『ウィニー・ザ・プー・マグカップ・コレクション』
「ほかに何もすることがなかったので、プーは、散歩することにしました」 あるいは僕の記憶違いだったかもしれない。最初の登場人物(?)ははたしてプーだったろうか? 「散歩することにした」というのは「出かけることにしました」ではなかっただろうか、という気もするのだが、いま手元に『プー横丁に立った家』を所持していないので確かめることができない。しかしさしあたってそんなことはどうでもいいのだ。僕の記憶の中で重要なのは、ちょうどボッティチェルリの絵画の背景をなす神話の中で海の泡から生まれるアフロディーテのように、ふと何気なく書きはじめられる(同時に読みはじめられる)小説の一行目として「ほかに何もすることがなかったから」という以上に適切な言葉はないだろうということである。そう思ったのはなにも僕だけではなかったようで、アメリカの小説家スティーブ・バーセルミはその処女短篇集に収めたひとつの作品を、 「ほかに何もすることがなかったので、彼は恋に落ちる話でも読んでみることにした」 という書き出しではじめている。しかもその小説のタイトルは「ほかに何もすることがなかったので」というのだ。これではいかにもやり過ぎというものだと僕は思う。その上こういったかたちで引用されてしまっては、もう僕がどれだけ嫉妬していようとも「ほかに何もすることがなかったので」と書き出すわけにはいかない(ほかの誰だってそんなことは出来ないだろう)。確かに、小説というものはいったいどういう風に書きはじめてもいい文学形式なのかもしれないが、やはり人格の問題として羞恥心というものは大切なのだ。ところで現在時刻は午前九時四十二分である。二〇〇九年七月十五日午前九時四十二分で、僕は満三十歳七か月と六日、それにおそらく(というのは、僕は自分が生まれた日付は知っているものの生まれた時刻までは知らないので)数時間か十数時間かあるいは数十時間か、それから何分かたったところ、まだいまもたっている最中である。昨夜は一睡も出来なかった。不眠症というわけではないし、本を読んでいたわけでもない(だいいちそれで眠れなくなるなどということはない)、ましてや小説を書こうとしてその一行目に苦吟していたというわけでもない。単に眠くならなかったので寝なかっただけである。詳しい事情はややこしくなるしあまり自分でも話して楽しい物語ではないので僕の(あるいは〈僕ら〉の)現在の境遇についての説明は省かせてもらうことにして、ごく大雑把にいって僕は長い間僕を縛ってきた労働の軛から解放されて長期休暇に入っており、決まった時間にはじまる仕事のために決まった時間に起きなくてはならない生活の習慣から自由になり過ぎてしまって昨日の(つまり二〇〇九年七月十四日の)昼間にたっぷり眠り過ぎてしまったのでどうしたってその夜に寝られるわけがないのは分かりきっていたからあきらめて起きていたというだけのことだった。カーテンがきっちり閉まっていて(薄い白レースと柔らかいクリーム色の地肌に三原色のさまざまな――簡略化された花とか草叢とか川面とか船(あるいはそれはボートかもしれず、また豪華客船かもしない、すると川面に見えたのは大海原だったのかもしれない)、猫であるとも犬であるともしれない小動物たち、星(あるいはヒトデ?)、それに太陽(あるいはクラゲ?)や月(あるいはタツノオトシゴ?)の記号――模様の描かれた厚手のカーテンが二重になっている)、朝の光を遮断している六畳の部屋は薄暗く、窓際のベッドに躯をまるめて彼女は眠っている。タオルケットが優しくその姿態を(ふとももの上あたりからおなか、そしてふたつの乳房のふくらみの下あたりまで)覆っているのは、僕が真夜中に素裸同然でおそらく暑さのためだろう掛け布をベッドのしたに放りだしてしまっているのを見かけ押し入れから引っ張り出して(冬用の布団の間に挟まっていた)掛けてやったからなのだが、それはしかし「覆っている」というよりもむしろ「辛うじてひっ掛かっている」といったほうが正確であまり役に立っているのかどうか判然としないくらい彼女の肌は露呈しているのだけれど(真っ白な皮膚の下に水と少量の空気が入っていると想像――というよりもむしろ夢想――される彼女が微かな本当に聞き取れるかどうかというほどのごく小さな鼾をかいて呼吸する度に微妙に表情と輪郭を変えるのが僕に見える彼女の肌)、それでも彼女はそのタオルケットをまるで雌鳥が卵を暖めているようにあるいは母猫が子猫たちに授乳してやっているかのように後生大事に躯を折りたたみ抱え込んでいるので、少なくとも精神的にはなんらかの安息を彼女に与えているらしい。 おはよう。
とても寒い冬の夜、町外れの街路の片隅で、狼男が死にかけている。満月が出ているのだが、すでに体力が尽きかけているので変身は中途半端なままで止まり、狼男は全身がまばらな獣毛に覆われ爪がのび背骨が曲がり四つ足になるべく腕と足の関節が歪んだ状態でアスファルトの上に転がっている。牙も中途半端な長さで黄色に汚れ月明かりがキラキラ反射して、それがちょうど狼男のささやかな墓標のようでもある。満月に変身して愛する人の血を啜り不老不死の生を謳歌してきた狼男は、あるとき人の血を啜ることに疑問を覚えもう二百年も不死の霊薬を口にしていないのだった。永遠に生きることに疑問を抱いたわけではなくて、愛する人の血を啜るという行為で生きながらえる自分の生を浅ましく思ったのだった。それももう終わる、と狼男は思っていたが、何も死にかけているときに満月が昇らなくても良いようなものだ、と皮肉な運命に苦笑いする。変身するのはとても身体に負担をかけるので、まるで薔薇の蔓に全身を縛りつけられているみたいに激しい苦痛にのたうち回り、もはや身じろぎすることも叶わず、狼男は静かに最後の刻を待って転がっている。とても寒い夜なのだが、変身するときは身体に沸騰した鉄棒が差し込まれたようになるので、まったく震えもしない。それはちょうど良かったように思う。月は狼たちの太陽といわれるけれど狼男は不思議なことに本物の太陽のほうが好きで、燦々と降り注ぐ陽光を浴び、ぽかぽかと陽気に微睡むのに至福を見出していたので、温かな、というよりもむしろ熱いくらいなのだが、ともあれ冬の寒さを感じずに死ねるというのは幸福だ。そこに一人の少年が通りかかる。とても上等な材質のダッフルコートを着た、こんな町外れの街路を真夜中に一人で通りかかる人間としてはあまり似つかわしいとは言えない少年である。少年は狼男を見ると、しずかに、けれどとても深いはっきりした溜息をついた。そういうのはやめてほしんだよ、と少年は狼男に言った。何が? というかあんた誰? と狼男は少年に答えたかったのだが、死にかけている狼男は声帯を震わせることさえできない。少年は肩をすくめる。その仕草はとても愛らしく、狼男は身体に走る痛みも熱も一瞬忘れあたまがぼうっとしたようになった。不死が狼男に与えられた機能なんだよ、そういう勝手は許されないってことぐらい、ちゃんとわきまえておいて欲しかったな、と少年は冷ややかに狼男を見つめて言う。と、そこへ五人ほどのストリート・キッズが現れる。ストリート・キッズたちは夜の町に潜む理不尽で暴力的な集団で、その五人もいずれ劣らぬ兇悪な面構えをして、全身に入れ墨を施し(冬場なのでそれは衣服の下に隠れて見えない)、手に手に角材や鉄パイプなどの獲物を握っている。低所得者層家庭の捨て子である彼らはナイフや拳銃と言った武器は持っていないが、理性も持っていないので単に殴る蹴るだけでも殺人はおてのものなのだ。「いい服着てるじゃねえかよ、ぼっちゃんよ」と五人の先頭に立っている少年がダッフルコートの少年におらぶ。ダッフルコートの少年はふりかえりもしない。ね? と、小首を傾げ、狼男に片目を瞑って見せる。「なんだこいつ!」と怒声があがるとほぼ同時に角材と鉄パイプがダッフルコートの少年に殺到し、鈍い音を立てて少年の頭蓋骨は破壊され、噴水のように脳味噌を飛び散らかせどす黒い血液が流れ、そのまま前のめりに狼男に倒れかかる。狼男が愛する者の血を啜るのには何も牙を立てる必要はない。ちょうど地面に雨が染み込むように、狼男の皮膚に生き血は吸い込まれ、みるみるうちに狼男は回復する。そういうことなのか、と狼男はダッフルコートの少年が言った言葉を理解する。そしてめりめりと音を立て変身を完遂する肉体の変化を感じながら、いまや少年の影から現れた体長二メートルを超える巨大な狼の姿に恐怖すら忘れて驚愕して立ち尽くすストリート・キッズを屠るために、ゆっくりと動き出す。
もうすぐ夏がやってくる。 「ん」と、短い息のような声を出し、身体を震わせて巧は目を覚ました。ぼんやりした表情で僕を見るのとほぼ同時に、巧は身体を伸ばして僕の胸に口唇を寄せる。吐息がくすぐったい。僕は巧の両脇に手を差し入れ、とても軽い骨格だけのような巧の身体を持ち上げるようにして抱き寄せる。股間の性器に血が集まって柔らかく勃起しているのが目の端に映る。ゆっくりと身体を押し開いて、僕は巧の性器に接吻してやる。びくっと巧の身体が痙攣する。見上げると切なそうな苦しげな表情をしている。その表情は巧の気持ちを映しているのものなのか、それとも僕が巧の身体上に予想している快楽の反映をそこに読みとっているものなのか、僕には判断不能なのだった。充血した海綿体をおしつつむやわらかい肉の筒を口蓋に擦りつけるようにして、じゅうぶんな唾液で滑らかにしごいてやると強張りはすぐに最終的な大きさになるのだが、薄い尻肉の間にぽっかりと口を開けた穴に指を差し入れることも忘れてはいない。その穴に僕は自分の性器を補填するわけだが、そういうふうに、欠如を埋めることで快楽を終結させる枠組みが、いつのまに僕に身体に、いや、僕と巧の身体の関係に《規律・訓練》化されてしまったのか、それがどうにも僕には謎なのだ。巧は確かにとても念入りに作られた楽器のようにどんな動きにも反応し良い声を出す。けれども、そういう一連の動作手順が内面化された身体の自動性を感じてしまうということは、僕はもう性交によって快楽ではなくて、快楽の記憶を想起しているに過ぎないようにしか思えない。 (了)
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