イントロダクション


●後藤明生はどんな小説家か?

後藤明生は古井由吉と並んで「内向の世代」を代表する作家でありながら、その注目度はあまり高くない。古今の文学作品を縦横に自作に取り込む方法論的作風が災いしてか、一般の知名度も低く、著作の入手は困難をきわめる。幾人かの批評家は後藤明生を高く評価してはいるが、だからといって全集が出たりするわけではない。興味を持つ人がいるとしても、「挾み撃ち」「首塚の上のアドバルーン」が入手しやすいくらいで、図書館で見ることも少ない。

かといって、隠れた大傑作というような勧め方ができる小説でもない。谷崎賞受賞作「吉野大夫」などは、普通の小説家なら、「吉野大夫」という追分に実在した遊女を素材にした歴史小説を作るところを、後藤明生は延々と「吉野大夫」という遊女が見つからない=小説の素材にならないということを書き続けている。遊女の探索を軸としながら、淡々と追分の土地を歩きまわり、遊女の噂を追いかけ回す独特の小説が生まれている。これなど、通常の「歴史小説」を脱臼させる後藤明生の脱力の良い例である。

 後藤明生の方法論はつねに、「小説」というジャンルへの批評的視点を含んでいて、それゆえ、古今の様々な小説へさかのぼりながら、それとは異なる、新しい局面をひらこうとしている。「模倣と批評」という後藤明生の小説作法のスローガンがあるが、これはそんな後藤明生の方法論を集約している。 引用が縦断する作風やジャンルへの自覚的解体=構築の姿勢が、ともすると「ポストモダン」な、「脱構築」な小説家というイメージを作りだし、後藤明生を難解で、ジャンルの蛸壺にはまった一般性もなく面白味もない作家という評価に繋がっているように思える。ネットでもそんな評が見られる。

 しかし、後藤明生の小説の大きな特質はもうひとつあって、それは世界に対するユーモラスな自己認識の側面である。戦中、軍国少年であった後藤明生は軍人になる夢を抱いていたが、敗戦と同時にその「夢」がまるで嘘か何かのように消え去ってしまうという体験を持った。すべては「とつぜん」に、わけも解らず起こった。後藤明生の認識はすべてここから発していると言ってもいい。すべてがとつぜんに、つまり世界の意味を決定できる「絶対者」のいない世界では、すべてのものは、誰かに「笑われる」こともあれば誰かを「笑う」こともまた可能だ、という認識である。後藤明生が始終追求し続けた「笑い」とはそういう世界である。

笑われうる存在という自己認識から(だけではないにしろ)、後藤明生の文章の独特のユーモアが立ち上がってくる。そして、私が好きなのは氏のそのような認識、文章の味わいにある。哀しみと笑いとが溶融した「滑稽さ」の意識が、つねに後藤明生の小説に横溢している。

もちろん、後藤明生の文学的スタンス、日本近代文学において等閑視されてきた「笑い」=「方法」の文学史を復権させることも刺激的な試みであることは間違いない。二葉亭四迷、夏目漱石、芥川龍之介、宇野浩二、牧野信一、横光利一らを読み、その方法的側面を抽出する批評的資質はとても貴重なものだと思う。 とりあえず今はメモ書きだけを公開します。そのうちちゃんとした紹介文でも書ければと思いますが、どうなるかはわかりません。後藤明生読者の増えることと全集刊行を願って。

 ●「内向の世代」

1960年代に登場した一群の作家に対し、小田切秀雄がが命名した。古井由吉、後藤明生、阿部昭、黒井千次、小川国夫、坂上弘などが列せられる以外に、柄谷行人、秋山駿などの批評家も括った名称であった。

だいたい戦中に少年時代を送り、その後長年の会社勤めを経て作家になったものが多い。古井由吉は立教大学教授、後藤明生は平凡出版、阿部昭はTBS、黒井千次は富士重工、坂上弘はリコーなど。彼らの作風は戦後派あたりと一線を画し、社会的、政治的話題に極めて禁欲的で、個人的、私生活的なものを素材に書いていたことを、揶揄を込めて小田切秀雄が命名した。

黒井千次をのぞいて(会社員生活や血のメーデーについて小説を書いている)、なるほど皆小説の社会的側面は乏しい。しかし、それは戦後派以降の作家としてのある種必然的な道行きでもあった。後藤明生がそうだが、彼は戦中の体験から、徹底的に言葉を失った世代として自らを規定する。

1996年3月の「群像」での座談会で、後藤明生は戦後派の作家を復員者とし、自らは復員できなかった、復員する場所のなかった者だといっている。戦争体験というトラウマを、言葉にする手段がなかった世代だという。これはたとえば、後藤明生の「挾み撃ち」、古井由吉の「円陣を組む女たち」阿部昭「司令の休暇」などを読むと、そのトラウマ体験を言葉にしようとしてできた作品だということがわかるのではないかと思う。

戦中派少年が、いかに言葉を獲得するか。「内向の世代」の特質のひとつがここにある。出発の遅さ、会社勤めの長さ、それは書くことの方法を発見するまでに長く時間がかかったということなのではないか。政治的にものを語るということに逡巡することが、彼らの基本的なスタンスだった。躊躇、逡巡というスタンスを方法化すること、それが内向の世代の出発の遅さの遠因になっているのかも知れない。

●後藤明生のプロフィール

1932年(昭和七年)生。旧朝鮮(現朝鮮民主主義人民共和国)の永興で生まれ、旧制元山中学に入学(13歳)。折悪しくその年敗戦を迎え「“生まれ故郷”は“外国”」となる。翌年福岡県甘木市に引き揚げ。1952年に上京、二葉亭四迷のいた東京外語大露文科を受けるも不合格、翌年早稲田大学露文科に入学、「いわゆるスターリン主義の時代だったが、いかなる組織にも属さなかった」。1955年、「赤と黒の記憶」が第四回全国学生小説コンクール入選作として〈文芸〉に掲載される。その後、大学を卒業し(卒論は「ゴーゴリ中期の中篇小説」)、博報堂を経て平凡出版(現マガジンハウス)の週刊誌編集部員となる。1962年、「関係」が第一回文芸賞中短篇部門の佳作として〈文芸〉復刊号に掲載される。1968年、平凡出版を退社、小説家専業になる。1989年近畿大学文芸学部教授に、93年に学長となる。1999年8月2日肺癌のため死去。

代表作、「挾み撃ち」、「夢かたり」(平林たいこ文学賞)、「吉野大夫」(谷崎潤一郎賞)、「笑いの方法」(池田健太郎賞)、「壁の中」、「蜂アカデミーへの報告」、「首塚の上のアドバルーン」(芸術選奨文部大臣賞)など。遺稿集「日本近代文学との戦い」がある。

引用は講談社文芸文庫「挾み撃ち」の自筆年譜による。また「日本近代文学との戦い」の略年譜も参照した。
参考 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/4111/shiryou.html

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