を、踵を背後の木々と交換した。そうして何をする間もなく、彼女の体は一筋一筋雨が降りつけてくるのとともに、掻き消すように林の中に消えていった。
 よく見ると、彼女の足下のアスファルトには、肌の色をした水の流れが、坂の傾斜にそって側溝に流れ込んでいる。側溝の中では、街に注がれた水が勢いよく流れていて、一瞬にしてその色は見分けがつかなくなった。彼女は坂の下の川に合流して、海まで下っていくのかも知れない。遠い海のどこかで、そうとはわからないほど薄まった彼女が、いつか海面すべてを覆うのだろうか。
 雨は次第に強く傘を打ちつけて、僕はその音に埋まってしまいそうだった。

 裏返しに落ちている傘は、雨を集める皿のようだった。いくら雨に撃たれてみても、僕が景色と光の中に消えることはない。雨はまだ降っている。いったいいつまで続くのか。
 しかし、ずっと遠くの山の向こうには、もう雲間からの光が射し込んでいる。雲の隙間から現れた光の筋は、そうとわかるほどはっきりと、街の一部を照らしていた。虹は遠く、雲は獅子のたてがみのように縁を燃え上がらせている。

 雨は止んだ。僕が抱きしめていた、彼女の黒くて白い服は濡れていて、その袖で顔を流れるものを拭ってみても意味はなかった。

〈了〉